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見えない怪物 [よしなしごと]

前に言及した福耳さんのエントリ絡みで、marco11さんの仮想敵を作り対立することで何かが解決したことなんてないと云うエントリを読んだ。

そう、ぼくたちは敵を欲している。裡に渦巻くルサンチマンが、自分たちをこんな状況に叩き込んだ敵を見極めようと、論難しようと、殲滅しようと涎を垂らしている(ぼくたち、と敷衍することはないかも知れない。少なくともぼくはそうだ。そしてそれはぼくだけじゃないことも知っている)。

幸か不幸か。当面敵視する相手を見つけるのに、苦労しない時代。自分の持っていないものを持っている(ように見える)存在は、いつでも敵に仕立て上げることができる。その実質が不可視でも。いや、実体が見え辛いほど、絶対悪として設定するのは容易だ。

 専門化というのは言い換えれば専門領域の不可視化である。そして人間は宿命的に不可視領域をスケープゴートにする傾向がある。

そう、見えないほうが、敵にするには都合がいい。

そうして、ぼくたちのそう云う心理を、ルサンチマンを利用して、にこやかにすり寄ってくる存在があるのだ。
ぼくたちはそう云う笑顔の連中にこそ、気をつけなければいけない。
ぼくたちはそう云う連中に簡単につけ込まれるように、多分、生まれついている。

 社会をデザインする唯一の方法は、ひとつひとつの事象を丹念に分析しつつプランを立てて、一歩一歩、少しずつ自分たちの手で築いていくしかない。

marco11さんのこの言葉に、ぼくは強く共感する。
忘れがちだけれど、そしてこのことを意識するのは辛いことだけれど、でも多分このことは胆に銘じておかなければいけないんだろう、と思う。ぼくは彼のような英雄的な精神の持ち主ではないけれど。


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TAKESAN

今晩は。

批判活動が、ルサンチマン的感情によって動機付けられているのではないか、という所は、常に念頭に置いておくべきですよね。自分の正しさを確信するのには、極めて慎重になる必要があると考えています。それは、ともすれば、優越感になってしまいかねないので。

奢らず、見下さず、自分が誤っている可能性も考え、頭を冷やして考えていきたいものです。大所高所から、ものを見たいですね。

--------

ちょっと、「批判の仕方」に関連して。newKamerさんのコメントも読んで、考えさせられる所があったので。
批判において、皮肉であったり、「わらう」戦術を用いるというのは、なかなか難しいですよね。一歩間違うと、見ている人に不快感を与えたり、相手を嘲笑っている様にしか思われなかったりするので。自分も、気をつけているつもりではありますが、強く批判する場合には、書き過ぎてしまっているのではないか、と思う事も、しばしばです。
by TAKESAN (2007-07-04 00:04) 

pooh

> TAKESANさん

いずれにせよ、いつも自省しながら自分の行動を検証していくしかないんですよね。絶対的な基準はないんですから。何かを絶対視した時点で、すでに陥穽に落ちる入り口に立ってしまう。

ユーモアは武器だと思うし、つねにどこかに持っておきたい、とは思っています。ただ、武器だけに危険なので、取扱注意なんですよね。
by pooh (2007-07-04 07:34) 

newKamer

 ちょっと昔話をさせてください。私は完璧なビリーバー時代から数えると10年近く掲示板上の議論をしています。自分の立ち位置としてビリーバーを明示していたのが5年前ぐらいまでです。

 ビリーバー要素が強かったときに「生活の中の理性と非合理」の掲示板(知っている方も多いでしょう)に参加したことがあります。そこでの私の評価は「説得不可能なガチガチのビリーバー」でした。
 理性と非合理の掲示板に持った印象は最悪でした。嘲笑もメールでの攻撃もありましたし、「人間としてどうなんだろう?」と思ったことが沢山ありました。言っていたことは「客観的に妥当」なことが多かったので、今なら理解できることも多いですし、自分に問題点が多かったこともわかりますけれども…。

 今では、自称懐疑論者で(“自称”は自分を納得いく懐疑論者と評価できないというマイナスの意味をもったprefixです)、その過程に理性と非合理の掲示板は全くプラス効果を与えませんでした。むしろマイナスでした。

 では、何が私を変えたのかという話です。

 正直、理性と非合理の掲示板ではかなり傷ついたし、批判的攻撃を受けるのは嫌でした。内に篭って小さなコミュニティーで自分を支持してくれる人とだけ意見交換していました。これはちょっとしたカルト化の一歩だったと思います。

 私は理性と非合理の掲示板の他に「如水庵」にも常連として参加していました。こちらの方も反オカルトというスタンスで、私の信じていることを否定していたのですが、「論は否定するが人格は否定しない」というのが、(特にルールづけされていないにも関わらず)なぜか徹底されていました。

 結局、「如水庵」の常連さん(否定派という括りだったと思います)のお陰で、Web上のビリーバー引きこもりから、議論に復活して徐々に「まともな考え方」に近づいたというわけです。その後も紆余曲折はありましたけれど。

 私は自分がたまたま運良くビリーバーから抜け出せたんだと思います。理性と非合理の掲示板しか知らなかったら、更生不可能なビリーバーになっていたかもしれないと思います。

 自分の体験談を過度に一般化するのはどうだ?という意見もあるとは思います。しかし、私みたいなビリーバーだって、それなりに居るんじゃないかと思いますし、乱暴な言動にメリットを全く感じないので、先のようなコメントをさせて頂きました。

#ここまで書くと私が誰なのか分かっている人もいそうですが(笑)
by newKamer (2007-07-04 15:45) 

技術開発者

こんにちは、newKamerさん。

 きくちさんの所にこの名前で書いた時に説明したとおり、私は「生活の中の理性と非合理」の掲示板に書いていました。だいたい、7年くらい前では無いかと思います。どういう書き込みをしていたか思い出せないのですが、あまり今と変わらない書き込みをしていたと思います。

>私は理性と非合理の掲示板の他に「如水庵」にも常連として参加していました。こちらの方も反オカルトというスタンスで、私の信じていることを否定していたのですが、「論は否定するが人格は否定しない」というのが、(特にルールづけされていないにも関わらず)なぜか徹底されていました。

私自身はそういう形の書き込みがしたいですし、心がけてもいますが、ニセ科学の問題に関しては、なかなかそうは行かないのだろうと思うわけです。というのは、ニセ科学の蔓延の問題というのは「社会的判断基準の狂い」を伴っており、社会的判断基準の狂いには善悪論が伴ってしまうからです。少し、その話を書かせてください。

例えば鉱石中の金の含有量を測ったとしまして、「検出できない」という測定結果が得られたとしますね。「検出出来ない」とは「含まれていない」ではなく「極めて微量である」かもしれません。自然科学的な意味では、この「無い」と「微量」の違いが重要な場合があり、そう言う場合には、「もっと感度が良い測定方法が開発されて結果が出るまで判断はペンディングしよう」という場合もあります。その場合には、結論が出るまでの間、「私は金が微量含まれていると思う」「いや、全く含まれていないと思う」と議論しても、そこには善悪感の入る余地はあまり無い訳です。しかし、別な社会的な基準、例えば、その鉱石を掘って金を精錬するかどうかという場合の判断では、採算ベースの濃度に達していない事が明らかであれば「掘るべきではない」と結論が出ます。そして、例えばその鉱山を人に売りつけたい人が「金が含まれています」と売ろうとするなら、それは善悪で言うなら「悪」となってしまう訳ですね。

 なんて言いますか、きくちさんを始め、ニセ科学批判をしている人がニセ科学批判をする理由の中に、そういう「社会的判断基準を狂わせる」という部分に対する問題意識がある訳です。もちろん、きくちさんも他の大学の先生も、その問題意識をストレートに感情的に出すという事は無いのですが、心の奥底には「これは良くないことだから批判する」という意識をもってやっている訳です。

つまり、ニセ科学批判というのは、自然科学論争ではなく、社会的な善悪論を必然的に含むものなので、どうしても「こんなのを信じるのは良くない」「信じさせるのはもっと良くない」と言った面は表に出てくる訳です。そして、善悪論というのは人格的な話とも絡むわけですね。だからこそ、きくちさんなんかも「善意による蔓延は対処が難しい」と頭を抱えられる面があるのですがけどね。
by 技術開発者 (2007-07-04 17:42) 

pooh

> newKamerさん、技術開発者さん

人格否定はしたくないですが、「考え方否定」はせざるを得ない場合があります。このふたつの間に線を引けるのか(特に受け取り手にとって)と云うのは少し難しい問題かも知れません。ただぼくは、善意やイノセンスによる免責は基本的に認めません。それは基本的に、いじめによってクラスメイトを自殺に追いやるこどもたちの「無邪気さ」を認めることと変わらないと思っています。

また、ぼくが誰かのエントリに言及する際には、その言及元の方に何かを云いたい、と云う動機であることはあまりありません(もちろんそこから対話が始まることがあれば僥倖だ、とかは思っていますけれど)。むしろそこから何かもう少し汎用性のある考察に繋げることは出来ないものか、と考えています。

ちなみに、ぼくは自分と違う考えかたをする方に、論理的に意味の通らない罵声を浴びせたことはないと思います。罵声が返ってくることはままありますが(^^;。
by pooh (2007-07-04 21:53) 

FREE

こんにちは
 
批判と否定の区別をつけることは大切だと思います。
私は批判と否定を以下のように考えています。

批判は論理的な矛盾や明確な間違えを指摘し、なぜその論をとるのかを批判された発言者に問うものであり、疑問と返答のコミュニケーションで成り立つと考えています。結果WIN-WINな関係になり得るはずです。
否定はその仮定を取らず「ありえない」「間違っている」と蹴飛ばすことです。検討の余地が無い対応です。

ですが批判ができる関係を築くには相互に議論の仕方というかお約束を身に着けていないと成り立たないのが難点で・・・。
by FREE (2007-07-05 13:47) 

福耳

ちょっと僭越だと思われそうで、また誤解をも招くかと思ったのですが、newKamerさんのお話とニセ科学の話題から、自分が過去に書いたエントリーを連想しました。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20051125/1132853212
ニセ科学の問題は、科学知識共有の問題というよりは、なんであれなにかの「信条」を媒介にして他者とつながりたい、それがある場合にたまたま「なにかを知っている水」であったりするだけで、根底にあるのは孤独と癒しの問題ではないか、と思います。そしておそらくグローバライゼーション批判も、場合によってはそのツールに使われるのだと思ったりしました。
by 福耳 (2007-07-05 18:11) 

pooh

> FREEさん

おっしゃるとおりだと思います。議論を通じて、互いに得るものがあればそれはなにより理想ですよね。ただ、なかなかそうはいかないのが現実で。ぼくの側にも当然もっと精進の余地はあるのでしょうけど。

議論で何かを得るためには、双方に前向きな意思が必要ですよね。
典型的な「議論の出来ない論者」を、kikulogなんかでは見かけますが、あれはちょっと気の毒になってしまう。議論への臨み方を間違えると、本人にも何も得るものがなくなってしまうんですよね。
by pooh (2007-07-05 21:56) 

pooh

> 福耳さん

おっしゃることはよく分かります。と云うか、ぼくの問題把握に非常に近いことをおっしゃっていると思います。ただ、ぼくは90年代以降に非常によく使われるボキャブラリーとしての「癒し」と云う言葉に強い抵抗感があって。この辺りは、そのうちエントリを起こそうと思っていますが。

エントリ拝読しました。
人間を、特にひとの「こころ」を取り扱うにあたっては、純粋な自然科学的アプローチだけでは充分じゃない、と云うのが現時点でのぼくの考え方になります。医療に必要とされるのが自然科学的側面だけではない、と云うのも感じていますし、osakaecoさんのニセ科学関連エントリや幾人かの真摯な代替医療従事者の方の言説を通じて、どんなかたちにしろ必要にされるものを提供するのは医療においては重要なことだ、とも思っています。
でも、それはやはりある意味方便でもあって。実効性をなによりも優先させなければいけない医療の現場では、ある判断の妥当性を担保する力を持つのはやはり自然科学だけなんです。このことを踏まえるのと、ひととひととの共感がもたらしうる力を認識することは、必ずしも矛盾しないと思っています。
それは、ひとに対して行われることなので。
by pooh (2007-07-05 22:14) 

田部勝也

>newKamer氏へ。

別エントリのコメントで言及されていた、「穏健なビリーバーを言葉の暴力で殺さないでください」というのが、『nanoeイオン(松下の登録商標)の効果』エントリ内での私の以下のコメント(↓)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1161050666#CID1183219553
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1161050666#CID1183381501
を指したものではないかと不安を感じて、こちらでは初めてコメントさせていただきます。
ただ、言い訳を許して頂けるならば、私は、「現時点では確かに信じているけれども聞く耳をもったギャラリー」を非難しているように受け取られないよう、慎重に書いたつもりでした。その上で、誰でも「他人がいくら誠意を尽くして論理的具体的に説明・証明しても、分からない・通用しない」状態にはなりうること、および、その状態がいかに酷い醜態を晒す事になるのか、非建設的で不毛な状態なのか──という事を訴えたかったのです。

newKamer氏の『如水庵』での経験は、ニセ科学問題に取り組もうという人々にとって、大きな示唆となるものかと思います。機会があれば、より多くの場で体験を語って頂ければと思います。
私独自の「ビリーバー」という言葉の用法からすれば、「ニセ科学の人は聞く耳を持たない・ビリーバー」にならないように、常に自戒しておく事が大切なのでしょう。newKamer氏の体験は、その事を改めて思い出させてくれる貴重なものだと考えます。

>pooh氏「また、ぼくが誰かのエントリに言及する際には、その言及元の方に何かを云いたい、と云う動機であることはあまりありません」

私も同じです。「kikulog」でも、「ビリーバー(注:田部用法)」に直接向けたコメントはしていないと思います(相手が「ビリーバー」だと気づかずにコメントした事はありますが)。

今度は私の体験を書かせて下さい。
数年前に、反相対論者(いわゆる相間さん)とやりあってしまった事があります。当時は、いくら誠意を尽くして論理的具体的に説明・証明しても、分からない・通用しない人がいる、誰でもそういう状態に陥りうるという事など考えもしませんでしたから、軽い気持ちで(もちろん礼は尽くしたつもりで)間違いを指摘し、正しい考え方を述べました。
ところが返ってくるのは、人を見下した侮蔑と激しい罵倒なわけです。どれだけ丁寧に誠意を持って我慢強く返事を書いても、人格否定の罵詈雑言が浴びせかけられるだけ──。ついに、(恥ずかしい限りなのですけど)私のほうがキレてしまって、その相手の態度を(かなり厳しい口調で)糾弾し、それでも誹謗中傷がやまないと、最後には、冷笑的に相手を馬鹿にするようなコメントを書くようになってしまいました。今ではとても後悔しています。
だから、今では、最初から「ビリーバー(注:田部用法)」と直接やり取りする事は、極力避けています。

皆様と違って、私は人間的にかなり未熟です。「売り言葉に買い言葉」となるのは日常茶飯事ですし、誠意を持って丁寧に説明する事に対して、聞く耳を持たずに、話をすり替えられたり、曲解されたりし続けられたら、腹を立ててしまい、冷静に戻るのがなかなか難しい事が多いです。
過去の苦い失敗を繰り返さないように気をつけてはいるつもりですけど、なかなか皆様のようにはいきません。そういう人が私だけでないのならば、newKamer氏の体験談は、とても貴重なものだと思います。


>技術開発者氏「つまり、ニセ科学批判というのは、自然科学論争ではなく、社会的な善悪論を必然的に含むものなので、(後略)」

私にとっては、ニセ科学批判は、社会的な善悪論以外のなにものでもありません。
by 田部勝也 (2007-07-06 00:56) 

pooh

> 田部勝也さん

いらっしゃいませ。

ネット上での議論は、どうしてもディベートを楽しむ、と云う方向に向きがちです。結果、勝ち負けを競う方向にも向きやすくて。議論は相手あってのものですから、片方がそういうモードに入ってしまって相互の了解事項にずれが生じてしまうと、機能不全に陥ってしまうんですよね。

多分そうなってしまったら、その議論からの撤退を含めて局地戦としての戦略を考える必要がでてくるのかとも思います。最終的な判断はギャラリーに委ねることにもなるでしょうし。
FREEさんのおっしゃるような意味で、「否定」のための議論は実際には誰の得にもならない、と思います。とはいえぼくもそれほど人間ができているわけではないので、これは自戒を込めて、です。

あと、これは特に田部さんに限ったことではないのですが。
それほど杓子定規なことをいうつもりはないのですが、ここはBBSではなくpoohのブログです。poohとしては、コメンテーターの方同士の議論はあまり歓迎していません。poohはwebmasterとしてpoohに頂いたコメント等には対応しますし、議論の中で見出された問題点に対する議論についてはできるだけ誠実にフォローしますが、コメンテーターの方同士の議論をモデレートすることは基本的にしません。また、この場で他のコメンテーターの方を指定して書き込みを行われても、その返答については当該コメンテーター・poohとも一切の義務を負わないことをご理解ください。

使用しているスクリプトの仕様・webmasterの運営方針もあって、例えばkikulogではそのような議論方法が(blogとしては例外的に)認められています(そう見受けられます)。ただ、この場所では、できればコメントはpoohのエントリに向けて(またはpooh本人に向けて)、あるいは「場で共用されている議論」に向けてのものにしていただけると、webmasterとしてはうれしいです。
by pooh (2007-07-06 08:13) 

newKamer

 poohさんからのお願いもありますし、それに反したくないのですが、最後に今回だけ書かせてください。

 kikulogのコメントの中で、聞く耳をもったビリーバーのギャラリーに悪い印象を与えるとしたら、それは殆どABO FAN氏やSSFS氏に対する返信だと考えています。
 田部勝也さんの投稿が問題であるかは正直良くわかりません。プラス効果もマイナス効果もありそうです。ですので、私は問題として言及しませんし、批判しようとも思いません(もしかしたら、プラス効果の方が遥かに大きいかもしれないですし)。
 おそらく何かしら「印象」に気をつけている方はほとんど大丈夫なんだと思います。問題なのは相手がとにかく酷いから、こっちも酷い扱いをしてもいいという考え方をすることだと思います。

 ABO FAN氏やSSFS氏は確かにあまりに酷いでしょう。しかし、本当に相手を説得することではなくギャラリーに訴えかけることが目的なら、そして対象とするギャラリーには説得可能性のあるビリーバーが含まれているのならば、ABO FAN氏やSSFS氏を貶めることはマイナスだと思います。
 救いようの無いビリーバーと判断される人でも、なんとなくビリーバーでも、間違えるポイントは似たようなものですし、考え方も似たようなものですから。いや、私たちですらちょっとしたことで同じ間違いをするでしょう。それが柘植さんがよく言っていた「基本仕様」という意味だと思います。

 ついでに言うと、この方面の話は、私自身も考えを深めたいところですし(私が大いに間違っているかもしれない)、是非お話を続けたいところです。そんなわけで、どこか別のところでお話できないでしょうか?
by newKamer (2007-07-06 11:16) 

pooh

> newKamerさん

あ、それほど堅いことを云っているわけではなくて。議論の共有を考えましょう、と云うことでした。例えば以前お見えになっていた柘植さんは、特定のどなたかに語りかけるスタイルで書き込まれることも多かったですが、議論の共有には留意されていたと思います。
逆にpoohはwebmasterなので、同様に議論の共有は念頭に置きつつも、回答はコメンテーター個人宛の書き方をすることが多いです。これには少しだけ、そのコメントをエントリ全体の議論のなかで位置づける、と云う意味も帯びています(ちなみに、断り書きにもあるとおりぼくは頂いたコメントを任意に削除する権限を留保していますし、実際に行使もします)。

以前ある方が別のコメンテーターの方に意見をお求めになって、結果としてそのエントリのコメント欄がそのおふたりのやり取りで埋まってしまった、ということがあったんですね。名指しで問いかけられた方は当然答えようとするので、ぼくには仕切り様がなくなってしまって(^^;。別にやめていただかないといけないような種類の議論ではなかったので、特に削除等はしませんでしたが。

で、結論としてこの場で議論を続けていただくのは構いません。この議論については、「よそでやれ!」みたいにはいいませんとも。

で、newKamerさんがお書きの内容についてですが。
なんと云うか、逃げ道をふさぐような批判の仕方はどちらの論者にもあまりメリットはないのかな、なんてことも思います。総力戦になってしまえば、どちらかが議論の場を去る、と云う結論しかなくなってしまうので。
あと、上手にユーモアを使えれば、みたいな戦術レベルの技巧も関係してくるんでしょうね。
by pooh (2007-07-06 12:15) 

newKamer

 poohさん。「よそでやれ」と思った場合は遠慮なくご指摘ください。「空気読めない奴だ」とはよく言われますので…。

 最近、この件に関しては色々と思うところがありまして、言いたいことが渦を巻いています。そんなわけで私が話を混乱させすぎていますね。拙いですが整理をしてみます。長くなりすぎましたが…。

【ニセ科学批判の目的】
 Web上の議論について、その目的は人により様々だと思います。私が対象としているのは、社会的な利益を視野に入れたニセ科学批判に限定しています(ニセ科学だけじゃないかもしれませんが)。
 目的が議論そのものやディベートである人。たんなる憂さ晴らし等々である場合は、(はっきり言うと迷惑ですが)対象としていません。

【ニセ科学批判のターゲット】
 ここが一番うやむやになってしまいました。これは反省します。大きく分けてビリーバーそのものを対象とする議論というものと、議論を見るギャラリーを対象とする議論があると思います。
 ギャラリーにも色々ありますので、思いつくままですが「批判側に立つ人」「半信半疑の人」「なんとなく信じている人」「しっかり信じている人」などに分けてもいいかもしれません。

 私の場合は、「批判の仕方批判」しているとき以外は、概ね全部の層がターゲットです。ここが話をややこしくしている原因にもなっていますね。

【弁明】
 前のエントリのコメント欄で書いたのは「ギャラリー向け」の批判の話ですね。批判している人の中に、ギャラリー向けといいながら、ギャラリー(の中でも特に「なんとなく信じている人」「しっかり信じている人」)へどう伝わるかを考えていないように見える人が多いのは残念だということです。

 今回のエントリのコメント欄で書いたのは、ビリーバーそのものに対する態度の話ですね。「説得不能なビリーバー」として議論相手を切り捨てた上で、攻撃的なコメントをつけるのは、誰の得にもならないし、むしろマイナスの影響を与える例があるということです。

【マイナスの影響とは?】
 (単なる体験談ですが)私は以前「説得不能なビリーバー」と評価されていたわけです。攻撃的なコメントをつけた人はカルト化を押し進めたといえそうです。私程入れ込んでないビリーバーも“感情的な”支持に回ってくれて、ビリーバーの閉鎖的な仲間意識は高まっていました。

 しかし結果論で言えば、私は説得可能なビリーバーだったわけです。論を否定して人を否定せずの場では説得されました。時間は掛かりましたが。

【どうすればいいと考えているのか】
 最低限「そんな乱暴なやり方じゃ、ビリーバーじゃなくても説得なんてできないから」と言われない程度の節度は必要。

 そういった状態に陥らないためには「(ガチガチの)ビリーバーは説得できませんから」と考えるのは筋が悪いのではないかと思います。私は決まり文句にして欲しくありません。
 「自分の能力では説得に莫大な労力が掛かるようなので、わりに合わないし説得しようとは思わない」という考え方でいいと思います。他人の失敗は資質の問題と考え、自分の失敗は環境の問題だと考えるなんていう心理バイアスもちょっと考慮に入れて。
 それから「言ってる事は正しいんだから問題ない」という気持ちにならないことですね。表現方法を批判した場合に、最もよく聞く返答です。

 個人的には、対峙しているビリーバーを本気で説得するぐらいの気持ちのだと、多くのターゲットに訴えかけることができると考えています。既に書いたように、間違えるポイントはガチガチのビリーバーでも半信半疑の人でもそんなに変わらないと思いますから。

 批判者に多くを求めすぎだと考える人もいるかもしれません。確かにビリーバーに比べて、批判する側にだけ非合理な負担がかかると思います。しかしこれは、そもそもなんのために批判するのか?という話に戻れば答えが出ると思います。

【私が批判していないこと】
 poohさん及び、ここでコメントをされている方の書き方。
 実質的にキツイ批判。私も「客観的事実に反する事を信じることは反倫理的な行為である」みたいな話をしたことがあります。これは実質的に相当キツイ批判だと思います。

【気付いたこと】
 ここに参加している方は、私のビリーバーに対する批判態度を殆ど見ていないはずなので、私の意見が口だけに見えるのではないかということ。
by newKamer (2007-07-06 17:29) 

newKamer

> 私が対象としているのは、社会的な利益を視野に入れたニセ科学批判に限定しています。

 というのは、私がコメントで提案、問いかけの対象としているのは…という意味です。念のため。
by newKamer (2007-07-06 17:37) 

pooh

> newKamerさん

ぼくの話をしてみますね。

ぼくの場合、ニセ科学批判の多くは対抗言論です。ですので、例えば言及先のコメント欄で話をしにいくのではなく、自分のところで独立したエントリとして書くことにしています。そうすることでユニークなURLを与えることが可能になり、テクノラティその他でも検索されるようになります。
そう云うSEO的な部分で、エントリ内でできるだけ固有名詞を使うようにしていたりもします。「水からの伝言」でブログ検索を行うと、ここのエントリは結構数多くひっかかると思います。

いわゆるビリーバーの方のエントリに言及することは、比較的少ないかな、とも思います。それよりも、例えば「科学万能主義」を非難するような安直な論理を振りかざす言説に言及することの方が多いかと思います。これは、まだビリーバーになっていないひとたちに対する「予防」に主眼を置いているからです。

対抗言論として書く場合には、当然ながら曖昧な態度はとりません。
ただし、対話が成立する可能性が見えて来た場合には、もちろんその時点でスタンスは変わります。議論が出来るのなら、可能な限り前向きなものにしたいですから。

で、ビリーバーの方のエントリに言及することがあまりない、というのには、もっと切実な理由があったりします。要するに、どのかたも同じ論理展開しかしないので(例えば水の結晶関連の言説に関しては、以前のエントリで書いたとおりどの方も「ひとの身体の70%は水」としか書きません。いかにも「自分探し」でもおっぱじめそうな「個性的」な言説です)、言及して書かれたぼくのエントリがひとさまに読ませるに値するような面白いものにならないからです。

基本的に関心が向いているのは、ニセ科学的言説を成立させ、蔓延させる背景にある共通心性です。
by pooh (2007-07-06 23:10) 

pooh

追加です。
上記のような意識で書かれているので、基本的にこのブログでどなたかのエントリに言及したときには、ほとんどトラックバックを送っています。トラックバックをどのように処理されるかについては受け取った方の自由なのですが。
by pooh (2007-07-06 23:23) 

田部勝也

poohさん。空気読めずに申し訳ありません。
ちなみに、ニセ科学の話題をするときは、好感を持てない人にまで好意的な敬称をつけるのは気分が悪いのと、だからといって、人によってあからさまに敬称を変えるのも、なんだかさもしい気がして、すべて「氏」で統一してたんですけど、ここでは、安心して「さん」付けする事にします。それにしても、こう改めて書くと、自分の人間の小ささが良く表れるなぁ(苦笑)。

エントリの話題に戻ると、「敵・味方」になってはいけないし、「勝ち負け」になってしまってはいけない──という事なんですよね。

で、私自身は、とても人間が小さい上、頭に血が上りやすいタイプなので、「ビリーバー」や「仮想敵」と議論し始めたら、攻撃的になって醜態を晒すのは目に見えているし、実際、何度もそういう体験をしてきているので、「自分の能力では説得は不可能なので、説得しようとは思わない」という事です。
ニセ科学批判を始めようとするときに、まずは、そういう認識から始める事を、私は自戒としているんですね。
多くのニセ科学は、「何でこんな事を信じられるんだろう」というものですので、不遜にも「誠意をもって理を尽くせば、すぐに分かってくれるだろう」と思ってしまいがちなんですよ。で、丁寧に説明しても、聞く耳を持たずに、話をすり替えられたり、曲解されたりし続けられて(相手も私に対してそう感じているのでしょうけど(苦笑))、結局は相手のかたくなな態度に腹を立てて、「敵・味方」になってしまうのですね。「ビリーバーを本気で説得するぐらいの気持ち」でいる時ほど、そうなってしまう傾向は強いです。「こっちはこんなに本気なのに……」という感情です。
そういうわけで、私のように「(ガチガチの)ビリーバーは説得できませんから」と考えるのは筋が悪いどころか、そう考える事によって、ようやくなんとか、「敵・味方」「勝ち負け」の応酬に自分が陥る事から、自分を遠ざけておける恥ずかしい人間もいるという事を了解して頂けると嬉しいんです。

もちろん、皆さんくらいのベテラン・ニセ科学批判者や、人間のできた方々は別ですけど、世の中、そういう人ばかりではない……という事で、お許し頂きたいと考えているわけです。

で、poohさんのエントリ記事に戻るのですけど、ニセ科学肯定側・批判側を問わず、「言ってる事は正しいんだから(乱暴な言動や嘲笑も)問題ない」と考えるようになってしまうのは──つまり、真摯な(WIN-WINを目指す)議論のつもりでいた相手が、いつのまにか「敵」に変わってしまうのは、まさに、「人間の基本性能」として「裡に渦巻くルサンチマンが、自分たちをこんな状況に叩き込んだ敵を見極めようと、論難しようと、殲滅しようと涎を垂らしている(poohさんのエントリ記事より)」人間が、そのルサンチマンに呑み込まれてしまった状態と言えるのでしょうね。
──そうならないための方法として、「ビリーバーは説得できない」「ビリーバーではなく、ROMに対して訴える」という標語を、私は自戒としているというわけです。余談ですけど、もしこれらの標語が「ビリーバーは説得できないから、相手にせずに切り捨てた上で、いくらキツイ批判をしても馬鹿にしてもいい」というように解釈される恐れが少しでもあるのだとしたら、今後は、使い方に気をつけたいと思います。
by 田部勝也 (2007-07-07 21:59) 

pooh

> 田部勝也さん

ビリーバーが説得しうる存在であるか、と云うのとはまた別に、「自分にビリーバーを説得しうる技倆があるか」と云うのもあると思うんですよね。それはなんと云うか「徳」のようなものが要求される部分であるかもしれないし。

で、ぼくにはそう云う技倆がある気が(いまのところ)あまりしないので、ビリーバーを翻意させると云うアプローチはそれほどしていません。それはぼくと云う人間の営為として、多分あまり実効性がない。まぁ自分の至らない部分についての認識と云うか。

ただ、そもそもニセ科学を信じることについての心理的メカニズムから考えて、彼らに「迫害されている」と感じさせることはひじょうにまずい、と云う気もしています。それは最悪、その思想の過激化・先鋭化に繋がっていくようにも思います。そうなってしまうより、「何云ってやがんだこの科学万能主義の馬鹿」みたいに受け止められる方が、まだ安全かと思います。そうして、あとはそれを見ているROMに期待する、と。
by pooh (2007-07-08 07:13) 

FREE

おはようございます。
  
>ただ、そもそもニセ科学を信じることについての心理的メカニズムから考えて、彼らに「迫害されている」と感じさせることはひじょうにまずい、と云う気もしています。
 
カルト化というか穏健な行動からの先鋭化は外部からの圧力の反動がエネルギー源だというのはまったくそのとおりだと思います。宗教・政治・思想などで多くの例は先鋭化が防御反応として見ると構造が似通っていますね。
by FREE (2007-07-08 10:52) 

pooh

> FREEさん

直観的に、同質のメカニズムが働くことへの危惧は生じますよね。

結果的にぼくは多くの場合戦術として「信者ではなく宣教師を叩く」と云う方法をとることが多いです。宣教師が対話に乗って来てくれれば(必ずしもこちらが逆折伏できるわけではなくても)願ったりかなったりですし、逆に宣教師がロジックも何もなく「ばーかばーか」とか言い出したら、それもそれでいいのかな、とか思います(その姿を信者や、宣教の対象となるネットワーカーたちは見ているわけですので)。まぁこの方法が正しいのかどうかは分からないですけど。
by pooh (2007-07-08 11:53) 

きくち

批判なり反論なりの書き方はcase by caseとしか言いようがないのですが、「信じている人(ビリーバーという言葉よりは広い意味)」に対しては、(1)個人的体験は否定しない(2)動機は(まともなものなら)否定しない(3)逃げ道は塞がない、といったあたりが重要なのだろうと考えています。文章でそう書いたことがあったかどうか忘れましたが、しゃべるときのパワーポイントにはそう書いた一枚がはいっています。
ただ、提唱者やABOFANのような「扇動者」に対してはこの方針でなくていいと思いますが。

嘲笑や罵倒は逆効果の場合が多く、「笑い」は難しい、と思います。ただ、どこかの段階で切り替えなくてはならない場合もありますが。
このあたりは1対1かギャラリーのいる場か、にもよります。
by きくち (2007-07-08 22:55) 

pooh

> きくちさん

いずれにせよ多分「一般的に正しい手法」はないんですよねぇ多分。でもお書きの3つのポイントはいずれも大事だ、と思います。もっともぼくはアジテーター(と云うか云ってしまえばデマゴーグ)に対して言及することが多いので、(3)についてはちょっと怪しい。それは当人に対してではなく、それ以外のギャラリーに向けて書いていることが多いからなんですけど。

ぼくが何度か書いている「ユーモア」と云うのは一概に「笑い」と云う意味ではなくて。それはむしろ視点の置き方、と云う意味合いを持たせています。同時に相手にも、自分自身にも向かうような。
by pooh (2007-07-08 23:11) 

PseuDoctor

こんばんは、こちらでは初めまして。
遅レスになってしまいましたが、TAKESANさんのブログ経由で来ています。

何というか、色々と考えさせられました。私自身の事で言えば「ルサンチマンを刺激されると感情的になる」という点は確かにあるように思います。具体的には「理屈が通じず、かつ心情に理解も共感も出来ない場合」などですね。勝ち負けで捉えてはいけないと思いつつも、そうした場合にはどうしても敗北感のような感情に捕らわれてしまい、それがルサンチマンを呼び起こしているような気がします。それに気付かせてくれたという点で、Poohさんとコメンターの皆さんに感謝します。

ただ、では例えば私がSSFSさんに対して違うアプローチが可能だったかというと、たとえリセットしてやり直せたとしても、あまり自信はありません。確かに私は揶揄するような書き方や態度に対する批判が多かったですけれども、基本的には彼が自己矛盾を起こし、かつ、批判に対して耳を塞ぎ続けている「こと」に対する批判の域を出ないように心がけていたつもりです。とは言え、上述のように感情的になって脱線した時もありますし、「勝ち負け」に捕らわれていた部分もあります。更に、SSFSさんには私の意図した点が必ずしも伝わっていないと思えます。ですので、そのあたりに気をつければもう少し上手に出来たかもしれません。
と、書いているうちに、私にもまだ出来ることがあるような気もしてきました。

いずれにしても「誰を相手に何を言うか」というのは非常に難しい問題ですね。状況に応じて臨機応変に出来れば良いのですが、それがまた難しい。
by PseuDoctor (2007-07-18 21:57) 

pooh

> PseuDoctorさん

いらっしゃいませ。こちらでははじめまして。

いや、感情的になることはあります。ぼくもご存知のとおりしょっちゅうあります(ぼくなんかkikulogで書き込みを消去されたこともあります。まぁそれはそれで納得してるので問題ないんですが)。それは仕方のないところではあるんですが、特にぼくは攻撃的なスタイルをとることが多いので、なおさら自制せねばとは感じています。「批判者」たる資格を失ってしまうので。

SSFSさんについては、おそらくもはや理性的に批判を受け止めて自省することのできる心理的状況にはないのだと思います。なんと云うか、ちょっと失礼ながらあるケーススタディとして(ROMに見せることを主眼にして)対応するしかないのかな、みたいに思っています。
書かれたテキストによるコミュニケーション以外にあまり方法のないネットにおいて、「相手が誰なのか」と「何を云うことが有効なのか」については熟慮が必要なのかな、なんてことも思ったりはします。
by pooh (2007-07-18 23:21) 

FREE

こんばんは
 
「目的のためなら手段を選ばない」から「目的を達成する手段だった『手段』を目的とする」までは遠くて近い関係だと思います。SSFSさんにはどのように皆さんの書く文章が映っているか想像するのは難しい事ではありませんが、やはり自分で気付く事でしか軌道修正はできないのでは無いかと考えます。
 
 普段から思っている事なのですが、人に強制をしないで尚且つある方向に育って欲しいと願ってもかなり難しいというか不可能に近いのではないでしょうか。(ここでの育つは勉学でもスキルの習得でもありません)周囲にいる人は気付く切っ掛けを示す事はできても気付かせる事はできない。いくら「気付けっ!!」と叫んだところで変わるわけが無いのは実生活でいやと言うほど味わっています。認識方法を再構築させるのは洗脳的なテクニックを使用しない限り、認識方法やアプローチの方法の軋みを自覚するのを待つほか無いのではないかと。ただこの軋みを自覚し受け止め再構築するにはものすごい負荷がある訳で、生半可なものではない事は間違いないと思います。今の自分を否定し、あるべき自分へと投企する事そのものだからです。
 
 他人は待つほどサービスが良いわけでも、縁が強いわけでも無いのは当たり前で、向き合って示唆するだけでもどれだけサービスの良い誠実な対応あるかが、理解していただけないのはしょうがないと思いつつも残念でもあるわけです。
by FREE (2007-07-19 00:05) 

PseuDoctor

うーん、もはや手遅れかもしれませんが、あと一度だけSSFSさんと対話を試みてみようと思います。これを最後にするつもりです。
by PseuDoctor (2007-07-19 00:08) 

pooh

> FREEさん、PseuDoctorさん

なんと云うかですねぇ。
彼については多分、「読む」ことが必要な種類の示唆については通じない可能性が高いと思うんですよ。「気付き」と云う言い回しはカルトの洗脳に多用されるので嫌いなんですけれど、それをもたらすのはもちろん容易ではなくて。ぼくは FREEさんもPseuDoctorさんも例外的な怜悧さをお持ちの方々だと認識してるんですが、そのおふたかたをして届く言説をなし得ない。

ちょっと酷いことを書くと、言説なり行動なりの有効範囲と云うものも存在するのかな、とも思います。それは受け手によって制約されるものでもあるのかも。
by pooh (2007-07-19 00:39) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。少し別な所でも書いたのだけど、最近、ニセ科学批判について考えたたとえ話を書いてみます。

日本人の失明原因の第1位は糖尿病網膜症です。糖尿病の進行に気が付かないまま生活していた人が突然片目の視力が極端に落ちたりしして、眼科医のところに飛び込んできたりするわけですね。でもって眼科医は網膜症の進行を食い止めようと網膜の血管をレーザーで固めるなどの対処治療をするわけです。でもね、その時、眼科医は「これは目の病気ではなく糖尿病という内科の病気で、ちゃんと内科的治療しないと目だけじゃなく全身にいろんな症状が現れて死に至りますよ」という事をきちんと理解して貰わなくては成らないわけです。

我々のやっているニセ科学批判というのも、なんとなくこれと似ている気がするのです。社会の意識というか考え方に何か重大な問題な生じていて、その症状の一つが「ニセ科学の蔓延」のように思える訳です。

我々が「それは科学的におかしい」とニセ科学を批判し「そんなものは信じないでください」と警告するというのは、眼科医が網膜症の進行を食い止めようとレーザー治療をしている部分と同じであって、なんら根本の原因となっている糖尿病の治療には結びついていない訳ですね。

眼科医がやらなくてはならないもう一つの仕事として、「これは糖尿病ですよ、糖尿病を内科できちんと治さないと目だけでなく命も失いますよ」ときちんと患者に説明する部分があるわけですが、我々はそれをするには、あまりに能力が足りないのかも知れないと思います。眼科医は医師ですから、当然専門外でも糖尿病について或る程度知っていますからね。でも、我々は科学という中のさらに狭い分野の専門家にすぎず、「この症状の根本原因は自然科学の中にあるのではなく、何か社会の意識などの中にあるのだろう」と分かっても、それをきちんと説明するほど社会学などに詳しくない訳ですね。

糖尿病網膜症の患者さんの中には、「糖尿病です、きちんと治療しないと目だけでなく命も失いますよ」と言われても、「いや、目の病気だ、失明さえしなければ良いのだ」と糖尿病という現実から逃げる人もいるみたいです。そして結局、糖尿病壊疽で足を失い、最後に命を失ったりするわけです。きちんと医師が告げても、なお、そうやって病気から逃げる人もいる訳ですから、社会学などが専門では無い我々が「これは自然科学の中の問題では無く、社会の意識に問題が生じているのです」と頑張っても、「いや、これは自然科学の問題だろう、その中で解決しろ」という圧力にサラされるのも当然なのかもしれないと思ったりもします。
by 技術開発者 (2007-07-19 08:04) 

田部勝也

技術開発者さんのおっしゃる事には、心の底から同意します。私が一番言いたくて、どう言っていいのか分からないでいた事を、すべて言ってくれた気がします。かなり、すっきりした気分です。私が、科学そのものではなく、道徳や価値観の問題に強くこだわるのは、そういう背景があるのだと思います。

で、エントリ記事の「仮想敵」にも関わる話なのですけど、私は、コストとベネフィットを考えたとき、狭義の(田部用法での)ビリーバーである特定の個人を「説得」「転向」させる努力に、あまり意味を見出せないのですよね。
「説得」している姿勢をROMに見せる事は、意味が大きいと思っています。でも、本気の「説得」はリスクが大きすぎるように感じるんです。上で書いたように、ビリーバーと「対話」しようという真剣な善意が裏切られたとき、自分の誠意と善意を裏切った相手に対して、怒りとか憎しみとかいった感情が吹き出してしまうと、ROMに対しては最悪の印象を与えてしまうわけですよ。それは、上のほうでnewKamerさんがおっしゃっている通りなのだと思います。

また、だいぶ以前に、きくちさんが「(前略)信奉者を理詰めで追いつめると、「科学でなくていい」になるかも、(後略)」と言った事が、ずっと頭を巡っています。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1130480344#CID1131017370
いまは、上のほうのnewKamerさんの「本当に相手を説得することではなくギャラリーに訴えかけることが目的なら、そして対象とするギャラリーには説得可能性のあるビリーバーが含まれているのならば、ABO FAN氏やSSFS氏を貶めることはマイナスだと思います」「攻撃的なコメントをつけた人はカルト化を押し進めたといえそうです。私程入れ込んでないビリーバーも“感情的な”支持に回ってくれて、ビリーバーの閉鎖的な仲間意識は高まっていました」という言葉が胸に突き刺さっています。

技術開発者さんのおっしゃる「社会の意識に問題」の中には、「敵・味方設定」とか「二分法的思考法」とかもあると思うんですね。エントリ記事ではないですけど、私たちは、誰かを「絶対悪として設定」せずにいられるのか、誰かが「絶対悪」に見えるのは、その背後の「社会の意識に問題」があるという事をROMの人たちに気づかせる事ができるのか──という、より高いレベルで「ニセ科学批判」を考えるようになる人が、(きくちさんたちの努力を考えると)もっともっといても良い気はします。みんながそうである必要はないと思いますけど。
──じゃあ、どうすればいいんだ……と言われると、それが私には分からないのですが(苦笑)。そもそも、私が考えるような方向が本当に望ましいのかどうかさえ分からない。
とりあえず、SSFSさんに対しては、こんなふうになってしまう・こんなふうにさせてしまう強い指向が「人間の基本仕様」として確かにある──という事が、少しでもROMの人たちの印象に残れば、個人的には成功かな……と。
by 田部勝也 (2007-07-19 22:38) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくなんか、「おまえ科学者でもないくせに。すっこんでろ」ってな批判に晒されてるわけですが。で、「だから科学の問題じゃないんだっての」と云う主張を継続的にしているわけですが。

と云うか、ぼくの場合もともと順番が違っていたりもするんですが。「ニセ科学の蔓延を生じさせるような世情の薄気味悪さ」が先にあって、その発現形態としてのニセ科学を批判することに繋がってる、って云うか。
by pooh (2007-07-19 22:59) 

pooh

> 田部勝也さん

残酷な云い方であるのを承知で云うと、基本的にSSFSさんはもう「発現するケーススタディ」として扱うのが適切だと思います。彼自身を救うことはもはや第一義じゃなくて(こんなこと書くとnewKamerさんに叱られてしまいそうですけど)。
by pooh (2007-07-19 23:03) 

PseuDoctor

>FREEさん
>周囲にいる人は気付く切っ掛けを示す事はできても気付かせる事はできない。
これはまったく仰る通りだと思います。私も現実には断念してしまった事が何度もあります。ただ、他人に「気付かせよう」とするのはある種の傲慢だと思いつつも、自分が気付いている点に気付いてもらえないのには何とも言えない歯痒さというか、焦りの様な感情を覚えます。

>Poohさん
>言説なり行動なりの有効範囲と云うものも存在するのかな、とも思います。
うーん、確かに残酷ですね(笑)。あまり認めたくはないけれど、冷静になってみればどう考えてもPoohさんの仰る通りなのでしょうね。どうも、我々は常に有効範囲を手探りしながらコミュニケーションを取っているのではないかという気がしてきました。

>技術開発者さん
以前、実名で活動されていた方も、ニセ科学の蔓延を社会の問題として捉えようとしておられたように記憶しています。
ど素人の単なる思い付きに過ぎませんが、ここ二十年くらいの間にバブル崩壊に代表される既存の価値観の崩壊と、インターネットの急速な普及による情報の洪水に同時に晒されている事が影響しているのではないか、という印象を持っています。
by PseuDoctor (2007-07-19 23:41) 

技術開発者

こんにちは、PseuDoctorさん。

>ここ二十年くらいの間にバブル崩壊に代表される既存の価値観の崩壊と、インターネットの急速な普及による情報の洪水に同時に晒されている事が影響しているのではないか、という印象を持っています。

まあ、「関係する」ということでは、大きな原因の一つではあるわけです。ただ、一番理解して欲しいこととして、「社会意識の変化」のうちの最も怖い部分は、何か大きな原因で大きな変化が起きる部分ではなくて、その前に、小さな原因がいろいろと積み重なるようにして、「じわり、じわり」と進行していた変化の部分だと思うんですね。糖尿病網膜症の発症にしても、その元になる糖尿病(この場合は2型で考えてください)は生活習慣のいろんな積み重なりで「じわり、じわり」進行していて、その上で強いストレスとか受けたところで突然に発症しますでしょ(お医者さんに私みたいな素人が説明すべきことじゃないですけどね)。

既存価値観の崩壊ということ一つとっても、経済がマクロ化することで、私が「世の中はグルリと回っている」と言ったりする感覚が、おそらく数世代かけて少しずつ薄らいできていたのだろうと思います。前に書いたかもしれませんが、金色夜叉の寛一は金儲けに走るとたちまち金持ちになるわけですが、読者はそこに不自然さを感じないわけですね。なぜなら、彼は帝大生だからです。帝大生は頭が良いのだから金儲けに走ったら儲かるのが当然だと社会は思っていたし、同時に帝大生は普通は金儲けに走ったりしないで、もっと何か社会の大事なことに能力を使うものだという共通の概念があるから、この小説は成立しているわけです。この小説の時代から村上義彰までの数世代の間におきた「じわり、じわり」の変化こそ、私が恐れ、気にしている部分といってよいのかも知れません。
by 技術開発者 (2007-07-20 04:08) 

pooh

> PseuDoctorさん

思うんですが、いずれにせよやっぱり「完全に正しい」立場ってないじゃないですか。それこそ二分法的に危険な気もするし。

同様に、「完全に有効な議論の仕方」というのも多分なくて。これも、(特定の場でしか有効でない、と云う限定をしたとしても)もしあったら多分とても危険な気がします。

そう云う意味では、コミュニケーションについて「手探りをする」と云うことそのものに結構積極的な意義を見出すことも可能なのかな、なんてぼくは思います。と云うか、いつも臆面もなくそれを公開の場所でやっていますけれど。
by pooh (2007-07-20 07:55) 

pooh

> 技術開発者さん

なんかいつもの議論になるような気はしますけど、いずれにせよ変化は起きるんですよね。それが望ましいものであろうとそうでなかろうと、しかも通常は全体的なバランスを欠いたかたちで。それは単純にあるいくつかの要因が「悪役」として登場したから、と云う話にはもちろんならない。また、変化を起こす(ある特定可能な)ファクターが登場する前のほうがよかった、とも多分ならないんだと思います。

ただ、じゃあ単純に現状に最適化された行動が正しいのか、と云うとやっぱりそう云う話でもなくて。と云うのは多分、「現状」と云うのはつねに何らかの面で歪みがあるので。

例えばグローバリズムと云う面で考えると、すでにぼくたちは自分の知覚の及ぶ範囲で、自分を取り囲む社会全体をイメージすることは不可能です。また、そのなかでの個人の位置づけやなしうることの範囲も、相対的に縮小している、ということになるのかもしれない。
でも、だからといって所与のものとして現状を受け取るべきか、と云うとそういう話じゃ多分ないんですよね。依然として個々人が社会の成員であることには変わりはないし、人間は人間なんですよね。
by pooh (2007-07-20 08:09) 

PseuDoctor

>技術開発者さん
なるほど、真の脅威は「小さな変化がじわじわと積み重なっていくこと」なのですね。どうしても私などは目に見える大きな原因を探してしまうのですが、本当は小さな部分にこそ注意しなければならないというところでしょうか。
ところで、こういう話題の時にいつも気になっている点があります。相変わらず素人の戯言ですが、ちょっと書かせてください。これは原因というよりもむしろ現象とすべきなのでしょうが「日本では無形の行動規範が徐々に崩れてきている」という気がしています。技術開発者さんが「社会の健常な保守性」と呼んでいる概念と重なる部分もあるかもしれません。例えば欧米では薄れつつあるとはいえキリスト教的な価値観(人によってはユダヤ教、イスラム教、その他など)に人々は強く影響されており、精神的なバックボーンを形成しているとも言えるでしょう。一方で我が国でも、かつては「お天道様や世間様に顔向け出来ない」「ご先祖様に何と言ったら」などというような「道」とか「恥」とかいった文化があり、それが人々の行動規範として機能していたように思いますが、それが徐々に崩れて現在では殆ど修復不可能なレベルまできている。しかし、だからといって「昔は良かった」「道徳の授業を復活すべし」というような意見に全面的に賛成する訳にもいきません。Poohさんの仰るように既に変化は起こってしまっているのですから、新しい基準を見出さなくてはならない。無理に過去の規範を復活させなくても、例えばそれが「ネット世論の発展形」のようなものでも別に構わないと思いますが、少なくとも有効に機能している規範がないように見える現在の状況は好ましくないと思えます。
ただ悩ましいのは、こうした「お天道様」「ご先祖様」「世間様」などといった概念は、別に科学と対立するものではない筈なのですが、対立概念であるという誤解を生じやすいのは確かなようです。そこに、自然回帰主義や懐古主義とニセ科学との接点があるのではないでしょうか。例えばマクロビオティックなどは、まさしくそういった感じがします。

>Poohさん
「手探りそのものがコミュニケーションの一部である」と言っても良いかもしれません。少なくとも相手のキャラクターを知ろうとする行為な訳ですから。ですので「手探り行為に積極的な意味がある」という立場には賛成します。
そのうえで、手詰まりになってしまった場合には、どこかで「諦める」という選択をせざるを得ない場合も出てきているわけですよね。
by PseuDoctor (2007-07-20 23:14) 

FREE

こんばんは
 
社会に対して短期的には影響が少ないものでも長期的には大きな変化をもたらすことについては塩野七生「海の都の物語」や「ローマ人の物語」などに描かれていますね。もしかしたらパラダイム的なもので、その中で生きているこの時代・この社会で生きている人にそれが掴めるものなのかわかりません。人と人との向き合い方や生きていく作法・思考形態の緩やかな変化は、変化のみが警告としてつかめるのかもしれません。
私個人的には現在のひとの在りようを形作ったものの一つとして「消費主体」の偏った形成を考えています。これについては他のエントリーで書かせていただいた事があります。本来消費者として関係付けられなかった物や消費するものでない物までその関係の中に取り込まれている事が問題の一部にあるのではないかと。
 
コミュニケーションについてはまさに発信者と受信者の共同作業ですから、知りたい・伝えたいという動機がなければもはやコミュニケーションではないと思います。受信者が相手の言葉を理解していると思っているのは、相手の言葉に紐付けられた私の中の語彙なわけで、だからこそこの受け渡しに使われる言葉は大切にしないといけないということを
SSFSさんがどうも重要視していないように感じられます。うまさんにも同様の感じがしました。コミュニケーションが発信のみで成り立っていると考えているのではないかと受け取れる危うさとでも申しましょうか。実際そう聞いたら違うとおっしゃるでしょうがどうもそんな感じがしてなりません。いや、答えてくれないかもしれませんが・・・。
実生活でコミュニケーションにおける誠実さを面と向かって言ってくれる人など早々いないと思うのです.
kikulogでSSFSさんに対する厳しい言葉や、その機会を維持し続けるきくちさんの、親切さと優しさは本人には理解されないと思いますがSSFSさんにとって貴重なものだと思うのです。きくちさんはうまさんの時でさえ決定的な事があるまで場を提供していましたし。もちろん乱暴な書き込みもある事は事実ですし、私も感情的に書いたこともあります。それでも延々と付き合う事はなかなかできることではありません。
 コミュニケーションは一人ではできない、あのkikulogのエントリーこそ言葉がそれのみでは伝えられないという事を示しており、水伝のいい反証なのかもしれません。
by FREE (2007-07-21 00:48) 

pooh

> PseuDoctorさん、FREEさん

つねに昔の方がよい、と云うことではないんですよね。よいものが失われるのが悲しいことであったにしても。でも、なくなったものに「あったはずだ」として依拠するのは単純に危険で。
ただまぁ、「現状」を云うのを切り出すとそこには必ずあるバランスの欠如のようなものは見いだせるんだろうなぁ、とも思うわけです。そこで必要とされるものが過去にあったものなのか、あるいはこれからつくりあげられるものなのか、と云うことを見通すことは難しいわけですけど。

消費と云うふるまいが規定する倫理、と云うことについてはぼくも「感情労働」と云う角度から少し考えています。

コミュニケーションについてはぼくは自分の能力をあまり信用していないので、諦めるところでは諦めてしまいます。その相手にコミットすることにどこまで意味があるか、みたいな部分が判断基準ですね。

ネット上のコミュニケーションは基本的に文字情報によるバーバルなものに限られるわけで。そうすると、事実上成立していないコミュニケーションも成立しているように見えてしまう、と云うようなこともあるかと思います。まぁSSFSさんはうまさんとは違うと思いますが(うまさん、こちらではとりさんを名乗っていたひとについては、器質的な障害もありうると思います)。
by pooh (2007-07-21 07:20) 

FREE

>pooh さん

おはようございます。
 
感情労働という角度からならこのような本はどうでしょう。
「渋谷 望  『魂の労働-ネオリベラリズムの権力論』 青土社」
もしかしたら既読かしれませんが。
by FREE (2007-07-21 09:02) 

pooh

> FREEさん

ご紹介ありがとうございます。機会があれば読んでみます。

もうずっと以前から、「癒し」と云う昨今流行のクリシェに対する薄気味悪さについてのエントリを書こうとしているんですよ。いい機会だからもう少し考えてみようかな。
by pooh (2007-07-21 09:12) 

TAKA

最近、ふと思った事です。

ある日の庭でくつろぐ、午後の紅茶のひと時。そのスコーンをゆっくり手にしたウッドチャックは、顔を上げ、遠くに浮かぶ、アルタイの山稜を遥かに見つめ、こう呟きました。
「議論の目的とは何なのでしょう。もしかしたらそれは、次の様なことでは、ないでしょうか。」
・・・・。
ああ、有意義な時間を過ごせた。
出された記事を受けて、色々考えて、考えるところをそこで伝える事が、出来た。
そして再び他の人の意見をそこで、聞くことが出来た。
また、さらにそれを受けて、自分の思考を見直すことが、可能に成った。
おかげでまた、新たな視点が持ち得た。

できればまた、この人たちと、議論したいものだ。
そして、見ていた人たちに対しても何か、役に立てたのならば、幸せだ。
自分の思考を磨き続けたい。
これからも。
決して今の自分に、踏みとどまる事なく。
・・・・。
「『提起された論。それ自体にとどめて言及する。』常にこれが出来る様に成った時にこそ私は、poohさんをはじめ、他の先輩方に認められる賢者へと、成れるのでしょうね。」

それに対し、相方のローツェ・フェースは、こう言いました。「実入りの少ないスコーンは、ただの素コーンだ。歯ごたえが無い分、味気も無い。」

最後は偶然訪れていた、放言者のナンガ・パルバットが、こう締めくくりました。「リンゴを齧ると、歯ぐきから血が出るだろ。それもこれも、我輩の歯ぐきが、弱っているからだ。ドゥハハハハ!」
________

皆で議論を共有できない賢者に、一体何が、残されるのでしょう。
私は恐れます。
自分の姿に拘り、人を寄せ付けず、孤高のK2の頂きで、その絶望の勝利の果実を、一人寂しく、味わうことを。
________

こういった感じで御座います。ここまで読まれた御方で、もし何か想起されましたら、お暇なときにでもレスしてくださいませ。何しろ有限ですからね。時間は。

…さてと、これから時間をかけて、探しに行くとしますかな。あの細胞活性装置を身につけた、その喋る貴重なウッドチャックたちを。
by TAKA (2008-05-24 05:59) 

pooh

> TAKAさん

昨今のここの無惨な流れから見て、ぜったいこのエントリはTAKAさんに発掘されると思っていました。
ここで自分で書いたことを、改めて胆に銘じようと思います。
by pooh (2008-05-24 07:00) 

TAKA

poohさん、こんにちは。

ここの本文より引用
>その実質が不可視でも
>いや、実体が見え辛いほど、絶対悪として設定するのは容易だ

気になったので、これに関する例え話を作ってみました。(一部参考にしたのは、五期の鬼太郎アニメ「鬼太郎と実体化したベアードの戦いっぷり」です)

『議論での勝利、あるいは自己満足』
語り:「とあるネット上での、論争。参加した論者たちは皆、勝利を強く欲するものばかりであった。」
語り:「読者たちは、募る興奮を抑え、注意深く見守っていた。」
語り:「長い駆け引きが続いた。多くの論者たちが、その議論を罵りながら撤退していった。やがて、二人の論者のみの遣り取りとなった。」

若者:「僕のターンっ!客観的なデータの、獄炎乱舞だ!」
大論者:「ば、馬鹿な!この私が、完全に論破される?…ありえない!絶対に、ありえない!」
若者:「今日の僕は、負ける気がしない…。最強と言われた鬼太郎の親父さえ、凌駕するっ!」

大論者:「あの小僧が、ここまで成長していたとは…。以前は、私の論駁に震えていた…。まるで別人だ!」
大論者:「今後は、あの者に最大限の注意を、払わなければならん!…フッ、面白い。実に面白い。ふははははっ!」
大論者:「と言う訳で今日は、このぐらいにしといてあげるね(^^。」

若者:「負けを認めるんだな?」
大論者:「か、勘違いしないでよねっ!本当は、ワシの勝ちなんだからね!読者に謙虚さを、アピールするためなんだからね!…ほな、さいなら♪(^-^。」

若者:「フっ。…そう。言い訳に終始する、哀れな大人の姿。愉快だなあ。あっはっは。」
若者:「…。」
若者:「あっはっは。」

語り:「ひと時の栄光に酔う、若い感性。彼が操る焦燥のバイクは、もうどうにも止まらない。」
語り:「果たして今後、優しく諭してくれる大人の論者が、彼の前に現れるのだろうか?巡航速度を維持するブログ主よ、迷える若者を真に導け!」

若者:「議論は勝ち負けだっ!」
・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ、例え話を作ってみました。

『二分法、そして選択』
ある日のこと。先輩は、後輩たちに問いました。

先輩:「質問がある。『見た目がシンプルな懐疑ブログ』と、『萌えキャラで溢れるニセ科学ブログ』の場合、どちらのブログ主を支持する?」
若者A:「その場合、萌え系のブログ主さんですね…って、騙されるもんか!」
先輩:「私もだ。」

先輩:「質問だ。『淡々と説明が続く懐疑ブログ』と、『ボーイズラブで溢れる耽美なニセ科学ブログ』の場合、どちらを愛読する?」
若者B:「アタクシも騙されませんわ。ボーイズな内容でも、愛読はありえませんわ。おほほ。」

先輩:「私もだ。…と言いたい所だが、少しだけ迷う僕が居るorz。」
・・・・・・・・・・・・・・
今日は、こんな所です。次は、一年後になるかもです。
by TAKA (2009-04-03 23:10) 

pooh

> TAKAさん

もう、なんて絶妙なタイミングで掘り起こすんですか。

頭を冷やします(いや、べつに熱くなってるわけじゃないですが、自覚的に)。
by pooh (2009-04-04 05:36) 

うさぎ林檎

poohさん、はじめまして。

皆さんのコメントをROMした後では、場違いな気がして書き込むのは気後れしますが、勇気を出してみます。

「ニセ科学批判」という表現は、”ニセ””批判”という強い単語で作られた元々厳しいモノですよね。相手を「偽物」として批判する。冷静になるととても覚悟の要る、自分自身を絶えず振り返らずには要られない行為だと思っています。そんな事を言う資格がお前にあるのか?と問われた時に口籠もらずにいられるか自信がありませんでしたから、私はずっと対岸の火事のようにこの問題を眺めていました。その時はネットで問題が取り上げられている事も知りませんでした。

でも、あるBlogでニセ科学に関わる悲劇が進行するのをROMした後で、これでいいのだろうかと考える自分を無視する事が出来なくなりました。哀しい事が起きないために自分にも出来る事はあるのではないのだろうか、そう考える事を自分に許しても良いのではないのだろうか。黙っていない事は社会を構成している一員としての義務ではないか。そう考えてコミットするようになりました。

とは言っても、足を引っ張っているだけかもしれないんですが・・・覚悟はしていましたけど難しいですね。

by うさぎ林檎 (2009-04-04 10:01) 

pooh

> うさぎ林檎さん

> とても覚悟の要る、自分自身を絶えず振り返らずには要られない行為

本質的には、そう云うものだと思います。それができなければ、空疎な「正義」を錦の御旗にするような行為になってしまう。それはとても危険なことです。
ニセ科学批判にコミットする人間は、しばしば自分の動機に言及します。
FAQでは、このあたりに記載のある内容ですね。

http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/15.html#id_2f15428e

こう、なんと云うか、こう云うタイミングでTAKAさんは過去エントリを発掘してくれるんですよ。怖いひとだ。

> 哀しい事が起きないために自分にも出来る事はあるのではないのだろうか

そう、耐え難い事態が、現実にニセ科学によって生じることがあるんです。
そこをどう考えるのか、ですよね。
by pooh (2009-04-04 12:22) 

田部勝也

>うさぎ林檎さん

かつて、lets_skepticさんが書いた文章を引用しておきます。
-----【以下引用】---------------
必要なのは一人一人が間違わないことではない。ときに間違ってもいいから*8、自己修正の原則を忘れず議論を続けることだ。絶対に相互批判を忘れないことだ。相互批判を忘れれば、たぶん腐る。

自己修正はばつの悪い行為だ。自尊心も傷つくかもしれない。でも、厚顔無恥よりはましだ。いっそのこと、自己修正機能を持つこと自体を誇りとして、自尊心の置き所にすればいいんじゃないだろうか*9。

科学は自然を理解しようとしただけだ。しかし、科学技術という今ではそれなしで生きていけない副産物を生んだ。懐疑主義もニセ科学批判も相互批判を忘れなければ、自己修正を忘れなければ、何かを生み出せるに違いない。きっと、たぶん、おそらく、ひょっとしたら。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081127/p1
-----【引用終了】---------------

「冷静になるととても覚悟の要る、自分自身を絶えず振り返らずには要られない行為だと思っています」というのは、別に「ニセ科学批判」に限った事ではないと思うんです。「社会のなかで生きていくという事」「大切な人たちと関わり合いながら生きていく事」にとって何より大切な心構えだと、私は考えています。
by 田部勝也 (2009-04-04 23:15) 

pooh

> 田部勝也さん

ニセ科学を批判する、と云う行為は、とても社会的なおこないなんですよね。いや、じっさいはあらゆる批判はそう云う意味合いを帯びるんですが、現状そこの部分の自覚を忘れずになんとかやってこられている、とは思っています。
いや、ぼくがじゃなく、総体として。
by pooh (2009-04-05 06:40) 

うさぎ林檎

poohさん、こんばんは。

やっと仕事が一段落しました、この時期は自業自得とはいえ大変です。愛犬の散歩もままなりませんでした。

田部勝也さん、ありがとうございました。そうですね私は個を生かすために、公を大事にした方が良いことが結構多いのでは?と考えています。まぁ、公というと大げさで「よそ様に迷惑を掛けない」位のモノなんですが、それが社会の一員として生きる術ではないでしょうか。上から見る下ではなく、下から見る上の視野を大きく持つ事も必要ですよ、ね。

私はこのような場所にお邪魔する時に気をつけている事があります。簡単で当たり前な事ですが、その人と実際に相対した時に口に出来ない事は、書かない事です。その上で話したい相手に届く言葉を探します。言葉が通じないとしか思えない方がいらっしゃる事は承知しています。実社会の自分の身の回りにだっているんですから、ネットで出会っても当たり前ですよね。議論がロジック対決の時、これは他に手練れの優秀な方がたくさんおられますから、私の出る幕などありません。(ココで技術開発者さんが登場すれば!なんて思う事も多々)ちょっと無責任ですがお任せします・・・です。

でも時にトンデモ無いことを仰有ってるのに、どこか不安そうな空気を感じるんです。袖すり合うも多生の縁、お節介を承知で”アタシはこう思うんだけど”と口を出す事が何かの役に立てばいいのに、自分に厳しく、他人にも厳しく、でも出口を一緒に探すことができればと思います。だって「見えない怪物」なんていないよ、本当はみんなよく知っているはずですから。
by うさぎ林檎 (2009-04-07 19:36) 

pooh

> うさぎ林檎さん

ぼくはぜんぜん仕事が一段落してくれません。と云うかつぎからつぎへと襲ってくる感じです。とほほ。

> その人と実際に相対した時に口に出来ない事は、書かない事です。

うわ、これ、できているかどうか自信がありません。精進します。
(ぼくの場合面と向かってしゃべることのほうがきついかも、ですが)

> その上で話したい相手に届く言葉を探します。

これはいつもこころがけています。ただ、ひょっとすると、「届く」と云う意味が違うかも。
ぼくの場合「届く」と云うのはかならずしも「受け入れられる」と云うことではなかったりするので。
例えばぼくはあまり罵倒はしませんが、罵声しか届かないひとには用いると思います。

> でも出口を一緒に探すことができれば

これはぼくも思っているんですけどねぇ。うまくいかないときはやっぱり相手のせいにしたくなる。

> だって「見えない怪物」なんていないよ、本当はみんなよく知っているはずですから。

そう思いたいです。叱咤と受け止めて、精進します。
by pooh (2009-04-07 21:48) 

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