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方便(2) [世間]

前のエントリで触れた方はまだ直接ニセ科学で商売をしてらっしゃる訳ではないので、方便と云ってもまだまだ穏やかだ。でも、それを直接商売にされている方はまた違ってくる。
こちらのブログ。管理人のプロフィールがないのだけれど、「マイナス水素イオン健康どっとこむ」と云ういかにもなタイトルがついている(マイナス水素ってので稼ぎたい方大募集、的なブログらしい)。その、「ありがとう」で運が開ける「ありがとう」は不思議な言葉!?と云うエントリに触れる。

もう、商売がかかっているとシビアさが違う。

そして、いつも「ありがとう、ありがとう」と繰り返し言い続けていると、本当に「ありがとう」と言わざるをえないような現象(良いこと)が起こるのだそうです。

「ありがとうの先払い」とでもいいましょうか。

要するに、ここでは明解に「愛・感謝」は現世利益を得るための代償として捉えられている。さすが商売、そうそう甘いことは云わない。愛も感謝も、銭の花が咲いてなんぼ。で、お水の結晶のお話があった後で、

そここまで具体的にいわれると「本当かな?」とつい疑ってみたくもなりますが、心をこめない「ありがとう」でも効果があるそうなので、気楽に試してみる価値はありそうですね。

ぼくもこの「気軽さ」がポイントのひとつだとは思っていたのだけれど、ここまで明解に書かれているのは初めて読んだ。さすが「マイナス水素(ってなんだ一体)」。


タグ:ニセ科学
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OSATO

この方のブログをざっと見てみたのですが、典型的な「脅し型」ですね。
まあ商売絡みのブログ形式の宣伝サイトですので、マジに言及するのもあれかと。
ただ、こういう形式を使う手口は今増えてます。所謂捏造された口コミというものであり、こういうもので信じ込んでしまう人達もいると思うと考えさせられる所です。

「マイナス水素」に関しては当該ブログでも言及されてますが、これはkikulog ネタかと。↓
http://blog.livedoor.jp/popolin55/archives/53824144.html
あちらでも相手にされないかな。w

参考)
開発者の及川胤昭氏についてはどなたかご存知の方はいらっしゃいますか? ↓
http://www.top-vision.co.jp/ganso/
by OSATO (2007-04-24 00:22) 

pooh

> OSATOさん

いや、あまりにもあからさまに分かりやすいので取り上げてしまいました。いやもう、なんと云うか。

でも、こう云うのが発生する素地、ってのがある訳ですよねぇ。
by pooh (2007-04-24 00:32) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

>でも、こう云うのが発生する素地、ってのがある訳ですよねぇ。

わざと視点を外して素地の分析めいたことをしてみますとね。なんだか社会に「業務なら個人より責任が軽い」みたいな風潮ってあるような気がする訳です。私は法律も人に説明しますが、「過失傷害罪と業務上過失傷害罪のどちらが罪が重いか?」みたいな質問に「業務上の方が軽いのかな」なんていう人が結構います。現実には「過失傷害罪」には懲役刑は無いけど「業務上過失傷害罪」は最高懲役5年というかなり重い罪ですね。「業務上ということは、その行為をしている人は反復して継続的にやっているのだから、当然事故を防ぐ責任も重くなるのですよ」なんて説明すると「なるほど」となるのだけどね。

詳しく解析していないけど、知り上げられたエントリーはマルチ商法っぽいですね。マルチ商法なんかもね、商品のエンドユーザーとして使っているだけの頃には、「まあ、話のネタね」くらいのことを言っていた人が、いざ紹介報酬の味を覚えて本気になった途端に「絶対にこれは良いの」なんてね、トークのレベルが変わっちゃたりする訳です。本人は、「仕事にするんだから多少のことは」なんて思っているのかもしれないけど、業としてなした途端に特定商取引法の禁止行為違反として最高懲役2年以下という、結構重い罪になることをしている訳だけどね。

この「業務の方が責任が軽い」みたいな風潮というのも考えて見る必要があるのかも知れませんね。
by 柘植 (2007-04-24 10:20) 

pooh

> 柘植さん

以前kikulogの化粧品関係のスレッドに登場した方で、「こっちは仕事としてやってるんだから」と云う主張をされる方がいらっしゃったのを思い出しました。

おっしゃるような感覚、なんか漠然とぼくにもあるような気がします。でも業務でやっているからといってその分免責される、なんてことは考えてみるとありえないわけで(緊急避難、とか云うレベルの話を別にすれば、どんな立場でやってもevilなことはevil)。こういう感覚と云うか風潮と云うかはなにを根拠に生じるんでしょうね。
by pooh (2007-04-24 12:08) 

柘植

こんにちは、poohさん。とっても変な話になるかもしれないのだけどね。

>こういう感覚と云うか風潮と云うかはなにを根拠に生じるんでしょうね。

堺屋太一は会社などの組織が衰退する時に「機能体が共同体化する」ということを指摘しています。つまり、本来「おい、お前の仕事はこれなのにちゃんとやらないのは、けしからん」と組織内で叱られなくてはならないのに、「まあ、いいか」と仲良しこよしに成ってしまうという訳です。事例として、戦争中の参謀本部がミッドウェーの敗因分析を「死人にむち打っても」とやめてしまうような話をあげているわけです。

実は私は、この話から、共同体の機能体化もまた起こるのではないか?といった仮説をたてています。もともと社会のベースは共同体であり、その中の特定の必要性を満たすために機能体が生まれる訳です。原始の村に猪の巻き狩りチームができるのを例に出したりします。本来巻き狩りチームは共同体に狩りの獲物をもたらすための組織である訳ですが、機能体に属してその機能に貢献する者の比率が大きくなると、「うちの村は巻き狩りのためにある」といった意識となり、「巻き狩りのためには村中こぞって協力しろ、協力出来ない奴は村にとって必要の無い者だ」みたいになる事もあると考えている訳です。例としてスパルタという国が、「軍人の国」となり「軍人として不適格者は奴隷に落とす」となったことなどを挙げたりします。

よく考えると、日本の戦後復興から高度成長の間、この共同体の機能体への「かしづき」が顕著に表れています。「今度の日曜日は父親参観よ」「その日も仕事だ」「仕事なら仕方ないわね」という会話になんら違和感を感じないという世界です。つまり、ここにおいては共同体の基本である家庭は仕事に比べて「低い位置づけ」となっている訳ですね。もちろん、そのくらいの労力の傾斜配分をしなければ高度成長などあり得なかった訳です。しかし同時にこの期間を通じて弱くなった概念の一つが「仕事(機能体)は社会(共同体)に成果をもたらすためにある」という事です。機能体の仕事の質が悪くて社会にまともな成果をもたらさないなら、社会(共同体)はその仕事(機能体)を叱り、時には排除しなくてはならない訳ですね。機能体に「かしづいてしまった」共同体には、その部分が弱ってしまう訳です。

これが、「仕事だから良いんだ」みたいな言い訳とつながっている気がする訳です。本来、仕事であるということは仕事でないという事より「責任が重い」のは、それが社会に対して何かをもたらすという事だからなのですけどね。
by 柘植 (2007-04-24 16:08) 

pooh

> 柘植さん

お書きのことは非常に重要な示唆を含んでいると思います。
お書きのような歴史的スコープではきっと正しいと思いますし、同意します。

ただちょっと思うのが、共同体と機能体、と云う概念を考えるときに、適切な視野はどのくらいなんだろうな、と云うことです。実はこのあたりどうも勉強が足りなくてちゃんと論じることができないのですが、持論でお持ちの「人間の基本仕様」論と関連させて考えると、多分これってもっと長い歴史的スコープで考えるべきことなのかもなぁ、みたいに感じます(「機能体」の起源は果たして近代社会なのか、それともそのメカニズムはもっと深い、ある「仕様」に根ざしたものなのか、みたいな)。

なんか自分のなかで勝手に話を大きくしているような気もしますが(^^;。
by pooh (2007-04-25 08:00) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

>なんか自分のなかで勝手に話を大きくしているような気もしますが(^^;。

というか、「共同体の概念」というのはとても大きな問題なんです。まあ、焦らずに端っこから少しずつ囓る気でやらないと、丸飲みしようとするとのどにつっかえますからね(笑)。

私は「原始の村」というたとえ話をよく使います。これはいろんなものを取り去った共同体として最も理解して貰いやすい共同体の単位が数十戸から百戸程度の「村」と考えられるからです。

ここで、現実存在としての共同体と「概念として成立する共同体」といすう事を考えないとならない訳です。つまり、農耕とかが始まると村そのものも大きくなりますが、労働力と土地を求めて村同士が併合していくも小国家時代になるわけです。実はこのとき「支配者層」と「庶民あるいは被支配者層」の間で「共同体の概念」に違いが生ずるわけです。三十の村を支配する小国家の支配者にとっては、その三十村を合わせたものが「共同体」です。端っこの村が侵略された時には、残りの全ての村から兵隊を徴発して、残りの全ての村から兵糧を調達して戦うことになりますからね。ところが庶民や被支配層にとっては「村」程度が共同体としか認識出来ないわけですね。そこで支配者層は「お前たちの村は大きな共同体の一部だ」という概念の育成をしなくてはなりません。
例えば「お前たちの村は『の』という国の一部だ」と宣伝し「の国は良い所だ」と思わせようとするわけです。やがて「の国」が「わ国」に組み込まれて「わの国」となると、支配層が宣伝する共同体概念はさらに大きく「わの国」となり、離れたところに巨大な文明国でもあるとそこに使いをおくって「わの国」という証拠に金印を貰ったりします(漢倭奴国王印なんてね)。

つまり、自然発生的な共同体概念の発生は「村」レベルであり、それより大きくなると、機能体である「支配システム」の都合で宣伝される事で成立して固定化するというのが人間の歴史が示す所なんです。

明治維新を作り出した2つの私塾があります。吉田松陰の「松下村塾」と緒方洪庵の「適塾」です。教えたことは国学と蘭学で全く違うのですが、共通項はたった一つ「日本国という共同体の概念」です。

共同体を考えるときに、この「現実の共同体」と「概念としての共同体」
の両面を考えないとうまく考えきれない気がしています。
by 柘植 (2007-04-26 08:42) 

pooh

> 柘植さん

なんと云うか、すぐれて社会科学的な議論の範疇になりますね、いずれにしろ。

還元主義的に考えた、原理としての「共同体」論と、短期的な(ったって数百年のオーダーですが)近代国歌論の両方を視野に入れて理解・説明する必要が出てくる訳ですね、こうなると。なるほど、ぼくはそこで曖昧に混乱していたのか。

まぁ現時点では後者のスコープを前提にするのが有効な議論に結びつくのでしょうね。ってか手に負えるのかおいら(^^;。
by pooh (2007-04-26 22:54) 

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