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脳と倫理の位置づけ (「脳のなかの倫理」ガザニガ) [ひと/本]

こちらのエントリのコメント欄で内海さんに薦められて、とても興味深かったので読んでみた。

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

脳のなかの倫理―脳倫理学序説

これは面白かった。脳科学者が問題と向き合う、と云うのは、こう云うことだ。

とは云え、これもまた基本的には「問題設定」の書物だ。倫理の問題に対して脳科学がどう云う場所にいることができるか、なんらかの寄与をしうるのか。実際に脳科学が倫理の問題にアプローチするとすれば、その接点たりうるフロンティアはどこにあるのか。著者はそれを文芸の言葉でも、自然科学の言葉でもなく、いわば「一般向け解説書」の言葉で綴る。必要十分な論証と、すんなりと頭に染み込む曖昧さのない言葉で。

ただ、書物の性格上「フロンティアを解説する」だけに留めることはできない。当然ながら作者の立ち位置も問われることになる。この本の中で著者が呈示する基調低音は、脳科学が社会倫理に対してなし得ることについて非常に楽観的なものだ。倫理はその根源を脳のメカニズムに持つ、と主張するものの、その関連性の追及が既存の倫理を根拠づけ明解な判断根拠を得ることに寄与することはあれ、それに破壊的な影響を持つことはない、とする。個別の事象で云うと、例えばスマート・ドラッグによって脳機能をブーストすることは、結果的に社会に対する大きな影響力を持つことはない、と述べる。

この楽観性が妥当かどうかは分からない。
ただ重要なのは、ガザニガがこの本の中で彼の踏まえている学術的フロンティアをきっちりと分かりやすく示したうえで、なおも読むぼくたちに対して、彼の主張が妥当なものかを考える余地を与えていることにある。脳の機能、と云うある絶対的なものと、倫理と云う社会性のなかで(関係性のなかで)生じてくる相対性を持ったもの。このふたつのものの関係について考えるための材料を揃える仕事と、それについて彼自身の結論を出す仕事を、彼はこの著書の中で混同していない。もちろん彼は自分の結論が妥当であることを示す論考を行っているけれど、ぼくたち読者には(彼の示す学術的成果をベースに)そこに疑問を差し挟む余地が与えられている。

文芸の言葉を使った書物には、こういう自由度はない。
ぼくはそこに、自然科学の徒としての著者の、なんと云うか誠実さのようなものを見て取った。

ぼくたちはこの書物から、自然科学のフロンティアと社会にあるものがどのような直接的な接点を持ちうるかと云うことについて多くの示唆を得ることが出来る。それはただそれだけのものかも知れないけれど、そう云う点に置ける地に足の着いた論考は、その成果と称するものを無分別に文芸の言葉で与えてくる書物よりはるかに重要だと思う。
とても面白かった。内海さん、推薦ありがとうございました。


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コメント 6

LINUS

凄く面白そうな本ですね。「読者に考える余地を与えている」、とおっしゃっていますが、とても大切な事だと思います。よく居ますよね、社会心理学者とかで「独善的」な人って(まあ、政治家は論外ですが、笑)。「地に足の着いた論考」も大切だと思います。確かに文学の言葉は曖昧模糊として、かつ何らかの「劇的なエンディング」が求められるものだと思いませんか?

ああ、「つんどく」がまた増えそうです。

ちなみにpoohさんは七夕には何のお願いをかけましたか?
by LINUS (2007-07-08 08:58) 

pooh

> LINUSさん

面白かったですよ。

倫理と云うのは、社会的な現象です。それは関係性の間から立ち現れてくるものなので、個別の人間の脳における機能から直接生まれることはない訳です(と云うことをガザニガ自身、この本の中で述べています)。従って、個別の脳の器官としての機能を取り扱う脳科学と倫理とはストレートに結びつかない(本来対象とするスコープがまったく異なるので)。従ってそこで述べられることは、自分野内で云う意味とはまた次元の違う「仮説」になるわけです。そしてガザニガは、そのことをきっちりと示したうえで、「倫理は脳の機能を起源として生じてくるのだ」と云う自説をぼくたちアカデミズム外の人間に向けて問うているんですよ。これは誠実な態度だと思います。
なにしろ、閉じた学問の領域の中で「独善的」になることがそもそもできない問題なんです。そのことからガザニガは視線を背けていない。

申し上げにくいのですけど、「科学を背景にしていることを前提に、文学の言葉を使って言説を行う」と云うのは、LINUSさんが心酔されている某脳科学者への批判です。文学の言葉は、閉じることが出来る。でも、自然科学を踏まえて語っていると云うことを言説の前提(および説得力のコア)にする以上は、その閉じた文学的言説の中で自覚的にその自然科学的根拠への充分な言及を行わないといけないと思うわけです。そうでないとそれは、「理系の人間による分学的エッセイ」の域をでなくなる。
それはそれでいいんです。ただ、そうするとその言説は文学的審美の対象となりこそすれ、自然科学的思想とは縁の切れたものとなってしまう。
それが悪いものだ、と云うつもりはありません。ただ、そう云う質のものであることを読者にちゃんと示しているのか、そこを曖昧にすることで読者にミスティフィカシオンを行っていないか、と云う点で、ぼくは彼の誠実さを疑問視しているわけです。

七夕に願をかけるのは忘れていました。つれあいと安いレストランで食事して、家に帰ってそのままうたた寝してしまって、気付いたら午前0時を過ぎていました。仙台の七夕は旧暦で来月なので、構わないんです(と云うことにいま決めました)。
by pooh (2007-07-08 09:23) 

LINUS

早速のお返事ありがとうございます。

そうですか。倫理的な問題として「宗教」がありますよね。私は宗教は「心の庭のようなもの」として捉えています。つまり「なくても良いけどあるとホッとする」位の捉え方です。ご指摘の某科学者さんですが、彼のアンテナは彼方此方に巡らされており、私はこの世の中の納得いかない事、或は大切な事をひもといてくれる水先案内人、のような存在として捉えており、実は彼の「クオリア入門」もちゃんとは読んでいません。「プロセス・アイ」(小説)や「生きて死ぬ私」(エッセイ?)などの方が単純に面白かったので。。私は東京の新宿にある余丁町という所に住んでいて、熱心な信者とは言えないのですが、たまに近くの真言宗のお寺のご本尊の前でボーッとしています。お寺の主人が「今週の一言」みたいなお言葉を書かれるのですが、今日は「死に進んでいるのではない、今を授かり生きて居るのである」みたいなお言葉でした。私はタバコもプカプカ吸いますし、アボリジニ並みに自由人で倫理とかは苦手だったのでしたが、poohさんが書かれていた「スマートドラッグ」的なものにハマって酷い眼に遭い、生活態度を改めました。

誠実であるという意味合いでは、私の心酔している某科学者さんは結構いい加減です。ただ彼のキラキラ輝く存在感にに惹かれて追っかけをしています。彼の行く末をこの眼で見届けてみたいのです。

とはいえこの本、早速買いに行ってきマース。

PS
poohさんは仙台にお住まいなのですか?私は以前、仕事の関係で土樋という所に2年程住んでおりました。食べ物はうまいし、海山温泉と三拍子そろっていて大好きな街です。
by LINUS (2007-07-08 09:58) 

pooh

> LINUSさん

仙台ですよ。
いまちょうどご近所エントリをひとつ書いたところです。土樋もいいですよね。麗しいところです。

これまでニセ科学についてのエントリを書いて来て、その中でいまのところ妥当かなぁ、と思える結論のひとつとして、「科学が信頼に足ると考えられる根拠のひとつは、その中にビルトインされた誠実さだ」と云うのがあります。科学の方法に則る以上、誠実さは必要とされるものです。

もちろん、例えば文学は他の手法でその結論を担保できると思いますし、誠実さは必ずしも必須ではないでしょう。でもそれをするのは文学者であって、科学者ではないですよね。そう云う手法を選ぶ限り、例えば「脳科学」と云うようなものに棹さすことはできなくなるんですよ。
by pooh (2007-07-08 11:47) 

ノース

一風変わった、脳内構造のトンデモホームページがあるのですが、よろしければ、ご批評願えないでしょうか?
by ノース (2007-07-08 15:52) 

pooh

> ノースさん

すいません。
ここは実は「反トンデモ」サイトではないんですよ。
by pooh (2007-07-08 18:29) 

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