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伝わるもの、突き刺さるもの [よしなしごと]

少し久しぶりに美術館へ行った。特別展は靉光が来ていて、美術に疎いぼくには彼は「どこかで名前を知っているだけの画家」だったので、いったい彼がどんな画家だったのかを確認に行った、と云う感じだった。大雨の中で常設展も見て、ついでに傘をさして庭園の彫刻を眺めた。庭園の内外に繁茂している植物の濡れた緑の凶暴さがなんだか印象的だった。
それからミュージアムショップへ行って、数十年ぶりに美術手帖のバックナンバーを買った。

美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 美術出版社
  • 発売日: 2007/04/17
  • メディア: 雑誌


基本的に、ぼくは美術がよく分からない人間だと思う。まず自分でまったく絵が描けないし、色彩感覚もない。好きな画家はいるけれど、ほんとうの意味で理解しているのか、と云うと自分でもよく分からない。と云うか、その表現から受け取ることが出来るはずのものをすべて受け止めることが出来ているのか、と云う根本的な部分から、あまり自分で自分を信用できない。なんと云うか、美術そのものが与えてくれる快楽、と云うものを受け止める力が、自分にはないような気がするのだ。

靉光にしても、ひとつひとつの作品が語りかけてくるものはまぁ自分なりに受け止めることは出来たのだけれど、全体を通してまとまった印象として自分のなかで組み立てるにはいたらなかった。これはこの画家の資質に由来する部分もあるような気もしないではないのだけれど、それよりもそもそも自分が美術に対して立ち向かう角度にも関係してくるもののようにも思える。

タイミングは前後するにしても誰にでも訪れることなのか、それとも単に個人的な出来事なのかは分からないけれど、18くらいのときにいろいろな事柄への関心がいちどきに広がるような時期があった。当時ぼくの周りに登場した人間たちとの相互影響も多大にあったんだと思うけれど、ぼくはそれまで近寄らなかったいろんな分野に猪突猛進的に突っ込んでいった。思えばその時点でそもそも入り口を間違えたようなものもあるけれど(ぼくはジャズはセロニアス・モンクから入った。普通に考えるとこれは大間違いだ)、それでもそれはぼくの「ひとのなすこと」に対峙するときの姿勢の根幹を形成する結果となった(幾多の批判を承知したうえでなお、ぼくはいまでも世界をユング派的に捉えようとする習性のようなものがある)。

そしてその頃、美術を理解しようとしたぼくの前に開いた入り口はシュルレアリスムだった。だから、ぼくが美術に求めるものは、そこで得られるものによって形成されることとなった。
気付かない、暴き出された内面。晒された欲望。ぶちまけられた臓物のような無意識。隠されたものをおもてに引きずり出して、再構築して呈示すること。それらによって傷つけられ変容する自分の意識を感じる、目眩に似た感覚。

少し前に、ぼくはどちらかと云うと批判的なスタンスで茂木健一郎の「脳と仮想」についてのレビューを書いた。それはこの書物に著者の「脳科学者」としての知見を期待したからだったのだけど、そこを離れて読んだとしたら、そこになされている著述の断片には共感できるものが幾つもあった。

一見逆説的なことに、すぐれた芸術作品には、どこか、人の心を傷つけるところがある。人は、芸術作品に接することで、積極的に傷つけられることを望むとさえ言えるのである。
脳と仮想/茂木健一郎

ここから続く文章には例によって「その傷つけられる感覚にはまごうことなきクオリアがあって云々」などと述べられているのでどうでもいいのだが、このフレーズ自体には共感する。そうして、ぼくにとって、ぼくを傷つけるものは純化され、研ぎすまされた「意味」だ。

ヘンリー・ダーガーが少し流行っているように見える。
買い込んで来た美術手帖の5月号で何人かのひとが述べているのと同じく、ぼくが初めてダーガーに接したのは1993年に砧の世田谷美術館で催された、アール・ブリュットをテーマにした「パラレル・ヴィジョン展」だったと思う(ちなみに多少曖昧な記憶を辿ると、これは女の子と出掛けたような気がする。この年齢になると過去の自分の驕慢を反省することも出来るけど、それにしてもなんと云う場所をデートに選んだものか)。多くのアウトサイダー・アーティストの「作品」が居並ぶ中で、名前を覚えているくらいなので相当強い印象を受けたのだと思う。でもそれは、むしろその表現の安易さ・凡庸さと、それを積み重ねていく異様な情熱、と云った部分だったように思う。その印象は、いまも変わっていない。

ダーガーはその圧倒的な物量の作品(いや、点数としてはむしろ「ひとつだけ」なのだけれど)を、誰かに伝えようと云う意識をいっさい持たずに「生産した」。既存の「愛らしさ」を持つどこかから引き写して来た少女たち。彼女たちがぶちまける、解剖学の教科書からそのまま転記したような内臓。兵士たちも、将軍たちも、それぞれどこか別の場所から引きはがされ、ダーガーの紙と水彩の世界にサンプリングされる。

そこにあるのは確かにダーガーの生のイマジネーション、生の思惟だ。そして例えば、ぼくはそれに触れておののく。自分の中に呼応する(あるいは呼応しうる)ものを見つけ、重ね合わせることで。

でもそこに、傷つけられる自分はいない。
ぼくはそこに圧倒的な物量と、それを成したダーガーと云う人間の意識を感じ取ることができる。そのことそのものは確かに圧倒的だ。でもそこから引きずり出されるのは意識の表層からすぐ下、触れられないほど遠くないレイヤーだ。そこにはタンギーの、デルヴォーの、ロセッティのもたらすえぐるような感覚はない。ユトリロの描く白壁や、あのどこまでも理詰めのダリの描く荒野にさえ感じ取るような自分の深いところに辿り着く感覚を感じることはない。
そこに感じ取れるのは、あえてユング的に云えば意識のすぐ下に眠っているコンプレックスに対する刺激だけだ。刺激としては多少強いかもしれないが、その程度のものはちょっと気をつけて眼を配っていれば男性向け雑誌のグラビアにも転がっている。

ダーガーが流行しているように見える。
どうしてもそこに、「分かりやすさ」を求める意識が透けて見えるような気がして仕方がない。
どこの書店でも見られる、帯に「感動」と大書した単行本が平積みで溢れる風景のような。


タグ:表現 仙台 近所
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コメント 2

corvo

こんばんは。
僕は以前から、アウトサイダーアートと呼ばれるものに対して、それらは本質的にアートという問題ではないだろうと感じていました。
プロフェッショナルであるか、アマチュアであるかということではなく、表現に対する覚悟のなさ、狂気のなさ、あくまでも純粋で無垢なだけの残酷さに辟易していました。とても表現として評価されるものではないと思っています。
真に芸術的なものは、ダーガーの絵など比べ物にならないほどに、精緻で、過剰で、狂気をはらんでいると思います。僕にはとてもつまらない落書きでしかありません。
by corvo (2007-07-23 03:23) 

pooh

> corvoさん

アール・ブリュットに、その名のとおりのなにかしら「生(なま)」のものがあるのは確かだと思うんです。ぼくの記憶のなかにダーガーの名前が残っていて、改めてちょっと理解しようと思ったのも、多分それに触れたからで。

でも、多分それは出来上がった作品にたまたま立ち現れる、いわば偶然のようなものだと思うんですよね。そこになにかしらひとの営為としての芸術があるわけではなくて。そういう意味でダーガーの持つある「強度」のようなものは感じ取れたし、それが多分いまちょっと流行のようになっている源泉だとは思うんですが、でも正直立ち現れているものは(分かりやすく、また届きやすくはあるものの)なんか記憶にあるよりたいしたことないなぁ、と云うのが実感だったりしました。

もう、正直これは素人の憶測でしかないんですけど、そこに提示されている「生」のものはさすがになまなましく届きやすいものではあるけれど、それはそこまでのものなのだろうなぁ、と思います。でもそれが称揚される世の中って、みたいなものもありますが。
by pooh (2007-07-23 07:55) 

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