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心に棲むもの [世間]

黒猫亭とむざうさんの娑婆気は仮名書きでと云うエントリを読んだ。畠中恵の「しゃばけ」シリーズについての論評。このシリーズについては、ミステリを基本的にあまり読まないぼくも文庫で追って読んでいたりする、と云う話はそれとして、このなかで黒猫亭さんはこのシリーズで特徴的に登場する「妖怪」たちを通して、ニセ科学について触れていらっしゃる。

そういう確認しようのないものは最初から相手にしませんよ、というのが科学の大前提であるから、科学がそれらの対象を相手にしないのは当たり前のことなのである。それで別段そういう現象や事象が在ると「信じられていること」自体に対しては一切言及していないのだから、トンデモサイドのほうが恰も科学的アプローチであるかの如く装って正統的な科学の徒に因縁を附けているわけであり、だから心霊研究だの超能力研究だのという「擬似科学」は有害なのである。

たとえば幽霊だの超能力だの異星からの宇宙船を信じるなら、「信じる」と言えば好いだけの話である。自分が無前提に在ると信じている事柄に科学のお墨付きを求めるから有害な疑似科学に騙されるのである。当たり前の日常の理屈では推し量れないものについては誰かがその実在を実証しなければ信じられない、これは普通の理性的な現代人の感じ方だが、信じられないなら信じなければ好いだけの話であって、それでも信じたいからと言って誰かに論証をせがむのは莫迦のやることである。まず十中八九まで何かの見間違えや解釈の問題にすぎない理不尽な対象の存在を信じたいのであれば、自己責任で宗教のように盲信する以外にはないのである。

だいぶ端折った引用になってしまったけれど、例えばapjさんがニセ科学の定義と判定について考えると云うエントリで挙げられているニセ科学の定義、(1)科学を装う、(2)科学でないと云う言葉の意味は、要するにこれだけの話だ。この定義の部分については、ニセ科学批判の社会的意義だの、その実効性だのと云った議論の入り込む余地はない。言葉遊び的にその部分を絡めてどうこう云おうとする向きもあるけれど、それは本来議論のレイヤーが違う。

違うレイヤーの議論を、その「違う」と云う部分を無視して行おうとすることは、意図的である、ないに関わらず議論の実効性を弱めようとする営為にほかならない。

引用が前後するけれど、

たとえば超能力研究家などという人々は、たとえば人の心を読むという超能力者が相手の微妙な仕種や生理現象や言葉尻に対して無意識の直観が働く人だというふうに説明されると無闇に反撥するが、それで何処が気に入らないのかサッパリわからない。それらの人々が存在すると主張している能力が普通の科学の規範において存在を認められただけなのに、変な波動がどうしたとか科学的に検証しようのない原理でなければ承知しない人が多いのは理解に苦しむし、それらの人々が「研究」の名の下に科学的な手法を装っているのは嗤うべき愚昧である。

と云う部分に強く同意する。科学の俎上に乗る、と云うのは基本的にそう云うことだ。

その意味で科学はひとつのツールでしかない。ひとつのツールでしかない以上、その本来の使い方でしか有効ではない。本来の使い方を否定するような方法で使用しようとすれば、それは「役に立たない」ものになる。要するに、そのような使い方では「科学」としてはなにも寄与しない。寄与していない以上、それを「科学的だ」と主張することは虚偽であり、また主張しているものは「ニセ科学」となる。
寄与しないのは、ツールの側の責任ではない。またツールの性能が劣っているから、と云うことでもない。

ほんの幕末くらいまでの日本人は妖怪や幽霊の存在を満更迷信だとは思っていなかったわけで、武家身分の高等教育を受けた大人の男性なら、「怪力乱神を語らず」の教え通り妄りに怪異の噂を真に受けて喋々したりはしなかったが、元々「怪力乱神を語らず」というのは「理屈でわからないことは語っても意味がないからつまんない無駄口を叩くな」というほどの意味で、怪力や乱神など「ない」という話ではなかったわけである。

言葉を何度も変えて書いてきたけれど、これらは科学の発達とともに「なくなった」訳でもない。いまもひとの心のなかには妖怪がかたちを変えて棲んでいると思うし(ここでは呪術的なもの、と云う言い回しで論じることが多いけれども)、それは科学の進歩とともに追放されるべきもの、でもない。

ただ、ある意味科学と云うのは、これら呪術的なものに依拠して世界を判断することに伴って生じる錯誤や不効率を回避するための手法であり、効率よく世界と向き合うためにひとが積み重ねてきた智恵の結晶だ。ひとが万能でない以上その智恵も万能ではないけれど、その有用性を否定することは、人間が歴史のなかで積み上げてきた智恵そのものを否定することにつながる。
それは傲慢なことでもあるし、危ういことでもある、と思う。

それらの「未確認飛行物体」群の中には、正体を確定し得るだけの材料が最終的に揃わなかったとか、そもそも正体を確認する必要性を認められなかったものがあるわけで、それ故に「未確認」な儘に放置されるのだから、それらの対象の正体が何であるかという言及はすべからく「空想」である。在りそうな空想かなさそうな空想かというだけの違いで、最早それは科学が扱う対象ではなくなるのである。

それ故に、「UFOは非科学的だ」というのはいろんな言葉を端折った乱暴な表現なのである。だからオレは、他人から「UFOを信じるか?」と聞かれたら「おまえ、莫迦だろう」と答えることにしている。幾らなんでも言葉吝みにも程がある(笑)。

ここで黒猫亭さんのおっしゃる言葉吝みと云う部分に、ぼくは問題の所在の一角があると思っている。
それはここで繰り返し論じている「分かりやすさ志向」や「紋切型思考」の生む問題点と同質のものだと思う。結局のところ、それは本来所与の前提とはできないものをあいまいなまま無定義で前提として語ろうとするスタンスであり、そこには意図的な、あるいは意図せざるミスティフィカシオンがしばしば生じることになる(法律用語で云えば前者は「悪意」、後者は「善意」と云う言い回しになる)。

意図的にミスティフィカシオンを生んでいればそれは詐欺だ、と云うことで片付くけれど、難しい問題になるのは後者の場合で。ここでリテラシ、とか云う議論にもなってくるのだろうけれど、この言葉も大概クリシェ的な使われ方をされる場合が増えているので、注意して使わないとまた議論の空洞化につながってしまうことになる。

ところで。
ここまで黒猫亭さんのエントリから何箇所か引用させてもらったけれど(引用の順序が元エントリの叙述とまるきり違ってしまった)、重要なのは引用部分における黒猫亭さんの論理のなかで、特別な科学的素養がないと理解できないような内容がひとつも含まれていないことだと思う。
そう、これはまさにコモンセンスの問題なのだ。

それはそれとしてぼくがミステリを読まないのは、個人的に「謎解き」と云うものにほとんど興味がないからで。ただ、ミステリと云うのは文学を成立させる手法としては非常に便利で(なにしろ謎を設定して、登場人物にその謎を追求させることでとりあえず読者に読ませるだけのストーリイはできてしまうので)、その手法を巧妙に利用した「文学」としての個別のミステリ小説には惹かれることもある。謎はどうでもいいとしても、その謎解きが文学の道具立てとして有効に活用されていれば、「よくできた小説」として楽しめる、と云う感じだったりする。
で、元エントリの論評の対象となっている「しゃばけ」シリーズについては、ある面絶対的にイノセントな存在としての妖怪たちを活躍させ、その妖怪たちの人間たちとは異なる(一面清潔な)倫理観を人間社会の諸現象に対置させていることが、池波的なシビアな町人の世界の現実をジェントルネスと好いバランスで描くことを可能にしているんじゃないかな、みたいに考えてみたりしているのだった。


タグ:ニセ科学
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亀@渋研X

うまい!
「しゃばけ」は知りませんが、ほかの部分は全面的に賛同できます。というか、ここ数日、こういうことを書きたくてジタバタしてました。先を越された、という感じです。

>定義の部分については、ニセ科学批判の社会的意義だの、その実効性だのと云った議論の入り込む余地はない。
>違うレイヤーの議論を、その「違う」と云う部分を無視して行おうとすることは、意図的である、ないに関わらず議論の実効性を弱めようとする営為にほかならない。

ここら辺を明解にしたいと思いつつ、できないでいました。
「なぜ批判するか」「どう批判するか」「(批判への)批判をどうかわすか」みたいなことを考えることも必要ですが、定義とからめてしまうと力をそがれるという気がしています。
by 亀@渋研X (2007-12-27 23:56) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

なんかですね、元エントリを読んだときに、ちょっとした感銘を受けたりしました。黒猫亭さん、見事な筆力をお持ちです。
by pooh (2007-12-28 00:00) 

黒猫亭

はじめまして、黒猫亭です。好意的なご紹介、有り難うございます。

こちらのブログは、たしかさる政治系ブログのTBかリンクかで何度か拝見させて戴きましたから、少し前から存じておりました。今回言及して戴いたのを機会に更めて直近のエントリーを読ませて戴きましたが、淀みのない平易なロジックで明快な批判を展開されていることに共感を覚えました。

オレのブログでもたまにニセ科学批判を展開することがあって、たとえば例の「あるある大事典」の騒動にも言及したことがあるんですが、科学的な思考法がもたらした最大のメリットというのは、客観という超越を重視して、赤の他人と話が通じる共通言語とその手続を確立したことではないかと思います。その意味では、科学というのは現時点で最大限に寛容な規範であって、不寛容な主観世界同士の絶対的対立を調停し得る可能性を秘めていると思います。

人が何かを無前提に信じるという無根拠性は、たとえば違う人間同士の思想信条の絶対的対立をもたらします。宗教戦争なんかがベタな例ですけど、何かを無根拠に信じるということは、第三者と共有可能な客観的な根拠も規範もないのですから、そうでない人間との間の対立は一気に絶対的な断絶となってしまいます。

対するに科学的規範というのは物事を無前提に信じないという規範ですから、常にニュートラルな第三者の客観的な視点を想定するものです。或る無前提の対象を大前提視している人間が、そうではない人間に対して語る言葉は通じませんが、そのような人間同士の間でも通じる言葉を考えようというのが科学的思考法の出発点なのだと思います。

それ故に、こちらで最近論じられている「緩いビリーバー」を射程に入れてニセ科学批判を語るとすれば、poohさんが仰ったように科学的思考法の大本の規範はコモンセンスの問題だという部分が鍵になるのではないかと思いますし、元々オレがニセ科学を批判するのは、「ニセ科学を信奉する人間とは話が通じない」という一般則があるんじゃないかと思うからです。

自身の主観を絶対視して第三者に提示すべき客観的根拠の必要性を認識しない・出来ない人々は、容易くポピュリズムに流されるのだし、他人に対して理不尽な強制を強いる潜在的な可能性を秘めているのだと思います。それは最早、一人の社会人としての個人に許されるナイーブさの域を超えているのではないかというのが、オレのニセ科学批判の根本的モチベーションです。

たとえば血液型人間学なんかにナイーブに騙される人々は、容易く「血液型人間学に基づいて幼稚園のクラス分けをしてみました」みたいな莫迦なことをやらかすわけで、血液型がB型の人はムラっ気があって協調性がないとか、AB型の人は巧言令色鮮き哉仁とか、そんな莫迦気た予断で他人を判断する。笑い事で済んでいるうちは愚かな人間の日々の営みというだけの話ですが、そんな理不尽が積もり積もって結局大きな不寛容と理不尽な暴力に結び附く。

つまり、「緩いビリーバー」であるということは決してイノセントなことではなくて、その基本的思考規範の非合理性の故に日常生活の上で他者に対して小さな理不尽を積み重ねているものだと思います。自分が無根拠に信じ込んでいる事柄は、基本的に他人には通じないことだ、そのような弁えがなければ、自分の信じる独善を何の罪悪感もなく他人に圧し附けることが可能でしょう。オレという個人は、その鈍感な無意識性が憎いと感じるからニセ科学を批判しています。

そういう意味では、オレがニセ科学を批判する場合に想定している主な対象というのは、ニセ科学を喧伝する連中よりも、それを無批判に受け容れる知的に鈍感で怠惰な感じ方だという言い方も出来るでしょう。

所詮人間なんて不完全なものでしかないですが、そういう不誠実な鈍感さを自身に許すか許さないか、それは人としての在り方において重要な部分じゃないか、知性の問題というより心性の問題なんじゃないかと思います。
by 黒猫亭 (2007-12-28 00:30) 

pooh

> 黒猫亭さん

いらっしゃいませ。

科学が共通言語である、と云う捉え方には共感します。それはそれ自身がつねに疑われ、鍛えられていると云う仕組みがもたらしたものだと思います。
と云うか実際のところニセ科学信奉者、または「ニセ科学批判」批判者とは会話が通じない、と云う経験をしているひとは結構な人数がいるわけで。なるほど、こう考えるとそれは問題の本質に基づいた現象である、とも考えられますね。

いろいろな経緯があって、ぼくもやはりコモンセンスと云うのが重要だ、と考えています。そして、それはそこに意味を見いだしうる心性の問題だとも考えています。

これからもゆるゆるとやっていきます。よろしくお願いします。
by pooh (2007-12-28 06:27) 

newKamer

 またもや、本題から外れたコメントをしてしまうのですが連想ゲーム的発想で失礼します。

 私が思うのは「きちんと定義してしまうと実感とはズレる」ということだったりします。
 引用元の例で言えば「UFO」もそうです。例えば、意味をくんで「空飛ぶ円盤」と読み替えて、より明確な内容にした場合、実感からずれるという人は大量に出ます。論ずる定義としては最低限レベルと思われる「エイリアン・クラフト」とするとさらにズレが大きくなる。だからといって、「未確認飛行物体」と本来の意味できちんと考えても全然ダメです。「UFO」という言葉を躊躇なく使う人は未確認飛行物体という意味では使っていませんから。

 定義というのは、そういうものだということも頭の片隅に常に置いておくべきなんだろうなと思います。なんというか、定義というのは日常の言葉とは隔絶していて、専門家の間の申し合わせ的な要素が強いのだろうと思います。
by newKamer (2007-12-28 09:32) 

技術開発者

こんにちは、newKamerさん。

少し悪徳商法批判者だった頃にやっていた「用語定義」を巡る話をしましょう。

昭和40年代に家を訪問して威迫・困惑させたり、同情を引くような話をして何かを売りつける販売が社会問題化しました。誰が言い出したのかは知りませんが、社会はそういう販売を「押し売り」と呼びました。押し売りを規制する法律ができたときに、その販売法の特徴である「営業所等以外で契約する」部分を定義して「訪問販売」という法律用語ができました。では、店舗販売において、店員がしつこく絡んで購入を勧めたときに「押し売りするなよ」と怒るのは間違った言葉の使い方でしょうか?私は間違いだとは思いません。もともと、社会で使われる言葉は定義が曖昧な分だけ使用範囲が広くて当然だからです。では、店舗販売で「押し売り」という言葉が使われたからといって、検事はその店員を特定商取引法の訪問販売における威迫・困惑行為として起訴するでしょうか?。常識でわかるようにそんなことはしません。なぜなら検事は法律で定められた訪問販売という用語の定義にあてはまるかどうかを検討するからです。

同じような事が「マルチ商法」という社会用語と「連鎖販売」という法律用語の間にも成り立ちます。ダンシング事件の様に「被害者が被害者を勧誘する」という制度を持っていたモニター商法について、「ダンシング社はマルチ商法のような勧誘システムがあったため被害が拡大した」などという場合がありますが、ダンシング社のシステムはマルチレベルの紹介報酬となっていないので、「連鎖販売」の定義には入りません。しかし、「マルチ商法のような」という言い方が間違いであるわけでは無いのです。店舗販売で「押し売り」と言っても間違いでは無いのと同じ意味で、間違いでは無いわけですね。そして人がそのように言おうと、検事が「では紹介した人は連鎖販売の勧誘者として禁止行為違反が有れば処罰しよう」とはしません。

実の所、ニセ科学という用語が「一人歩きする」事を懸念している人は、「専門家の最も底辺の能力すら信頼できない」と思っている様な人に見えます。きくちさんは「ニセ科学」という言葉を社会的用語として使っているに過ぎないわけです。社会で何かの新説が「ニセ科学」と呼ばれたところで、専門家である研究者は、それがきちんと根拠付きで学会に提示されたら、世間でなんて呼ばれていようとその真偽を判定しようとするわけです。それは、世間で「押し売り」と呼ばれようが、「マルチ商法」と呼ばれようが、検事などの法律の専門家が「訪問販売」「連鎖販売」を間違えて運用したりしないのと同じ事なんです。
by 技術開発者 (2007-12-28 12:42) 

PseuDoctor

こんばんは。

とても良い記事ですね。
わたしも「しゃばけ」は読んでいます(文庫のみ)。元になった黒猫亭さんの文章が素晴らしくて構造もしっかりしているので、それが触媒になってpoohさんが普段からお考えになっていた事が一気に開花した、という印象です。

・・・という感想だけでは何ですので、いつもの芸風が出せるかどうか解りませんが、ちょっとやってみましょう。
2つ目の引用中に
>それで何処が気に入らないのかサッパリわからない。
とありますが、私には少し解るような気もするんです。一言で言うと「楽をして」「目に見える結果を出したい」からだと思います。もう少し詳しく言いますと、文字通り「努力をしたくない」という意味と「努力して結果を出した人に対する嫉みや妬み」の2つの側面があると思っています。前者は怠惰+欲望、後者はコンプレックスもしくはルサンチマンと言い換える事も出来そうです。ですから「ニセ科学」と言われて怒る人は沢山いそうですけれど「超科学」と言われて怒る人は、おそらく何処にもいない筈です。
具体例に戻りますと、もしテレパシーが既存の科学で説明されてしまうと、上記の2つが両方とも否定されてしまうのですね。まず、もっと広い可能性があると思っていた能力が極めて限定的なものであり、(たとえ無意識かつ自然にだとしても)何らかの「努力」によって身に付いたものであるという事になってしまう、という風に1点目が否定されます。次に、結局自分達には「科学」を「超える」事は出来ず、自分達に証明できなかったメカニズムが既存の科学によって証明されてしまい、かつ、超能力は別に「優秀さ」の証しでも何でもないという点も思い知らされてしまう、という様にして2点目も否定されてしまいます。

ですから「既存の科学で説明されてしまう」くらいならむしろ「ワケの解らないものであるままの方が良い」「科学で証明されないのだから、科学を超えているのだ」とでも考えているのではないでしょうか。
by PseuDoctor (2007-12-29 00:21) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

とんでもなく横道ですが、前にブログで触れられていた「守り人」シリーズの第3巻「夢の守り人」が出ていましたので読みました。

変な話ですが、優れたファンタジーをきちんと読みこなせる人は、「心霊研究だの超能力研究」といったものはアホらしくて面白がれない気がしています。
by 技術開発者 (2007-12-29 05:30) 

pooh

> newKamerさん

言葉を定義する、と云うことについては、ちょっとぼく自身考え方が変わりつつあって。その辺り、ちょっとそのうち書こうと思っていますが。

ただ、ひとつあるのは「本来その言葉が何を指すのか」を対話時に背景として意識しないような使い方は、錯誤に繋がるんだろうなぁ、と云うことです。これは知識的な問題なのかも。
by pooh (2007-12-29 06:32) 

pooh

> PseuDoctorさん

おそらく、そう云う心理があるのだろうな、とは思います。
で、そう云う心理を孕む社会的心性自体が、やはり問題なのだろうと思います。
by pooh (2007-12-29 06:34) 

pooh

> 技術開発者さん

あぁ、ぼくも読みました。
面白かったですが、女性ファンタジー作家にありがちな「箱庭化」の傾向が生じつつありますねぇ(いや、それはなにも一概に悪いことではないんですけど)。

優れたファンタスィには、必ず多様性への視点があって。で、これは書き手側に地に足の着いた想像力がないと生まれてこないものだと思います(と云うか、ぼくはそれがないファンタスィは読了できない)。
by pooh (2007-12-29 06:38) 

黒猫亭

PseuDoctorさんからご意見を戴きましたので、もうちょっとだけお話しさせて戴くと、まあ「サッパリわからない」というのはレトリックで、オレもそういう心理機序が背景にあるんだろうと考えています。つまり、超能力研究家やビリーバーにとって、超能力というのは「科学の常識を覆す」「優越的な能力」だということですね。だいたいこの二つはセットになってます。

そういう個別事例ごとの心理的機序の存在は理解出来ますが、どちらかというとオレは超能力研究に内在するニセ科学一般の普遍性みたいなものに着目して、ちょっとお話をさせて戴きます。

「ニセ科学批判」批判の不毛さとも関連してくる話ですが、この手の「研究」というのはハナから矛盾を抱えていて、最初から超能力は科学の規範では計り得ない事柄であり、人間の現有の能力を超越した神秘的能力だという予断があります。「科学の規範で計り得ない」というのは一面では正しいわけで、テレパシーなんて人間の認識に纏わる能力は厳密な実験条件を整えることが大変難しいし、たいがいマジックで再現可能ですね。しかも人間のやることだから悪意的な詐術が介在する可能性が常にある。或る所定の段取りを必要とする超能力は十中八九までトリックと言って好い。亀@渋研Xさんが紹介しておられるような科学の手続きに窮めて乗りにくい対象なんですね。

そういう意味で科学の対象としづらい部分があることはたしかですが、研究家やビリーバーが言うのは違う意味で、「物理法則とは別次元の超常的で神秘的な原理」があるに違いないという予断があるんですね。 さらに言うと、オレが元のエントリーで挙げたような解釈は、現有の五官の能力の範疇で超能力は充分解釈可能だという考え方ですが、これが気に入らないという以上、超能力というのは常人が具えている既存の能力とは別の「特別な能力」なんだという予断があるわけです。

前者の予断はつまり、超能力は既存の物理学体系に基づく科学的アプローチでは解明出来ない対象だということになるし、後者の予断はそういう能力の存在が「科学的に」実証されるまで科学では扱い得ないという話になります。だから、そもそもウロボロス的な循環論理なんですね。

では、「研究家」というのは科学的アプローチ以外のどんな「研究」ツールを持っているんだという話になりますが、メディアで視る限りそれは全部「空想」なんですね。事例を集めて共通項をプロットしてそれが整合するような理屈を考えるわけで、これは本質的に空想にすぎないわけです。彼等のロジックに基づくと、第三者が受容可能な客観的検証手段というのが原理的に存在しないわけですから。

だとすれば、本来超能力研究というのは、亀@渋研Xさんの分類上ではオカルトでしか在り得ないはずですね。無根拠な空想上の原理からの演繹でしかなくて、それを下支えすべき帰納の実証手段が絶対的に欠けているわけですから、最初の最初から実証不能なわけです。
by 黒猫亭 (2007-12-29 11:50) 

黒猫亭

では超能力研究というのは本質的にオカルトでしか在り得ないんだからニセ科学じゃないのかと言えば、何故か超能力研究家にしろビリーバーにしろ、超能力の存在を実証することに躍起になっていますね。それはつまり、超能力というのは科学的に実証出来るんだという無意識的な思いこみがあるということで、これは最初の大前提から考えるとすでに論理的に破綻しているわけです。

オカルトというのは実証可能性を最初から捨象したもので、実証しなくても信じる人は信じるというスタンスのものであるべきですから、オカルトならオカルトにしておけばいいのに、超能力研究は「科学を超越」したものを科学的に実証しようとするという破綻した論理で成立しているニセ科学だという言い方が出来るんじゃないかと思います。

単に、既存の科学との距離の取り方が剰りにも恣意的でぬえ的に曖昧なので、これをニセ科学として撃とうとすると「最初から科学だとは言っていない」「科学を超越した別次元の研究だと言っている」という言い抜けが出来るわけで、論理的に破綻している対象を論理的に批判することの困難性というのが立ち上がってくるわけです。つまり、デタラメな戯言に正論でツッコミを入れてもデタラメであることそれ自体のゆえに幾らでも言い訳が利くということです。

正論でロジカルに批判可能なのは、その対象が少なくともその言説の範囲内で論理的に整合している場合だと思いますが、ニセ科学の大半は言説それ自体の範囲内で矛盾や自家撞着を山ほど抱えている。これを論理的に批判することが難しいというのは、矛盾したり自家撞着するのは簡単でも、その矛盾や自家撞着を論理的に指摘するにはその何十倍も労力と明晰さが必要だからでしょう。

「ニセ科学批判」批判というのは、そのような何十倍もの労力を払って矛盾や自家撞着に言及した言説に対してさらに気楽な思い附きでツッコミを入れるということですから、その批判の矛盾や自家撞着に対してさらに何十倍もの反論の為の労力が必要となり、論者の労力が幾何級数的にどんどん増殖していくということで、論点が果てしなく拡散していくのは原理的に当然だという言い方も出来るでしょう。要するに「ニセ科学批判」批判というのは、原理的に消耗戦の性格を持っていて、或る整合した言説に対して不整合なツッコミを入れる側が絶対的に有利な土俵だということです。

超能力研究の話題に戻ると、超能力研究が図々しいのは、「科学の常識を覆す」原理を空想だけで想定することで、そんな「科学の常識を覆す原理」の「科学的研究責任」を科学者の側に丸投げしているところでしょう。超能力が存在する以上、現状の物理法則を超越した原理があるに違いないんだから、おまえたちが研究すべきだ的なスタンスなわけです。

それをこれまでのロジックで溯っていくと、超能力研究家たちが事例の解釈に用いた無根拠な個人的空想のゆえに、人類が数千年の歴史の中で培ってきた「本当らしさ」を担保する仕組みを考えなおせと言っているわけで、莫迦らしいにもほどがある傲慢な姿勢でしょう。

これは研究家たちが決まって「ボクたちは事実を研究しているだけです」的なエクスキューズを語って、最初から無茶なオカルトでしかない事柄について科学者の側に物理法則の大掛かりな修整を強いているわけですね。オカルトだったら最初から科学と棲み分けているわけですから、こういう図々しい態度はとりません。

一足飛びに話を大きくすると(笑)、現代においてニセ科学の裾野が広がっているのは、こういうふうに本来ニセ科学ですらないものまで科学のイメージを装おうとするからではないかと思います。現代人が他人の言説を受け容れる「本当らしさ」の規準というのは、今は宗教と科学しかないわけで、本来その両者の間の境界上にあるものまで、その言説の説得力を得る為に宗教か科学の意匠を纏おうとする。

昔のように「オレはオカルトですよ」と正直に言っているオカルトも少なくなってきたわけで、科学と截然とした明確な距離を取る姿勢のないものは、おおむねニセ科学批判の射程に入るのだと思います。
by 黒猫亭 (2007-12-29 11:52) 

PseuDoctor

こんばんは。

いや、申し訳ないです。黒猫亭さんには失礼な書き方をしてしまいました。おそらく「レトリック」だろうとは思ったのですが、凄く野暮な書き込みになってしまいましたね。

でもまあ、おかげで黒猫亭さんの詳しいお話が伺えたので、結果的に私としては嬉しかったです。

>矛盾したり自家撞着するのは簡単でも、その矛盾や自家撞着を論理的に指摘するにはその何十倍も労力と明晰さが必要だからでしょう。
これは、私も実感しています。
by PseuDoctor (2007-12-29 18:17) 

PseuDoctor

前後してしまいますが、poohさんのコメント:

>そう云う心理を孕む社会的心性自体が、やはり問題なのだろうと思います。
そうでした。
私が認識している問題点は、「これはまさしくコモンセンスの問題」である筈なのに、何故コモンセンスがコモンでなくなってしまっているのか、それどころかむしろコモンセンスの欠乏している方が大きな顔をしているように見える(むしろそっちの方がコモンに見える場合すらある)のは何故なのか、という感じだと思います。

余談ですが、コモンセンスを「常識」と言い換えると、途端に「思考停止をもたらすクリシェ」っぽい響きになってしまうから不思議です。
by PseuDoctor (2007-12-29 22:25) 

pooh

> 黒猫亭さん

元エントリを読ませていただいたときにはぼんやりとしか把握していなかったんですが、重要な視点の提示だと思います。コメントいただいたような側面の問題については、ニセ科学を囲む諸問題の根底部分に多くの論者が存在を感じながら、明解な論点の把握に至っていなかった部分かと考えます。

これがある一定の心性のベースにあるものなのか、それともその現れのひとつなのか、と云うので問題把握も変わってくるのかな、と思います。いただいた知見を応用していければな、と思います。
by pooh (2007-12-30 21:30) 

pooh

> PseuDoctorさん

実は黒猫亭さんのお書きのことは、踏まえているようでいて曖昧な部分だったので、詳しいコメントはありがたいです。

文章表現は、本源的に誰かに伝えるためのもので。なので、クリシェに感じられる言葉と云うのは、注意深く使わないと「単なる紋切型の押しつけ」以上の機能を果たさなくなってしまう気がします。
ぼくがこう云う文体を採用しながら、ときおりどうしてもテクニカルタームっぽいものを使わざるを得なくなるのは、多くの場合そう云うリスクがあるときだったりします。いや、dlitさんの文章とかみてると、もっとスマートな方法もあるのかな、とも思ったりしますが、この辺りは残念ながら力量の関わる部分なので。
by pooh (2007-12-30 21:36) 

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