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あなたであること [世間]

なんか申し訳ないな、と思いつつ朴斎先生の水に芸術はわからないと云うエントリにトラックバック。ご本人はあまり取り上げられるのをお喜びにならないだろうけど、この文章はマスターピースだ。

何度も云っているけれど、美しさも道徳も、ひとの心のうちにあるのだ。そしてそれは、ひとが社会を構築する動物である以上、宿命的に関係性に規定される性格を持っているのだ。

ひとの数だけ関係性はある。ひととものの関わりも、その関わりの数だけ異なった意味を持つ。そこになんらかの普遍性があるとしても、それは「ひとつひとつの関係性がユニークなものだ」と云うことを前提にしてはじめて意味を持つ普遍性だ。そのことを、例えば科学が裏付けてくれる訳じゃない。

あなたが、あなたであること。あなたにとっても、社会にとっても、そのほかの事象にとっても。
そしてあなたが何かを美しいと感じ、何かを正しいと感じること。
これは、あなたのものだ。

美しさ、正しさを共有すること。このことは、共有する誰かとあなたの間の関係性の中で生まれてくるものだ。水も、波動も、共有すべき美しさも正しさも教えてくれない。あなたが考え、感じることで、美しさも正しさも初めて意味を持つのだ。

美しい言葉は、もちろんある。でもそれが水や波動に教えてもらえるものだと思っているのなら、あなたは本当はまだ美しい言葉を知らないのだ。
美しい造形も絵画も、もちろんある。でもその美しさを感じるのはあなたで、あなたはその美しさをあなたの裡の呼応するなにかとの反応の中で感じるのだ。
音楽の美しさは、そこに含まれている周波数成分なんかで決まる訳じゃない。モーツァルトは美しいかもしれないけど、でもそれは彼の生き方や彼の発する波動なんかに由来するものじゃない。

あなたにとっても、社会にとっても、そしてぼくにとっても。
大事なのはあなたであり、あなたの感じることなんだ。


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滝川クリスタル

原子と分子の結合物はたまたま美しいというカテゴリーにあてはまった共鳴だけで一生安泰でいられる物もありますが、美しいと思う心の震えはなんらそれらに影響されることなく、音も無く蒸着するような「もの」で
あれば嬉しいと感じます。
by 滝川クリスタル (2007-02-12 08:25) 

TAKESAN

今日は。

朴斎さんの文章、実に素晴らしいものですね。思わず唸ってしまいました。

水伝は、極端な還元主義であり、現象を単純化してしまう論理ですね。poohさんが仰る様に、関係性というものを、全く蔑ろにしています。価値感を、水の振る舞いに委ねようとする事自体が、人間の心の豊かさを捨て去ろうとするが如き、悲しむべき行為なのだと思います。
by TAKESAN (2007-02-12 12:43) 

pooh

> 滝川クリスタルさん

美しさと云うのはひどく曖昧で、静かに立ち顕れ、そこにあるようなものだと思っています。あらゆる合理性をその構築には動員する必要があるかも知れませんが、生み出せるのは漂うような不確かなもので。
by pooh (2007-02-12 21:33) 

pooh

> TAKESANさん

豊かさは多分、ひとが(自分を含む)ひとの心について考えたときに生まれてくるもののような気が、いまはしています。
by pooh (2007-02-12 21:36) 

pooh

って云うかですね。エントリ起こすまでもないので本音を簡単に書いちゃうと、

言葉の美しさを知りたいなら水に聴かずに本を読め。

音楽の素敵さを知りたいのなら水に聴かせずに自分で聴け。

美術の美しさを知りたいなら自分で美術館に足を運べ。

ってことです。
それを(できる範囲で)しようとしない人間が何を云っても、それは「云いたいだけちゃうんかと」で終わりなんです本当は。嫌らしい云い方ですけどね。
by pooh (2007-02-12 22:22) 

pooh

ちなみに。
人文系の先端の現場にいる方からのこう云うロジカルなエントリはまだあまり見ないので、なんだかひどく嬉しかったです。
朴斎先生からすると、たかる蠅を打ち払う、みたいな感覚もあるんでしょうけど。
by pooh (2007-02-12 22:33) 

柘植

こんにちは、poohさん。

> 人文系の先端の現場にいる方からのこう云うロジカルなエントリはまだあまり見ないので、なんだかひどく嬉しかったです。

どなたかが、kikulogのどこかに「理科離れよりも文科離れが問題」みたいなことを書かれていましたが、まさにそのとおりなんですね。前に、「文系の技術は学問に遡及しなくてもそこそこ使える」という趣旨のことを書いたときに、poohさんが「文系の学問の先端の所にはやはり厳しい研鑽があると思う、それを意識できないところに落とし穴がある」という趣旨の事を書かれましたが、その後、ずっと考えていました。

理系白書のブログのコメントに「理系の人は言葉にこだわる傾向がつよい」とかいうのも有りましたが、きちんと書かれた哲学書とかを読んでみれば、その最初には、たいてい理系の書籍には無いほどの「用いる言葉に対する定義の考察」が並んでいるものです(私はカントの「純粋理性批判」を最初の1頁で挫折しました、「理性」という言葉の意味の説明が延々と続くのでね:笑)。

朴斎さんの文章は、それほど言葉の定義とかにこだわったりしていないように見える訳ですが、朴斎さんご自身が、常日頃から「言葉」について深く考察を巡らされているので、それが自動的に書かれる文章に反映している訳です。そのため、見事に「意を尽くした」文章と成っている訳です。
by 柘植 (2007-02-13 08:22) 

pooh

> 柘植さん

厳密に言葉を使うのは、いちいち定義しなくても有効なんですよね。で、文章に染み出る信頼度が違ってくる。良い文章の根本にあるのはその部分でしょう。
もちろん(いつも論じてるように)言葉の意味は文脈依存ですけど、その文脈の中で有効な語彙を精密に選ぶ、と云うことは出来る訳ですよね。

でももちろんそれは想定する読み手の水準にもよるのであって。
朴斎先生も、コメント欄に予期せぬ水準の読み手が登場して面食らってらっしゃるようで。難しいもんです。
by pooh (2007-02-13 22:42) 

たかぎF

朴斎先生のところにコメントした「でま」氏は「うま」氏じゃないかな
…と思うのは私だけでしょうか?
by たかぎF (2007-02-13 23:39) 

pooh

> たかぎFさま

あぁ、なんかそんな気がしますね。
最初は別人を装っていても、だんだん地金が出てきているというか…
朴斎先生にご注進したほうがいいのかしら?

「狂気を装う時点で既に狂気に囚われている」と云うフレーズがもともと誰のものだったのか思い出せませんが(渋澤だったかな)なんか彼は酷い人生を送っていそうです。
by pooh (2007-02-14 07:55) 

pooh

いちおう朴斎先生にメールでご注進しました。

とはいえあぁ、ぼくも怪しい輩と思われてる可能性もあるんだよなぁ(^^;
by pooh (2007-02-14 08:09) 

TAKESAN

今日は。

私は、以前から思っているのですが、科学者なり哲学者なりが厳密に言葉を用いるのを見て、そうでない人は、「言葉に拘っていて、思考が固い」という印象を持つ事があるのではないかな、と。
でも、それは全然違うのですよね。言葉を精確に使うと、お互いに意味の共有が出来て、コミュニケーションが円滑に進みますし、色々な言葉の使い方に対して、「ここでこの人は、ああいう意味で使っているな」という、位置づけが出来て、それに合わせて柔軟に対応する事も可能です。

社会一般に、「言葉を厳密に用いるのは無粋」、という認識があるのではないかな、と思っています。それを端的に表すのが、「屁理屈を言うな」等の言い方ですね。
合理的・論理的思考を忌避する心性と、関わっている気がします。
by TAKESAN (2007-02-14 12:15) 

pooh

> TAKESANさん

性格に言葉を使うことって、実はそれほど硬直したものではなくて。文脈次第で正確かつ柔軟に言葉を使うことはできると思ってます。もしそれが通じないのなら、それは提示した文脈の方に問題がある(そこに置かれた言葉がどんな意味なのか、ちゃんと読み取れる文脈で文章を書いていない)と云うことですから。

> それを端的に表すのが、「屁理屈を言うな」等の言い方ですね。

そう云うことを云う輩に限って感性がどうしたのとかひとりよがりのことを云いたがるんです。で、車線変更のときにウィンカーを出さなかったりするんだ(偏見)。
by pooh (2007-02-14 22:27) 

朴斎

 遅くなりましたが、ご紹介とトラックバックありがとうございます。(別に怪しい輩とは思っておりませんのでご安心下さい)

 今回の文はかなり時間をかけて、途中でしばらく寝かせたりしながらやっと完成させましたが、ご好評をいただけて幸いです。

 用語の厳密な定義についてずっと話題に上っているようですが、哲学のような分野では日頃当たり前に使われている言葉や概念について、その意味を改めて一から考え直してみるという作業をよく行いますので、その場合は「定義」についての記述が延々と続くことになります。

 文学研究ではそのようなことは比較的少ないですが、それでも曖昧な言葉遣いは禁物で、どの言葉がどの範囲のものを指しているのかちゃんとわかるように書くことが求められます。これは院生の頃から論文の構想を発表しては、先生や先輩にコテンパンにやっつけられるという訓練を繰り返して身につけていくわけです。

 しかし一般向けの書物となると、論文と同じような調子で書いたのでは読んでもらえませんから、「わかりやすく、しかも精確で曖昧さがない」表現をしなければなりません。これも百戦錬磨の編集者に厳しくダメ出しされて身につけていくことになるのでしょうが(私はまだ啓蒙書を出版した経験はないので)、ある意味では論文を書くよりも難しいことで、そういう手間を惜しんで啓蒙書を出したがらない研究者も実は多いのです。

 とはいえもともと保守的な中国文学の分野でも、日本中国学会が会則を改正して「斯学の啓蒙と普及」を活動目的に掲げるようになり、加藤徹氏や二階堂善弘氏のように、一般書を次々と出している若い世代の研究者も出てきていますから、風向きは変わりつつあるようです。これを機に「知る」ことや「考える」ことの喜びをわかる人が多くなればと思います。
by 朴斎 (2007-02-15 01:21) 

pooh

> 朴斎先生

いらっしゃいませ。

今回のエントリはより多くの方に読んでいただきたいと思い、トラックバックさせていただきました。持ち上げるようで居心地が悪いですが、田崎教授の文章や菊池教授のテレビでのお話し同様、やはり研究者(=高等教育者)の方が力を入れて行われた表現と云うのは力を持つのだなぁ、と云うことを感じました。

> これを機に「知る」ことや「考える」ことの喜びをわかる人が多くなればと思います。

「知る」こと、「考える」ことに対する意識の衰弱が、ぼくを含めた在野の人文系ニセ科学批判者の主要な問題意識だ、と云えると思います。
非常にこころづよく感じております。ご多忙とは存じますが、またお越しくださいませ。
by pooh (2007-02-15 07:43) 

柘植

こんにちは、皆さん。少し言葉遊びみたいなことをしてみます。

田崎さんの名文のときもあったのですが、朴斎さんの名文に対しても「すごい名文だけど、読ませたい人には読んで貰えない」なんてコメントが幾つか出ている訳です。これについて「言葉遊び」みたいな事をしてみます。

実は「読ませたい」の部分には省略があります。たぶん、こういうコメントを書かれる人は「(自分が)読ませたい(と思う)」というつもりで書かれているわけです。ところが、実はこの省略に部分は別な言葉も入ることが可能です「(朴斎さんが)読ませたい(と思う)」です。同時に凝り性略が、変な落とし穴になる面があります。自分が読ませたいと思う、「あまり深く考えずに水伝を信じてしまう人」は「読んでくれないだろうな」と予測され、嘆かれる訳ですが、省略により、「朴斎さんも、そういう人に読ませたいのだろう」と勝手に朴斎さんの執筆意図の限定が入る可能性が出てくるわけです。その結果「朴斎さんはせっかく努力されたのに残念だ」と考えられる人も出てくる訳です。
 
ただ、田崎さんしろ、朴斎さんにしろ、別に対象をそんなに限定されて書かれている訳ではないのですね。まさに「読んで理解できた人」も皆「読んで欲しい人」なんだろうと思うわけです。
by 柘植 (2007-02-16 11:21) 

pooh

> 柘植さん

書き手としてはみんなに読んでもらいたいかも知れません。でも、読み手として「こんなひとに読んでもらいたい」と感じるのはまた別かも、です。それは文章に触発されて、と云う部分も多分あって。

ぼくは自分の文章は誰に読んでもらっても嬉しいですけどね、単純に。
by pooh (2007-02-16 22:45) 

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