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計測可能性の制約 [よしなしごと]

少し前になんとなくfuku33さんとトラックバックの打ち合いみたいになっていたのだけれど(とは云ってもこちらは日常感じてることをだらだらと垂れ流していただけだけれど)、それと微妙に重なるような内容の唯幻価値論(前編)(中編)(後編)と云うエントリを挙げられている。なんと云うか、ご本人の発想の非常に根本に近い部分を語っていらっしゃって、とても刺激的で面白い。

ただなんと云うか、ひっかかる。おっしゃることはとても納得がいって、共感も出来るのに。なぜだろう、と考えていて、気付いた。
ひどく表面的に捉えた云い方になるけれど、要するにものの価値と云うものはそれを判断する人間の恣意による、と云うことをおっしゃっている。恣意と云ってもアドホックなものじゃなくて、その人間(あるいは人間たち)の所属する社会の規範や習慣や生活スタイルや技術的水準に起因する有用性や美意識がそれを規定していく、と云うのをおっしゃっているのだと思う。

これは、そのとおりだと思う。と云うかぼく自身が、そうであるべきだ、と多分思って来て、それを整理してお書きになっているので、共感する部分が多いんだと思う。

でも、ひっかかったのだ。「その価値を、どうやって計測するの?」って。
で、このひっかかりは多分、日常的に金銭でものの価値を計測するのにすでに慣れてしまっているぼく自身のほうに原因がある話なのだ。

凄く素敵だ、と感じる「もの」がある。でもその素敵さを裏付ける指標に、その「もの」についている値札がある。もちろんいくらなんでもついている値札をそのまま自分にとっての価値だと思い込んでしまうほどには安物の感受性をぶら下げているつもりはないのだけれど、でも結果的に評価行動は「消費」になる。

値札を気にする。提供される価値も、提供する価値も、それが金銭によって計測された場合にどうなるのか、と云う意識が離れない。まるでオブセッションのようにつきまとう。そう云う価値観からは出来るだけ自由にいたいと割とこどもの頃から真剣に考えてきたぼくでさえそうだ(しょった云い方だけど)。
これはどうしたことか。どうして価値判断にそんな制約が生まれているんだ。

計測されないことに対する不安。多分ぼくだけのものではないはずだ(と云うか、これでもぼくはその種の不安からだいぶ自由な人間のつもりだった)。これはどこから来るのだろう。どんなことから生じて、どんなふうにぼくらを支配しているのだろう。

などと考えていくと、なんとなく一連のニセ科学絡みの考察とも繋がってくるような気がする。
基準を欲しがること。絶対的な基準を設定したくなること。「価格」。「収益」。「前世」。「宇宙を貫く法則」。
どんなことが、ぼくたちの「制約を求める」心理の原因になっているんだろうか。


タグ:社会科学
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