So-net無料ブログ作成
検索選択

表現者 [世間]

十代の終わりから二十代のはじめにかけてろけんろーるからどブルーズにまで駆け上がってしまったぼくとしてはある種の日本化されたヒップホップやR&Bはけっこう肌が合わなくて関心を持てないのだけれど、そんなひとりである倖田來未の発言が先週末から取り沙汰されている(J-CASTニュースの該当記事はこちら)。これについてはそこそこ批判も揃っていて(kikulogでも倖田來未舌禍事件または想像力の欠如についてと云うエントリがあがっている)まぁそれほど語るべきことはないのかもしれないけれど、2点だけ。

まず間違いなく云えるのは、彼女は表現者としては致命的に言葉を大事にしていない、と云うこと。
生業が音楽に乗せて言葉をうたうことなら、自分の発する言葉が何を伝えるのか、誰を喜ばせまた悲しませるのか、と云うことには鋭敏であるのが当たり前だと思う。メロディやリズムの方が大事だ、と云うことはもちろんあるだろうけど、だからうたう言葉の内容までは考えない、と云うのは表現者としてありえない。それは自分自身の表現を、そしてそれに触れるひとたちをあまりに軽んじている。
まぁこのあたり、「水からの伝言」に共感を示していたって話を聞いたころからなんとなく感じていたことではあるけれど。そんなに綺麗な結晶が好きなら、ひとに向けてうたうのをやめにして、お水に聴かせるための歌手になったらどうか、なんて思う。
聞き手にどう響くか、と云うことをちゃんと意識して選ばれたうえでうたわれる言葉しか、ぼくは聴きたくない。

もうひとつ。
彼女を擁護するネット上の言説を見ると、だいたいが論拠を「悪意の不在」「イノセンス」に置いているような印象がある。
このあたりなんかちょいとデジャヴで。どうも善意・悪意を軸にものごとを判断する心性ってやっかいだよなぁ、なんて思う。何度か云ったことがあるけれど、ぼくはイノセンスはなにひとつ免責しない、と考えているのだけど。


nice!(0)  コメント(67)  トラックバック(1) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 67

corvo

こんばんは。大変ご無沙汰しています。何度か書き込もうと思ったエントリーもあったのですが、なかなかまとまらずROMに徹することになってしまっていました。
この事件についても表現の問題と絡めてblogで書こうと思ったのですが、彼女を表現者とみなすことがあまりに馬鹿馬鹿しくなって、結局下書きの段階でやめてしまいました。
ここ最近の水伝にまつわる議論をウォッチしていたのですが、表現や言語、美意識といった切り口の話はほとんど出ていなかったと思います。ネット上とはいえ、文章を書いて自分の考えを発信している論者たちが、水伝の孕んでいる言語の問題に言及しないことが不思議でした。
僕が一番問題だと思っている、美意識の押しつけについても言及している論者は皆無だったように思います。
上手くまとめられれば、近々水伝についてのエントリーを書いてみようと思っています。
by corvo (2008-02-06 01:57) 

pooh

> corvoさん

言説のテクニカルな側面とニセ科学問題との関連については、ここのところ黒猫亭さんの充実した論考が出ているんですけど、アートとしての側面については確かに論者は少ないかも、です。ただ、難しいんですよね。ぼくだって相当あやしい(^^;。
論考をお待ちしています。
by pooh (2008-02-06 07:49) 

黒猫亭

「悪意がない」なんてことはないですよねぇ、世の中には四〇過ぎて初産なんて人が結構いるんですから、「羊水が汚れるから早く子供を産め」なんてのは中高年女性に対する悪意以外の何ものでもない。

高齢出産にはたしかに発生上のリスクがあるみたいですが、それを「羊水が汚れているからだ」と説明する理屈を鵜呑みにする無神経さには呆れてしまいます。つまり、高齢出産でたまたま重篤な障害児が生まれたら、それはお母さんが「汚れて」いたからだという話をしたかったわけですかね。

非科学云々という以前に、三五歳以上の女性は腹の中に汚れた水を抱えている、ああいやだ、年寄りはキタナイ、という目で同性を視ていたのかと思うとぞっとします。人体生理において何を以てして「汚れ」と判断するのかという問題もありますが、それを言い出したら人体の中なんてキタナイものだらけなのに「きれい・穢い」という美醜の価値観で人体を語るというセンスが気持ち悪い。

kikulogのほうでも話題になってますが、「ピュア指向」とかこの年齢の大人の女性が言ってるほうがもっと汚らしい話です。如何にもデトックスとか真に受けて手当たり次第にやってそうですね。
by 黒猫亭 (2008-02-06 07:55) 

pooh

> 黒猫亭さん

いやこれ、結果として「善意」「悪意」と云う言葉の運用が、法律用語としてのそれに近くなってしまっていると思うんですよ。要するに「知らなかった」「そこまで考えていなかった」「関係ないと思っていた」ので「善意」みたいな。そんな「善意」は絶対に許容されるべきではない、と云うのがいつものぼくの持論になるんですが。

無神経さ、としてはとても根本的な質のものなんですよ、多分。自分がうたに乗せて言葉を届ける仕事に就いている、と云う意識に欠けている。

ピュア志向、と云うか、何をもって綺麗だ、穢れてる、と考えるかについては、表面的な美意識はとても危険なものだと思います(美意識、と云うものが実効的な強度を相当に持つものだ、と云う認識がぼくにはあります)。このあたり、上でコメントをくださっているcorvoさんの領域になりますが。
by pooh (2008-02-06 08:10) 

黒猫亭

ちょっと補足しておくと、倖田來未というアーティストは、オレの認識では、浜崎あゆみの進退を巡ってエイベックスの株価が暴落した事件を受けて、企業サイドが完全にコントロール可能な稼ぎ頭の必要から生み出された「つくられた」スターだと視ています。

時期的に視ると、それまで泣かず飛ばずでゲームの主題歌がちょっと売れた程度だった倖田來未を、「エロかっこいい」路線で妙にプッシュし始めたのがあゆ騒動の直後くらいですから、あゆ一本に屋台骨を握られている状況を脱する為にコマを増やしたんだと思っています。この後のエイベックスは、企業の存続の為に経営を多角化して、アニメに手を出したりのま猫をかっぱらったり、なりふり構わぬ事業活動を展開しています。

で、この雌伏期に彼女はこの種のアーティストとしては致命的に肥ってしまったわけで、ブレイクまでに八キロもダイエットしています。ここの家系が肥りやすい体質だというのは、妹のMISONOもダイエット企画で売り出したのを視ても明らかで、何というか美醜によって周囲の扱いが全然違ったという事情はあるのかもしれません。

冒頭で述べたように彼女は自分の実力で勝ち上がったというより、会社のプロモートでスターダムにのし上がったわけですし、よく視るとそんなに華のある容貌ではないですから、あゆほど自分に自信があるわけではないでしょう。もう一度リバウンドしてしまったらあっさり会社に見放される、という恐怖感も強いんじゃないでしょうか。

多分日常的にも体重維持の為にダイエットしてるんでしょうから、人前に出られるルックスをキープする為に継続的な努力を強いられていると言えるわけです。そういう面で、老いや容貌の衰退への忌避感情みたいなものが普通のヒトより強いということはあるのかもしれませんね。

ただまあ、それはやはりアーティストとしてメンタルが弱いということで、いつまで経っても会社がコントロールしている便利なアーティストというポジションを脱し切れていないのは本人の責任でしょう。
by 黒猫亭 (2008-02-06 08:23) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。またもや悪徳商法批判者時代の話からになります。

悪徳商法批判者の時代に「意識の正規分布とそのシフト」なんてことを言っていました。事業者の清濁の意識というのはそれぞれに違いがあるけど、全ての事業者を清濁の度合いを横軸に頻度分布を取ると正規分布みたいになると考える訳です。つまり清の側の極端に「微塵も悪いことはしてはならない」なんて潔癖性の業者が少数いて、その山側に「できる限り悪いことは無くそう」というそれより多い業者が居て、真ん中あたりに「まあ、それなりに悪いことはしないようにしよう」という業者が居て、そこから濁の方の内側には「法律に触れるのはまずいけど、そうそうきれい事もできないね」という業者が居て、濁の方の端には「儲けのためならなんでもやる」という悪徳業者が少数いる、なんて分布です。でもって、何を言っていたかというとこの分布全体が濁の方にシフトすることを嫌がるというか怖がる事を書いていたわけですね。社会が「まあ、商売だからそんなにきれい事も言えないよね」なんて雰囲気が高まると、分布全体が濁の方にシフトして、そうすると「なんでもやる」悪徳業者は何倍も増えていく訳です。清の側の真ん中のあたりで「できるだけ」という業者が「それなりに」に変わる部分だけみると、たいした事無い様にみえるんだけど、それは実は全体の分布のシフトをも引き起こしかねないものであるわけです。

こういう舌禍事件みたいな事でも同じような事が言えるんじゃないかなと思うんですね。「自分の発言は多くの人が聞くんだから、慎重にしよう」という意識をどれ程持っているかという頻度を、慎重-軽率という横軸で分布させた時に、社会全体が「別にちょっとくらい良いじゃない」という風潮があふれると、分布全体が軽率の方にシフトして、問題発言をする軽率な人は何倍も増えていくことになるんだろうと思います。
by 技術開発者 (2008-02-06 08:32) 

きくち

corvoさんの書いておられることは、まったくそのとおりで、「水伝」が「美」に関わる価値観や「言葉」に関わる価値観の押しつけであることについて、もっと表現者・文系研究者などの声が上がっていいと思うのだけど、「げえのおかい」では「水伝ばんざい」な話がよく出てきて、あの人たちは表現者じゃないのか、と思います。
いっそ、僕たち科学者のほうが、そういうことを言ってるわけです。「水伝は科学だけの問題ではない」とか「美や言語に関する価値観の押しつけである」とか。実際、僕は人前で「水伝」写真について話すとき、「現代美術の人なら、ばかやろうのほうを選ぶ」って言いますしね。
 
そういうことを科学者に言わせておいてはだめなんだけど、「表現」で食ってるはずの人たちが「水伝ばんざい」ではしかたがないか。
corvoさんのような発言が、表現者サイドからもっとでてくることを期待しています
by きくち (2008-02-06 16:11) 

黒猫亭

>poohさん

すいません、poohさんのレスを読まずに補足を上げちゃったんで、何か通じてない風の会話になってしまいました(笑)。ああ、「善意の第三者」とか謂う場合の「善意・悪意」ですか。まあオレは「未必の故意」と「密室の恋」のクベツも附かない法律音痴ですから(笑)、一般論からの敷衍になりがちですけど、常々技術開発者さんのご解説を読ませて戴くと、大概の法律は一般論としての社会的な真っ当さの感覚を満足させるように出来ているもんだと思います。

>>そんな「善意」は絶対に許容されるべきではない、と云うのがいつものぼくの持論になるんですが。

たとえば、たしかに倖田來未本人には中高年女性を痍附けようという積極的な「悪意」はなかったのかもしれないが、「そこまで考えていなかった」「関係ないと思っていた」というのは、それ以前に「関心がない」ということで、この意味における「悪意」よりもこの種の「無関心」のほうがもっと悪質だと思いますね。

菊池さんのところに貼られたリンクで元の音源を聞きましたが、一旦誰かからツッコミが入ったのに「いや、本当やって」と強弁していたのがさらに不快に感じました。自分の発言で誰かが痍附くかもしれないという他者に向かう関心が微塵も感じられない辺り、「想像力の欠如」というよりもっと深刻な無関心があるように感じます。

ピュア指向というとまだしも聞こえが良いですけど、その実はイヤだ不快だと思う対象一般を意識から排除してしまって、快いものしか考えたくないという自己中心性の謂いだと思いますし、彼女のこうした中高年女性に対する冷酷な無関心は、老いる自己像への拒絶みたいなものがあるのでしょうから、何とも不潔なものを感じます。

つまり、よんどころない事情や意志的選択の故に高齢出産を選択せざるを得なかった同性に対する共感や関心が途絶していて、自分は絶対若いうちに結婚して「健康で美しい」子供を産もうという強烈な自己中心性を感じます。そうでない人のことや、そうでない世の中の在り様が完全に意識から排除されているんですね。これは逆説的に謂って非常に不潔な心性だと思うわけです。
by 黒猫亭 (2008-02-06 16:42) 

黒猫亭

>きくちさん

はじめまして。いつぞやは間接的にご迷惑をおかけしたようで、失礼致しました。

>>「げえのおかい」では「水伝ばんざい」な話がよく出てきて、あの人たちは表現者じゃないのか、と思います。

何というか、オレなどは折に触れて芸能ゴシップの類を結構漁ったりする下世話な人間なんですが(笑)、話半分以下に見積もったとして少なくとも裏のとれている情報に限って謂っても、芸能人というのは業種を問わず表現者としての建前と商売人としての実情があって、大概の場合後者のほうにかなり秤がふれているモンだな、と感じます。

水伝に限らず、芸能人はトンデモやニセ科学、ニセ宗教の類に極端に耐性が低いという印象がありますが、アーティストに限って謂っても昔から精神世界への強い関心というものが一般的にありますし、抽象的な論理思考の苦手な人が多いという事情もあるでしょう。この辺、紛らわしいですけど、アートと非論理性に必然的な関係があるという意味ではなくて、そういう人が存在を許される職業領域だということですが。

で、そういうイカガワシイものに惹かれる心性の動機の部分には、先ほど申しあげた「商売人としての側面」というものが無視出来ないレベルで影響していると思うんですが、芸能商売というのは才能一本で何とかなるというものではなくて、同じ程度の才能や個性の持ち主は世の中にゴロゴロいるわけですから、最終的には力を持った人間との縁や成功に導く結果論的な「運」が大きなファクターになってきます。

つまり、本人の才能や努力を超えた外的要因が成功を左右する部分があるわけで、こういう性格を持つ業種の職業人は昔から迷信深い部分があると思うんですよ。芸能人一般占い好きのようですし、裏でアヤシゲな宗教や商売にハマっていることが多いのは、どこか早い時点で意志的選択や理性的判断を放棄して、最終的に自身の意志を超えた大きなものに全面的に選択を委ねている部分があるからじゃないかと思うんですね。

こういう業界だと、普通の業種のように意志的選択とそれに向けた弛まぬ努力によって一定の成果が得られる、という理性的な世界観に対する信頼が得にくくなっているということはあると思うんですよ。最終的に成功を左右するのは、何か人為を超えた超越的なもの、という感覚があるんだと思うのですが、芸能人一般、普通の人間より苛酷な自己鍛錬や努力を行っている例が多いはずなのに、その辺業種固有の事情で残念な部分はあると思います。

倖田來未に関して謂うと、前のコメントで述べたように、生来の資質というものもあるでしょうけれど、今の彼女の意識として自身のステータスを自助努力で購った実感が薄い、自分の自由意志よりも他者の思惑によって現状の成功があるという不安感が大きいので、何というか他者への無関心に基づく冷酷な自己中心性があるんじゃないかと思います。

まあ、他人のことを考えている余裕のない状況というふうにも謂えると思いますが(笑)、オレのような凡愚から視れば、トップスターの地位というのはそこまでしてしがみつきたいものかな、と生温い気分になりますけどね、そこにあるのは、表現者的な意識というよりも、商売人的意識なんだと思いますよ。
by 黒猫亭 (2008-02-06 17:11) 

亀@渋研X

みなさま、こんにちは。

>積極的な「悪意」はなかったのかもしれないが、「そこまで考えていなかった」「関係ないと思っていた」というのは、それ以前に「関心がない」ということで、この意味における「悪意」よりもこの種の「無関心」のほうがもっと悪質だと思いますね。
(黒猫亭さん)

これ、「水伝」的には最悪なはずなんだけどなぁ。
「ご飯に声かけ実験」では、無視は「ばかやろう」とかよりもひどい結果になるんだそうで(^^;;
by 亀@渋研X (2008-02-06 18:12) 

きくち

黒猫亭様
えーっと、間接的にであれ、迷惑をかけられたことってありましたっけか・・・・
by きくち (2008-02-06 18:42) 

TAKESAN

今晩は。

あれですよね。
「悪意」を「悪気」に変換すると、もっと解りやすくなりますよね。

で、私の感想と言うか、推測としては。
倖田さんの発言の意味内容は、アンビヴァレンスなものであったと思っています。
つまり、高齢出産のリスクを話す、という、どちらかと言うと、気を遣ってると思い込んでいる、という意味合いと、高齢になって出産する事への嫌悪感とが、共に含意されているんじゃないかな、と。

ところで、羊水が腐る、という発言、私は最初、比喩だと思ってたんですよね。高齢になるとリスクが増える、という意味を、腐るという表現に担わせて、実は、羊水という言葉が妊娠・出産に関わっている、という知識しか持っていなかったんじゃないのかな、と。事実として信じていた、という可能性は、考えてもいなかったのでした…。

で、そういう事を鑑みても、どんな意図で、どんな感情を込めて言ったとしても、それが全然駄目だというのは、あまりにも容易に解る発言なんですよね。好意的に解釈する事自体が、ほぼ不可能な訳で。そういう、ほんのちょっと先の未来の予測が出来ないという所に、想像力の貧困さを感じます。そしてもちろん、言葉に対する、どうしようも無い素朴さも。
自身の立たされている位置を認識する、という自覚が足りないのかなあ。自分は何言っても構わないだろう、という事を考えていた可能性も、ありますけれど。
スタッフのダメさにも、驚かされますが。
by TAKESAN (2008-02-06 18:56) 

黒猫亭

>きくちさん

>>えーっと、間接的にであれ、迷惑をかけられたことってありましたっけか・・・・

勘違いだったらすいませんが、きくちさんというのは、あの菊池さんですよね?(笑) だとすると、少し前にそちらの無関係な話題のエントリにウチのURLを貼って回った「親切な方」がいらっしゃいましたが、まあアレに関してはあの方を煽ったオレにも責任がありますので、一言お詫びしておきたいな、と。
by 黒猫亭 (2008-02-06 19:21) 

pooh

> 黒猫亭さん

まぁ彼女本人は歌手と云うより「げえのおじん」だと思っています。表現がしたくてうたをうたっている、と云うふうにはぼくには見えません。彼女の上昇志向は昔からよく語られていますしね。
でも、ポジションは「表現者」のはずです。

で、たいした考えもなくあの発言をしてしまったとしたら、それは表現者としての資質の致命的な欠如だと思います。自分自身に対する意図せざる裏切り、ですね。

ちなみに法律用語として善意・悪意と云う言葉を使ったと云うよりは、この場合偶然に一致したように見えた、と云う感じでした。
by pooh (2008-02-06 21:56) 

pooh

> 技術開発者さん

誤解を恐れずに云えば、問題発言をすることそのものはほとんど非難する気がなくて。その問題発言を引き受ける覚悟さえあれば。

ある意味、ああ云ったスタンスであの発言がされたことに対する(一部にしろ)受容のされ方の方が、より大きな問題だと云えるかも知れません。
by pooh (2008-02-06 21:58) 

pooh

> きくちさん

少なくとも、自然科学者が云わなきゃいけない種類の話ではないですよねぇ。まぁ、行きがかり上そこに触れざるを得なくなった経緯もあったわけではあるんですが。

ちょっと話は変わりますが、弾さんが今日挙げている書評のエントリに、科学コミュニケータについての話がありました。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50997853.html

かつての経緯を考えるといまさらどの面下げて、と云う感情もなくもないですが、云っていることは正当だなぁ、とか思いました。
by pooh (2008-02-06 22:02) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

いや、表現によって誰かに思いを伝えることを仕事にしている人間にとって、まさに無関心は悪意よりもひどい、と思います。結晶がどうなろうが。
by pooh (2008-02-06 22:04) 

pooh

> TAKESANさん

いや、いっそ彼女の発言があからさまな悪意にもとづくものなら、ぼくは認めるのにやぶさかではないんです。それによって彼女のことが好きになることはないでしょうけど、表現者としての意図に基づき、その結果をも引き受ける覚悟があれば、ぼくは表現者の行動には相当緩い規範を適用します。それが、表現、と云うものだからで。

しつこく云いますが、悪意のなさ、無邪気さを、ぼくはいっさいの言い訳として認めません。そのことが何か免責事由になると考えている表現者がいたら、それは表現者を名乗るに値しません。
by pooh (2008-02-06 22:10) 

corvo

こんばんは。なかなか考えがまとまらず(というかものすごく忙しく)エントリーを上げる事ができない、情けない状況です。
少しキクログにもコメントしたのですが、表現者がすごい悪癖を持っていたり、底意地の悪い性格であったとしても、優れて美しい表現が生み出されれば、感動を呼ぶ可能性はあるわけです。そんな例は歴史上、多数あると思うのですが、現在はことさらにピュアであることとかイノセンスであることがもてはやされる傾向にあるのかもしれません。
でも、それは表現とはまったく切り離されるべきことで、表現者は「公」と「私」の線引きを明確にしなくてはいけないと思います。
彼女はそんなに悪い人間ではないのかもしれませんが、「表現者」としては全く駄目だと思います。

>黒猫亭さん
どうも初めまして。

>最終的に成功を左右するのは、何か人為を超えた超越的なもの、という感覚があるんだと思うのですが、芸能人一般、普通の人間より苛酷な自己鍛錬や努力を行っている例が多いはずなのに、その辺業種固有の事情で残念な部分はあると思います。

確かにそういった部分があるかもしれませんが、芸能界以上に厳しい業界というのは少なからずあると思います。歌や楽器にしても、幼少の頃から厳しく訓練されるクラシックの世界に比較すれば、はるかに緩い競争だと思いますし、音楽というものの基礎的な訓練、本質的な理解という部分についてははるかに劣ると思います。
僕の個人的な感想ですが、人間が積み上げ研鑽してきた芸術から切り離された「芸能界」という場所で成功するには、超越的なものに頼らざるえなくなるのではないでしょうか。
by corvo (2008-02-07 04:57) 

pooh

> corvoさん

先にも書きましたが、正直ぼくは表現者が高い倫理観を持っているべきとか、高潔な人格者であるべきとか、まったく思っていなくて(だいたいぼくはもともとパンクスです)。
ただ、その言動は表現の評価に関連してしまう、と云うことはままあることで。悪意に満ちた言動をしても構わないんですが、そのことが自分の表現者としての質にどう関連するか、を意識していない、と云うことは、表現をどれだけ大事にしているかと云うことが現れてしまう。

表現者が「公」と「私」を分けるべきかどうかは、ぼくには分かりません。それぞれかも、とか思います。ただ、「私」に凭れかかって表現者としてのスタンスを維持している場合もあるだろうし、なんか彼女はその部類だろうとか思ったりします。

芸能人が表現者である、と云うのは、フィクションかもしれません。だとしてもこのことはそのひとの根幹に関わるフィクションなので、絶対に背中を透けさせてはいけない部分だろうになぁ、なんて思います。

あぁ、なんか思考がまとまってない。すみません。
by pooh (2008-02-07 07:48) 

黒猫亭

>corvoさん

はじめまして。相変わらずcorvoさんが何の領域の専門家なのか存じ上げない儘に薄氷を踏む思いで意見を申しあげるわけですが(笑)。

>>歌や楽器にしても、幼少の頃から厳しく訓練されるクラシックの世界に比較すれば、はるかに緩い競争だと思いますし、音楽というものの基礎的な訓練、本質的な理解という部分についてははるかに劣ると思います。

多分クラシックの世界は一種の実力勝負なんじゃないかと思います。人間の営みだから多少のツテや引きの要素はあるのかもしれませんが、それこそ演奏者として世界に通用する為には、極幼い頃から厳しい訓練を始めないとスタートラインにすら立てないとか、コンクールのステップを順序良く踏んで一定の成果を出すとか、要求要素の基準が厳然として決まっていますよね。

そういう意味では、選れて実力勝負の世界だし、その基準を満たした上での技倆の優劣というのは、一種プロスポーツの世界に通底するような天与の才能や個性、自己研鑽という肉体性の勝負の世界になる。少なくとも、概念モデルとしてはそうなりますね。彼と我を比べて彼が優れているとすれば、それは演奏を聴けば誰にでも優劣の判定に納得出来るわけで、この世界で成功出来るか出来ないかは、最終的に自己の技倆との苛烈な向かい合いになるわけです。

では、他の芸術領域はどうかと謂うと、画壇の世界なんかはかなり人脈が物を言うと謂われていますね。絵の善し悪しというのはかなり相対的な感じ方になりますから、極端な話、批評が価値を決定するようなところがありますし、師匠筋の勢力とか画廊との附き合いとか、かなりヒューマンファクターに影響される部分がある。それでも、そういう性格の職業領域というのは絵画の世界に限りませんね、こういう世界でも一定の処世のセオリーというのはあるわけで、その範疇で個人の努力が一定の成果に結び附くという言い方は出来るわけです。

この調子で続けていくと幾らでも続いてしまいますが(笑)、たとえば活字文芸の世界でも作品本位で、メガヒット作品のレベルになるとセールスプロモーションの仕掛けや大衆人気の要素も絡んできますが、基本的に面白い小説を書くというスキルからそうそう逸脱するということはありません。メガヒットしない文芸は存在し得ないかと謂うと、そんなことはないわけで、そちらのほうが寧ろ特殊例です。その市場規模なりの基準で個人の営みがそれなりに実直に評価される世界ではあるわけです。
by 黒猫亭 (2008-02-07 08:18) 

黒猫亭

対するに、所謂芸能人というのは徹底して人気商売の側面があります。たとえば歌舞音曲の技倆が如何に優れていても、人気が出なければそれでオシマイというところがありますね。で、人気というのは水物ですから、個人の努力で呼び込めるものとは限らないわけです。カネと人手をかけた大規模な周知努力も必ず必要で、それでも人気が得られるとは限らない。カネや人手という資本力は、結局大衆人気という不気味であやふやな物を効果的に呼び込む為の手段に過ぎないわけです。人気商売を続けて大衆人気の不可思議さや理不尽さを識れば識るほど、個人の努力や思惑を超えた何か大きな呪術的な力を感じるということはあるのではないでしょうか。

昔から芸能人は芸NO人だという自嘲のギャグがあるくらいで、タレントって何の才能なんだとか、とにかく芸の技倆ではなく人気という外在的な要素によって大きく左右される部分がある。レコードやCDの形で「作品」は残りますが、一種「人気」というあやふやで不定形なものを市場価値に兌換する為の「通貨」としての側面がある。

それでもオレは芸能人というものの存在価値を全否定しているわけではないですし、芸がなくても若くて魅力的な男女が存在するというだけで成立する娯楽の領域というのは間違いなくあるわけです。ただし、その領域は何というか非常に下世話で泥臭い興行ビジネスの世界ではあるわけです。

こういう他律的で呪術的な職業領域における個人の実力って何だろう、表現とは何だろう、そういう疑問や不安は芸能人にもあるとは思います。そこではやはり、呪術的なイカサマとの親和性が高くなるわけで、水伝なんてのは最終的には祈れば何とでもなるという意味合いのものですから、祈ることで人気という不気味な外在をコントロール出来るかもしれないという感触に結び附く。現世利益の新宗教と変わらないわけで、これに絡め取られる芸能人が多いというのは一種不可避的な傾向でもあるかもしれません。

それやこれやを考えれば、poohさんやcorvo さんが仰る通り、倖田來未は表現者としては失格です。彼女が相手取っているのは、所詮は自己が生み出す作品でもなければ演じる表現でもなく、人気というあやふやで不気味な呪術的要素でしかないということですから、自身の表現の力なんか信じていないということです。自身の表現を価値としてあらしめるのは、人気という要素でしかないと思っているということでしょう。それに拘泥する剰り、自ら人気を貶めるような愚かしい失言に結び附くというのは剰りにも皮肉な成り行きですが。

そこから表現者として揺るぎない自己を確立する為には、たとえば加藤登紀子のようにギター一本抱えて何処に行っても一定数の聴衆の心を動かせるだけの表現の力を身に着ける必要があるわけで、所詮会社によってつくられたスターにそれを求めるのは虚しいということでしょう。
by 黒猫亭 (2008-02-07 08:19) 

Noe

本題と全然関係ないですが、黒猫亭さんの上の発言

>それでもオレは芸能人というものの存在価値を全否定しているわけではないですし、芸がなくても若くて魅力的な男女が存在するというだけで成立する娯楽の領域というのは間違いなくあるわけです。

に触発されて一言。

歌が苦手な人が歌を歌うことは、まあ許せるのですが、自分が下手なのに気付かず、うまいと勘違いしておかしなアレンジを加えている人を見るとイラッとします。だから私は中居君は嫌いじゃないですが(以下自粛)
by Noe (2008-02-07 13:30) 

きくち

>少なくとも、自然科学者が云わなきゃいけない種類の話ではないですよねぇ。

言わなきゃならないかと言えば、言わなきゃならないですよ。「水伝」を問題だと思ったら、そこまでいくのは当然なわけです。いかないほうがどうかしている。
ただ、そこまでいくのが「自然科学者としての自分」なのかどうかはわかんないけどね。
 
僕が言いたいのは逆なんですよ。自然科学者だってそのくらいのことは思いつくのに、表現者や言葉を扱う人たちがそれを思いつかないのがダメである、ということ。
 

ところで小飼弾は僕の中ではすでに、「ためにする議論」しかできない人で、論客としては信頼に値しない、と決まっているので、どれほど「一見正論」を書こうと無視ですね。だって、本気で書いているという確信が持てないのに、取り上げたり論評したりしたら馬鹿みたいじゃん。時間のむだ。
本気でなくたって、「一見まともな議論」てのは書けます。それはテクニックだけの問題だから、練習すれば誰にでもできる。だからこそ、世の中には「競技ディベート」というものが存在しうるるわけ。そんなのにいちいち反応するのは、やめたほうがいいと思うよ。
by きくち (2008-02-07 14:17) 

TAKA

倖田來未さんのインタビュー、見ました。(フジテレビ、安藤キャスターの番組)
途中で泣いていました。社会に対するご自身の言葉の、その影響度合いについて初めて知った、と言っていました。
それについてこれから色々思いを巡らせば、今の状況を客観的に捉える事が出来、思ったよりも早く立ち直る事でしょう。
「彼女は今後、さらに成長した本物のアーティストに成れる。」
そう私は信じています。
by TAKA (2008-02-07 21:26) 

pooh

> 黒猫亭さん

いい歳をこいてローカルの音楽シーンに結構近いところにいると、まずは表現する、と云うのがどう云うことなのか、みたいな部分について一定の射程距離での理解はできてくるわけです。
それがすべての本質である、とまではさすがに思いませんが、どうにも「表現に似たもの」に対してはぼくは評価が辛くなってしまうようです。
by pooh (2008-02-07 22:33) 

pooh

> Noeさん

菊地成孔がどこかで「歌がうますぎて変になるしかなくなったひとたち」について書いていたのを読んだ記憶があります。井上陽水とか、森山直太郎とか。
by pooh (2008-02-07 22:36) 

pooh

> きくちさん

「菊池誠」が云わなきゃいけないのは分かるし、まこっちゃんとしてはそこまで考えて責任を負ってものを云う、というのはすごく自然な成り行きなのは分かってる。

ただ、ぼくが以前「本当は人文系の人間の方がより考えなければいけない問題だ」って書いたときに、稲葉先生から貰ったお返事もそこそこに思いなぁ、とは感じているんだけど。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061130/p3

弾さんが論客としてどうかは別にして(別にしちゃいけないんだろうけど)、彼の言葉が「届く」と云うことは現実としてあったりします。いろいろあるけど(ぼくにももちろんある)、著書を出したらともかくも献本はすべきだと思っています。
by pooh (2008-02-07 22:43) 

pooh

typo。

「思いなぁ」じゃなくて「重いなぁ」でした。
by pooh (2008-02-07 22:44) 

pooh

> TAKAさん

彼女が、自分が「言葉を届ける」職業に就いている、と云うことの意味を真剣に考えてくれればなぁ、と思います。
by pooh (2008-02-07 22:45) 

PseuDoctor

こんばんは。

ちょっと話がずれるかもしれませんが、Poohさんが「表現者」と仰った時に、私は結構広い意味で捉えました。例えば、人のブログにコメントを書く事も「社会に対して情報を発信する」という意味では「表現」に含まれるとかです。
そう考えてPoohさんの仰る事を一般化すると「自分の言動に責任を取る『覚悟』はあるんだろうな」という話になってくるかと思います。そういう覚悟があって腹を括って発言する確信犯であるのなら、たとえ内容に賛同は出来なくても動機は理解できる、そういう意味にも取れました。
で、彼女は自分の発言内容どころか自分が表現行為を行っているという点についてすら無自覚であったように見受けられるのですが、そのような無自覚さが免責自由にならないというのは、私もPoohさんと同意見です。何故なら、無邪気さだの悪意の無さだので免責されるのは、一人前ではない子供だけだからです(この辺、かじりかけの法律知識に照らすと厳密には色々と複雑そうですが、ここではあくまで原理原則論に従って述べます)。

そうして見ると「悪気が無いから良い」「謝っているから許せ」という言い方で彼女を擁護しているように見える人たちが、実は一番彼女をバカにしているというか、大人扱いしていないんですね。まあ、例えば業界内の人間や評論家ヅラしたおっさんなんかから見れば、こんな小娘なんぞは一人前に見えないのが当たり前なのかもしれませんが、もし本当にそう思うのであれば、野放しにしておくな、きちんと後見人を付けろ、一人で喋らせるな、ちゃんと教育しろ、という話になる筈です。それをせずに「許せ」というのは、何だか「彼女が子供だと見抜けなかったお前らが悪い、子供の言う事を真に受けた方が悪い」と言われてるような気がするんですね。

言い方を変えれば、こうした擁護論には「羊水が腐るなんて俺にはウソだと解ったし、そもそもこーだくみの言う事なんだから、ふつーは本気になんかしないだろ?」という「自分は彼女や彼女の発言に影響されるような連中とは別のレイヤーに属している」的な考えが根底にあるように思えてならないのです。
このあたりが、最近話題になっている批判批判の人の「俺にはすぐニセ科学だと解ったから、こんなのに目くじら立てるなんて野暮じゃねーの?」的な態度とダブって見えてしまうのです。そんな訳で、ちょっと不愉快になってしまいます。

本当に彼女自身の事を考えるのであれば、如何に責任を取らせるか(辞めろとか謝れとかいう話ではなくて、自分が社会に与えた悪影響を打ち消す方向への活動をさせる、という意味です)という話になる筈だと思います。そういう意味では、今日のTVでの発言内容を見た限りでは(と言ってもWebの文字ベースで読んだだけですけれど)、多少は期待が持てそうな気もしています。まあ、今後の行動次第ですが。

それから最後に、これはお二人の仲を考えれば本当にいらぬお節介かもしれませんが、私にはPoohさんときくちさんの仰る内容がそれほど違うものには思えませんでした。ただ、きくちさんが現状における問題認識という点から発言しているのに対して、Poohさんは到達すべき目標を見据えているように思えた、その点だけに僅かなズレがあるのかな、という感じです。
by PseuDoctor (2008-02-07 23:17) 

pooh

> PseuDoctorさん

> そういう覚悟があって腹を括って発言する確信犯であるのなら、たとえ内容に賛同は出来なくても動機は理解できる、そういう意味にも取れました。

おっしゃる通りです。
表現と云うのは、受け取るものになんらかの痕跡を残すものだと思っています。それはもう比喩の領域を超えて、限りなく「傷つける」に近いニュアンスを持つものです(どう傷つけるのか、については質的にかなり違った種類のものがありますが)。それが社会的にネガティブな質を持つものであれ、「傷つける」ことに成功した表現は、優れた表現である、と思っています。
だから、「どう傷つけたいか」の意図の存在は重要なのです。善意・悪意なんて云う次元で語られるべきものでは、それはなく。

その表現の程度はともかく、彼女は表現をおこなうもの、と云う場所に自ら立っています。だとしたら、考えの浅さなんかを理由に彼女を免責にするのはひどく彼女を軽んじていると云うことだ、と思います。またそれに甘んじるようなら、本当に致命的に表現者としては駄目です。

で、えと、きくちさんとぼくはとりあえずぶつかってから見解の擦り合わせをするのには慣れていますので(こっちでそう思っているだけかもしれませんが(^^;)。
ご心配いただきありがとうございます。どこに重点を置いて考えるか、はつねに微妙な差異であっても議論の対象とすべきことです。
by pooh (2008-02-07 23:44) 

Cere

初めてのコメントがこんなので恐縮ですが…

> 菊地成孔がどこかで「歌がうますぎて変になるしかなくなったひとたち」について書いていたのを読んだ記憶があります。井上陽水とか、森山直太郎とか。

これですね。僕の中でも変に印象に残っています。
http://www.bounce.com/article/article.php/1796
http://www.bounce.com/article/article.php/2119
by Cere (2008-02-08 01:41) 

pooh

> Cereさん

あぁ、そこでしたね。

ここから話を発展させると、「伝えるべきもの」と「伝える技術」みたいな議論につながってくるんでしょうね。
by pooh (2008-02-08 07:47) 

pooh

PseuDoctorさんのコメントのお返事に書いた内容につながってくる以前のエントリがどれだったのか思い出した。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-16-2

一見関係なさそうなエントリがなんとなくつながってくるのは多分ぼくと云うひとりの人間から出てきているものだからで。そう考えると、たいして幅のない人間だってのも明らかになってしまうのか(^^;。
by pooh (2008-02-08 07:50) 

黒猫亭

>Noeさん、Cereさん

リンク先を読みました。つまり、変な歌い方には「技倆のなさをカバーする為に変なアレンジを加えたのがスタイルとして定着する」のと「剰りにも巧すぎて後は崩れるしかないので変になってオリジナルとして定着する」のと二通りのパターンがあるということですね(笑)。

前者のパターンの変な歌い方の典型というと、オレは沢田研二なんか妙にイラッときますね、楽曲が一番伸びやかに歌うところで変に外れるのが堂々と変ですね(笑)。あと、鈴木亜美なんかベタに変な癖で下手を胡麻化してますね。最近では、最初イラッときたのに何となく好きになってしまった中島美嘉とかいますが(笑)。

何故か中島美嘉の下手さとか歌い方の変さは好きなんですねぇ、最初は嫌いだったんですが。あのように変で下手な歌い方でしか歌えない歌心があるような気がするようになりました。

>poohさん

昨日一応謝罪会見を観ましたが、何だか妙にあっさり編集してありました。大して実のあることは言ってないですね。TAKESANさんが仰るように、そもそもあの発言から一週間かそこらで十分に謝罪出来るわけがないんですが、それだからこそケジメとしての謝罪会見なんか重視しても仕方ないと思います。

この種の事件における謝罪のアクションというのは普通は減点法で視られるものですし、反省しているのが当たり前で、不遜な態度をとろうものなら前にも増して叩かれるというだけの話ですね。世の中には謝罪の潔さで点数を稼ぐ人もいますが、そういうのはオレは信用出来ないですね。単に処世としての自己演出が巧いか下手かという話ですから。

そういう意味では、可もなく不可もなくというか、お膳立ての整え方が会社仕切りという印象が強かったですね。会社から言われた通りお膳立てに乗って語っているような印象は否めませんでした。個人的には、ここ一番で自分のない人だなという印象が強化されただけでしたね。

しおらしく凹んでいるように見えたのは会社にかなり脅されたからなんじゃないの?としか思いませんでしたし、編集アリアリの一社独占録画会見というのも、悪意的なライブの質疑応答に耐えられる程度の見識ではないと判断されたからで、独占契約と引き替えにインタビュアーを抱き込む腹でしょう。編集にも事務所が立ち会って意見を加えたのだろうし(というか、件のラジオ放送の録音編集時にちゃんと意見を言っておけば済んだ話ですが(笑))、そういう仕掛けの端々に会社仕切りの生臭さが仄見えて白けます。

そういう「表現者もどき」の芸能人が今後浮こうが沈もうがあんまり興味はないというのが本当のところで、まあこれに懲りたら表舞台で水伝支持とかくだらないことを垂れ流さないでくれると有り難いという程度の期待ですね。彼女の謂う「女の子」ってのはU35だということが判明して、女性に普遍的に内在する「女の子の部分」のことではないということで、「女の子たちのカリスマ」みたいな演出もこれでチャラになったわけですから、無理にオピニオンめいたことを言わなくてもいいですよ。

そういう意味では、オレは現時点での彼女の内面よりも今後の外面的行動のほうを重視します。彼女個人がインチキに耐性が低いのは、直接対話の機会もそうする動機もない以上どうしようもないことですし、その観点で謂えば、変な妄言を垂れ流してビリーバーを増やす実害のほうがよほど大事だと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-08 09:49) 

黒猫亭

>>大して実のあることは言ってないですね。

一言言い添えておくと、一応リサーチの行き届いた内容ではありましたね(笑)。羊水云々というのは事実誤認であること、間違った内容を発言したことが悪かったことは押さえてありますし、言葉に対する姿勢が軽かったということに繋げてあります。まあ、kikulogやこちらやTAKESANさんのところで言われているような要素がおおむね盛り込んであります。それをインタビュアーが巧く誘導していて、順序良く編集で見せているので、全体として「巧く出来た謝罪会見」でした。

その辺、オレなんかから視ると「ビジネスとして過不足ない対応だな」と感じるからこそ、ラジオでああいう無思慮な失言を垂れ流した一個人の考えから出た言葉だという信憑性を感じませんでしたね。まあ常々申しあげている通り、オレは人の発言の裏を過剰に勘ぐるタチなので(笑)どうしても点が辛くなりますが、多分ド頭の「言い訳がましく聞こえるとすごくイヤなんですけど」という言い方に本人の肉声が顕れているんじゃないかと思いますね。

普通なら、失言の謝罪に臨む人間に、自分の言葉がどうとられるのがイヤだの何だの言う権利なんかないんだから、「言い訳がましく聞こえるかもしれませんけど」という辺りが本当だろうよ(笑)。
by 黒猫亭 (2008-02-08 10:11) 

Noe

>黒猫亭さん

>言い訳がましく聞こえるとすごくイヤなんですけど

私は、これから謝ろうってのに、この一言余計だなあと思ったのですが、確かに本音なのかもしれませんね。
「これから言い訳します」っていう。
by Noe (2008-02-08 12:24) 

pooh

> 黒猫亭さん

上手い下手ではなく、表現にうってつけの質感、と云うのはやっぱりあるんですよ(と、すげぇ久しぶりに昨日原田知世の「時をかける少女」を耳にして痛感しました)。えぇと、クオリア(笑)?

いずれにせよマーケティングが表現をドライヴするのは本末転倒です。そう云えばリファラを辿って、面白いエントリを読みました。

http://d.hatena.ne.jp/satomies/20080208

仕方なく会見の状況もYouTubeで見ましたが、やっぱ肚据わってねぇなこりゃ。
by pooh (2008-02-08 22:41) 

pooh

# Typoがあったので修正して差し替えます。

> Noeさん

言い訳もいらないし、謝罪もいらないんですよ。堂々と傷つけろ、そして傷つけ、みたいな感じですかね。それならこちらとしても、本気の批判に値する。

黒猫亭さんのおっしゃったように、結局その言葉の持つリーチがいちばん問題なので。
by pooh (2008-02-08 23:07) 

satomies

こんにちは。こちらもリファラたどってきました。
リンクしていただいたエントリは、実はその前日分の「続き」のようなものです。
「羊水が腐る」は医学的におかしいということで、では「高齢出産を避けようよ」と医学的に高齢出産のリスクを説明されたとしたら。
まあよく出てくる「ダウン症が生まれちゃうよ!?」みたいな忠告は、引き合いに出されるオバケのように扱われるということで、それはそれでそんなには気持ちのいいものではないよ、と。医学的なリスクとして「正しい」としてもね。

ただ、そういう世の中一般の発言傾向に関して、けっこう耐性ができているので、わたし自身は特に傷つかなかった。
でも自分が高齢出産でダウン症児を産んだのなら、(またかよ…)と、ため息部分は多くはなるかもしれないな、とも思います。
(わたしは20代後半の妊娠で、ダウン症児出産です)。

で、今回の発言に対して「問題である」とする場合、何をどの程度どういう風に「問題だ」としているのか、けっこう興味があったりするわけです。
それと「ひどい」と言う人が何に対してどんな風に「ひどい」と感じたのか、とか。

問題のこの発言者の方に関しては、poohさんのこのエントリ本文のココ。

>聞き手にどう響くか、と云うことをちゃんと意識して選ばれたうえでうたわれる言葉しか、ぼくは聴きたくない。

コレがばしっと言えてると思います、わたしは。

ただね、若いお嬢さんだからね、しっかり拾えるものを拾って欲しいとは思いますね。めそめそ反省前面出し、ではなくてね。
by satomies (2008-02-09 00:59) 

pooh

> satomiesさん

いらっしゃいませ。

彼女の言葉を問題にする場合に、どの角度から問題にしているのか、と云う要素はわりと大きいと思います。ぼくの場合は以前から継続的に考えている「ニセ科学問題とその背景」と云う、ぼく固有の文脈からのものですね。

satomiesさんの視点は、ぼくには持てません。気になっている部分ではあったので、お書きのエントリはぼくにはとても意義深いものでした。

彼女については、根本的に「伝える」と云うことに対する意識が薄いのかな、なんて思います。そう云うひとは「表現者」である必要はないので、そう云うひとの言葉が「伝わる」状況はどうかなぁ、って感じですね。
by pooh (2008-02-09 06:05) 

黒猫亭

>satomiesさん

エントリーで発言を引用して戴いた黒猫亭です。

>>で、今回の発言に対して「問題である」とする場合、何をどの程度どういう風に「問題だ」としているのか、けっこう興味があったりするわけです。

satomiesさんは、世の中の人間が倖田來未の発言の「侮蔑的側面」としている部分の当事者の立場から論評しておられるわけで、poohさんが仰るようにこういう視点というのは「そうでない立場」の人間には持てませんから、貴重なご意見であると思います。

その上で「そうでない立場」から引用のようなsatomiesさんのご興味に答えるとするなら、オレの場合、障害児を自らの胎内で育むことが決してない立場である男性、しかも未婚で子のない男性としての感じ方が基本になると思います。その意味で、オレは決してこの問題性の当事者の立場には立てないわけで、たとえば、オレがもし結婚して子供を儲けたとしても、直截子供を妊娠して産み落とすのは母親でしかないわけで、母親の配偶者、そして子供の遺伝的父親としての立場でしか当事者性が発生しません。

では、この可能性としての当事者性の観点から視て、あのような発言に対してどのように感じるのかと謂えば、satomiesさんが仰っているような「障害児の親になるのはイヤだ」という下世話な感じ方の問題になります。satomiesさんが相当この問題について当事者の立場から考え抜かれたことは、たとえば「どんなに低い確率であってもそのたった一人に自分がなる現実の前では意味がない」というご意見に顕れていると思うのですが、オレも自分が父親になるという可能性の想定においてそういうことをグダグダと考えたことがあります。

その「リスク」に対する絶対的対処法というのはたった一つしかなくて、それは「子供をつくらないこと」しかないわけです。現在オレが結婚もしていなければ父親でもないのはそういう理由ではなく、単に機会がないだけですが(笑)、子供をつくるということは、そのようなたった一人になる(正確に言えばその配偶者・父親となる)「リスク」を冒すことであるという認識はあります。

翻って倖田來未の発言に感じる不快感というのは、たとえばsatomiesさんのような立場を一種の「失敗」と見做す下品で乱暴な人生観がそこにあると感じるからです。この辺についてもsatomiesさんはご自身のブログで詳細に語っておられますが、たとえば高齢出産で発生上の「リスク」が高くなるとしても、それは真摯な人の生の営みの現実の問題であって、単純な家族計画や人生設計の問題ではないはずですし、若くして妊娠出産してもその「リスク」から完全にフリーになるわけではない。

そして、自分の当事者的な問題性ではない時点では、「リスク」などという無神経な表現をしてしまうわけですが、その表現が導き出す理屈の延長上には、じゃあ障害児を出産してしまったらそれは「失敗」なのか、障害児との親子関係というのは「失敗との向き合い」というリカバリー的な生き方なのか、という深刻な問題性が続いていると思います。

satomiesさんの発言姿勢を拝見するに、今現在はそんな心境から何とか脱出されていると感じるからこういうことを率直に申しあげるわけですが、「子は親を選べない」とはよく謂われていますが、親だって子を選べるわけではない。人の親だったら誰だって美しくて健康で賢くて優しい子供が欲しいという身勝手な「欲」はあるはずですが、今現在子供を育てておられる真っ当な親御さんなら、どんなに親の勝手な「欲」に釣り合わない子供でも、その子供のありのままの現状を肯定して愛し慈しんで大切に育てておられることと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-10 00:45) 

黒猫亭

たとえば一〇〇〇人の母親がいるとすれば、その内の一人は障害児の母親であるかもしれない。しかし、他の九九九人の母親と比べてその一人の母親は「失敗者」なのか、そうでないとしても「運が悪かった」のか、下世話な世間はついついそんなふうな判断基準でその現実を考えがちなのかもしれませんが、それは当事者性において判断を下すべきことでしかありません。

理想を謂えば、どんな子供であれそれは均しく天からの授かり物であり、自分の愛しい我が子であると思ってほしいと思いますが、それもまた非当事者からの勝手な期待でしかなくて、そう考えることを非当事者の立場から当事者に対して強制することなど出来ません。そのように考える非当事者自身が相変わらず「自分の子供だけは美しく健康で賢くて優しい子供であって欲しい」という、人の親なら誰でも抱くような身勝手な欲を棄てきれていないはずだからです。

自身が障害者ではないことに安堵し、出来うるならば自身の子供もそうであってほしいと願う、ただの非当事者にすぎないからです。そんな願いを一概に否定して好いことではないですし、同時にたまたま障害児の親となったとしても、そんな我が子をそうでない子供と同様に肯定し愛し慈しめる親でありたいとも願っているでしょう。

しかし、自分がそのような親になれるかどうかは、現実にそのような当事者性の立場に立ってみないとわからないことです。そして、冒頭で語ったように、オレ自身の当事者性において考えるなら、男性であるオレには直截子供を産み落とす肉体ではないというただ一つの「逃げ道」がある。この問題性において、オレが恐れていることが一つだけあるとすれば、その立場に立たされたときにオレは、その問題性に直截向き合うことが出来るだろうかという恐れです。

障害児を産み落とした妻を非難したり生まれた子供の現状の生を否定せずに、愛と慈しみを以て逃げずにちゃんと向き合うことが出来るだろうか、それがとにかく怖い。本音を言えば面倒なことや近所隣に体裁の悪いことはオレだってイヤですから、そういう立場に立ちたくはないけれど、人の親になるということはそういう可能性を受け容れるということでしかない。だから、下世話な生活人であるオレは、おっかなびっくり自分の生の現実の恐ろしい可能性にもちゃんと向き合いたいと願うしかないのです。

倖田來未の発言が強烈な不快感として感じられるのは、satomiesさんが仰るように「賢く」生きることでそういう「リスク」から逃げたいという下世話な性根が透けて見えるからで、それは彼女が世間を識らない健康な若い女性であるからといって免責されるような事柄ではないと考えます。たとえ、その発言を当事者性を以て受け止められる立場にあるsatomiesさんが痍附かなかったとしても、生の可能性の恐ろしさの前でおっかなびっくり立ち向かいたいと願っている多くの人々の感情を痍附けたことは事実ではないかと思います。

satomiesさんのエントリーを拝見することで、オレは自身の生の未然の可能性に対して力強い希望を得ることが出来ます。たとえたまたま他の子供と違った子供の親になったとしても、この方のように他の大勢の親と何ら変わりなく自分の子供に接することが出来る親が存在する、それが聖人君子でも何でもない極普通の生活者の一人であるという事実に、かなり救われるものを感じます。

そういう言葉に救われる一方で、そういう可能性がただイヤだから自分や自分の関係者だけはそういう「失敗」を避けたいという醜い性根を見せ附けられると、この娘は人の人生の重みなんか全然わかっていないのに識ったふうな口を利いているんだという不快感を感じます。たしかに若い人間は誰の前にも横たわっている人生の恐ろしい側面なんか考えたくもないでしょうけれど、「若いから」という事情を斟酌してそれを許容するなら、いつまで経っても考えません。そんな未熟な儘の人間にマスコミを通じて不特定多数へ向けた情報発信なんかされるとかなり迷惑です。

satomiesさんは痍附きもしなかったし、若い娘なんだからわからなくても仕方ないとお考えかもしれませんが、オレはこういう粗雑で自己中心的な感じ方を垂れ流す人間が途轍もなくイヤだ。こういう人間が愛だの恋だの脳天気に歌っているという事実が途轍もなく不愉快だ。その同じ口で若い娘たちの間に水伝を布教して廻っているのかと思うともう我慢出来ないくらい不愉快です。自分が年寄りであることのただ一つの特権というのは、若い人の若さ故の過ちに寛容である必要がないことだと考えています。

この人が生きていく為に必要な「フィクション」になど何の興味もないけれど、この人が生きていく為に必要なフィクションがこれほど醜い心性を顕わし、他者を不当に痍附けずに措かないものなら、性根が腐った儘なのはあんたの勝手だから、せめて人前ではきちんと黙っとけとしか感じません。これがオレの立場における問題性の認識ということになるでしょうか。
by 黒猫亭 (2008-02-10 00:46) 

corvo

poohさん
すっかり書き込みが遅くなってしまいました。

>先にも書きましたが、正直ぼくは表現者が高い倫理観を持っているべきとか、高潔な人格者であるべきとか、まったく思っていなくて(だいたいぼくはもともとパンクスです)。

この点については、僕も同じ考えです。僕自身、まったく品行方正な人間ではありません。自分の表現した物に全責任をもって引き受けるのなら(命をかけられるのなら)、どんな表現でもありだと思います。彼女には、それだけの覚悟は感じられないです。
公私と書いたのは、表現者が発信したものは、全て「公」と看做されると考えているからです。「私」を切り売りする表現もあってよいのですが、それは表現された瞬間「公」になるのだという自覚が必要だと思います。
僕自身は有名人ではないですが、実名を出して活動している以上、こういった場での発言も全て「公」であるという意識を強く持っています。

黒猫亭さん
ご返答ありがとうございます。僕の経歴についてすでにご存知であるということは、TAKESANさんのところで確認しました。念のため、プロフィールのリンクを貼っておきます。ちょっとふるいですが。
http://www.studio-corvo.com/utility/profile.html

芸能界に対する考察、面白かったです。おそらく想像するに的を得ていると思います。
僕は絵の世界に生きているものですが、僕の中では絵の価値というものは、相対的なものではないです。かなりはっきりと絶対的な価値観を持っています。ただ、それを誰とでも共有できる客観的な基準であるかと問われると、はなはだ自信がありませんが。
どんな職業にあっても不可欠なのは「コミュニケーション能力」であると思います。どんな表現者も、一人では何も作ることができません。僕は絵を描く作業をまったくの一人で行っていますが、本にして出版するには、数多くのプロフェッショナルの助けがなくては何も出来ません。画材だって、手に入れることはできないです。
音楽の世界は、画家の世界以上に、コミュニケーションや共同作業が重視されると思うのですが、そういったことにも思いが至らんないというのは、彼女自身の駄目さとともに、まわりのスタッフも相当に駄目なのだと思ってしまいます。
by corvo (2008-02-10 01:24) 

TAKA

「黒猫亭さんがエイベックス関係者を厳しく批判するのは、ノマ猫が原因である。なぜなら」
という真摯な議論を展開しようと考えていたのですが、どうやらそんな雰囲気では無いようですね。

そういえば、私自身は若い時と今とでは、障害を持つ事に対する考え方は変わりましたね。
と言うのも、年を重ねるごとに、体力が目に見えて減ったからです。以前は午後九時までの肉体労働の残業も、平気だったのですけどね。三年前に、体の一部がしびれて軽い麻痺状態になった時は、色々考えました。でも今は落ち着いています(^^。世の中には色んな立場の人が居る事に思いが至るようになり、「くよくよしている場合では無い。」と思い直したからです。

>めそめそ反省前面出し

まあ、TV業界にも色々事情があるでしょうからね。私は、倖田さんの新たな一面が見られて良かったなと思います。反省しているように見えましたから、きっと良い方向に再出発してくれると思います。ただ、正しい方向に導いてくれる人が身近にいるかどうかが問題ですね。水伝の概念を受け入れていたと言う事は、怪しい話に嵌っている人が今まで身近に居たという事が考えられますから。そういう意味では、倖田さん自身が今までのその環境を、どう変えていくかに懸かっていますね。

corvoさん、こんばんは。
>僕は絵の世界に生きているものですが

私はkikulogで最初にお見かけした時は、科学者とばかり思っていました。絵を描いているお方だと知って、驚いたのを今でも覚えています。corvoさんのお写真を見てからは、「ちょい悪芸術家」という印象です。

>まわりのスタッフも相当に駄目なのだと

同感です。倖田さんの周囲の人も、「何を批判されてるのか」を考えてくれれば、今後は違った観点からの番組を、提供してくれると思います。


ところで金曜日、倖田さんが泣いていた番組で、「デットクス」の文字を見ますたorz。
by TAKA (2008-02-10 02:23) 

pooh

> 黒猫亭さん

当事者のことはある程度当事者にしか分からなくて。
なら、もうそこで割り切ってしまっていいのかと云うとそれではあまりに寂しいし、そこで留めないためにコミュニケーションにも表現にもアプローチしようとする部分があるわけで。

そこに対する自覚の欠如については、表現者である、ないを問わずぼくも嫌悪感を感じます。
by pooh (2008-02-10 05:45) 

pooh

> corvoさん

ぼくは一面、道徳や倫理と芸術は対立するもの、みたいな感覚を持っています。多分これは入り口を間違えたからで。

コミュニケーション能力と云う言葉については最近はいやな使い方をされる場合が多いんですが(その場を呪術的にコントロールする能力、みたいな)、あらゆる表現は本来動機においてコミュニケーションなんですよね。
by pooh (2008-02-10 05:49) 

pooh

> TAKAさん

個人個人はそれぞれの相違を抱えています。障害だって相違と云うか、強烈な個性ですよね。

偽善者っぽく、金子みすゞの「みんな違ってみんないい」を引用しておきましょうか。
by pooh (2008-02-10 05:54) 

satomies

こんにちは~。
黒猫亭さんのコメントがものすごく興味深かったんで、新エントリ上げていただいちゃいました。
こちらへのリンク、それから著作権として黒猫亭さんとこのリンクもきっちり付けました。不都合あったら遠慮無く言ってくださいませ。

poohさん、すごいありがとうです。エントリ本文も皆様のコメントも全て興味深く、こちらと出会えてよかったです。
by satomies (2008-02-10 10:13) 

pooh

> satomiesさん

追加エントリ読みました。

ここはエントリ本文では完結しないんですよ。みなさんコメント欄で抜けている部分を的確に埋めてくれたり、容赦なく突いてくださったり。ぼくが結構猪突猛進で穴だらけなので、いつもありがたく思ってたりします。

持っていなかった視点としては、でもsatomiesさんのものがとびきりでした。で、その視点のぼく自身での処理できなさ加減に対して、黒猫亭さんが黒猫亭さんなりの消化の仕方を提示してくれる。これはこれである意味厳しい環境ではあるんですが、でもその厳しさは望んでもそうそう得られないものだよな、とか感じています。
by pooh (2008-02-10 11:32) 

FREE

こんにちは
 
この話とあわせて吉村医院の話も眺めてみると良いと思います。
私はまだ吉村医院の話自体が私の中で整理できていませんが。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
 
by FREE (2008-02-10 13:34) 

黒猫亭

>satomiesさん

ああ、引用に関しては典拠さえ明示して戴ければ全然OKです。poohさんも許諾しておられるので、オレのブログまで紹介して戴いたのは、こちらとしても有り難いくらいです。ちょっとあのコメントはかなり立ち入った物言いになったので、正直言って書き込もうかどうか迷ったんですが、そういうふうに言って戴けると嬉しいし、書き込んでよかったと思えます。更めて、お礼を言わせて戴きますね。

さて、たしかにsatomiesさんが元エントリーで仰っていたように、二五かそこらの小娘が自分の青図にない人生の在り方なんて想像出来ないのは自然かもしれないし、翻ってオレが同じ年齢だった頃を思い出してみてもそんな知恵があったとは思えません。

しかし、たとえばその頃にブログのようなツールがあって、オレが不用意に同じようなことを公に垂れ流していたとしたら、遠慮会釈なく苛烈に叩かれないと絶対にそんなことは考えなかっただろうとも思います。前のコメントでも言いましたが、若い人の若さ故の過ちを年寄りが寛容に受け止める必要なんかないんだと思いますね、もう頑迷な年寄りでいいんだと思います。

これまで生きてきた自分の生の実感において、これだけは言っちゃいかんだろうと感じることにはマジ怒りしないと、何というか人の生の値打ちがどんどん安くなるんじゃないかという危機感があります。それこそ極端な相対主義の擁護意見というのは、人の生の値打ちを相対価値で値踏みするような危うさを感じるんですね。

そういう意味では、poohさんたちが仰るように、曲がりなりにも「表現者」「アーティスト」と呼ばれる立場に好きこのんで立つ人間は、普通の二五歳と比べてもっと厳しい基準で他人事として無情に裁かれることにも耐えなければならないし、そういう覚悟を持って公に臨むべきなんだと思います。

そういう生の値打ちと表現の値打ちを比べると、オレはやっぱり普通の人生の値打ちのほうが断然重いと感じるし、poohさんが仰るような表現者としての腹の括り方というのは、そういう普通の人生の自明な値打ちに対して、確信犯で挑発や攻撃を仕掛けて人の心を動かす行為に必要な覚悟のことだろうと思います。極普通の人の人生が夫々持っているはずの重い値打ちに釣り合うだけの覚悟もなければ、作品によってその表現の値打ちを実証することも出来ない人間が、ヘラヘラと安っぽく「表現者でござい」みたいな顔をする厚かましさ、これが多分poohさんやcorvoさんの苛立ちを掻き立てるんだろうと思います。

おそらくこの世から倖田來未の表現が消え去ってしまっても、移り気な世間はあっという間にその存在すら忘れ去ってしまうでしょうが、彼女の失言によって与えられた不快感は、ことによると一部の人々にとっては一生忘れられないものになるかもしれない。つまり、愚かな一言の失言より値打ちのない表現行為ってどうなのよという、そういう話になるのかなと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-10 13:41) 

pooh

> FREEさん

ぼくもリンクを貼っていただいたエントリ本文のなかで書いた、なんと云うか悩みみたいなものを解決できていません。
by pooh (2008-02-10 21:59) 

pooh

> 黒猫亭さん

黒猫亭さんクラスの周到さがないと踏み込めないし伝えられない、そう云う領域に属する話も相当あるんだろうな、なんて感じました。

satomiesさんに届いたのはすごく嬉しいことです。
ぼくには多分できない。
by pooh (2008-02-10 22:02) 

satomies

こんにちは~。
吉村医院関連のリンク行ってきました~。
実はですね、わたしは一人目、つまりダウン症児である娘は助産院での出産なんです。
まあ要するに「自然なお産」というものに憧れたクチですわね。
ただ、大半は健康な安心な出産でも、わたしの娘は実は生後すぐから医療を必要とする子どもだったわけです。
こうしたことが起きることを漠然と、「自分は違う」と思っていたんだな、と気づく。なんてとこがありまして。
その上で、娘の場合は出産直後から即医療体制になっていかなくてもとりあえずはよかったということではあったんだけれど、もしかしたら出産直後から即医療体制の方がよかったんではないか、とも思った。
それでも、出産直後から即医療体制で、はい障害児を産みました状態にさらされるよりも、助産院ならではの産後すぐからべったり母子状態いわゆる自然体制が、その後告知される障害の受容の根底に影響をしているのではないか、とも思わなくないところもあります。

まあ吉村医院の例は非常に極端ではありますし、命と引き替えのストーリーはわたし自身は絶対に認められないけれど、簡単にこう、とばかりは言えないところかな、とも思います。

それと、出産に対しての希望というものは、希望は希望という線と、他者否定というところで成り立っている希望という線があるんじゃないか、とも思います。
後者の場合は、その「他者否定」が自身のプライドにかかわってくるとき、難しいことになるんだろうな、という漠然とした推測があります。
またその背景には、出産に対してそうも言いたくなる、そうした幻想も持ちたくなるような、「冷たい医療のそばでの出産」という現実も多いということもあるんじゃないかとも思います。
出産は、生まれてしまうとその命の迫力と巻き込まれる日常の方が大きくて、どんな出産だったかということは特に話題には上らなくもなりますが。
それでも「冷たい医療のそばでの出産」を経験してる人も、ままいるものだよなあ、とも思います。

二人目はうってかわって、芸能人の利用もあるちょいとブルジョワ産科医院で出産。まあたまたま実家に一番近かったという理由の選択なんですが。
ここは待合室からしてホテルかい?みたいなとこだったのと、陣痛室のベッドがあっと驚くお姫様仕様だったりして、冷たさとは無縁のような感じだったんですけれど。
それでも出産直後から当然のように時間コントロールの粉ミルク使用とか、一人目助産院出産者からしてみれば、首をかしげるようなことはちょこちょことはありました。
そんな背景が作り上げている「自然なお産バンザイ宗教的思考」もあるんじゃないか、とも思ったりします。
本当は「全部ちょうどいい」とこがいいんですけれどね。
by satomies (2008-02-10 23:36) 

pooh

> satomiesさん

吉村医院のお話は難しくて、辛いです。それは多分、価値観についての議論になるからで。本当は個人の価値観を超えた地平での議論にしなければいけないんですが、それがどこなのか、どうすればそう云う論じ方ができるのかが見つけられない。少なくとも片方の当事者にとってそれが価値観の問題なら議論はそこを離れられないし、価値観の問題だと思っていることをほかの角度から一方的に論じられれば、それは場合によっては「人格攻撃」と認識されてしまう。

ややこしいです。その価値観の持ち主にすべて帰することのできない問題である以上(当事者としての赤ちゃんが存在するわけですから)適切な位置づけを見つけて論じるべきなんだと思ってはいるんですけれど。
by pooh (2008-02-11 09:59) 

黒猫亭

>satomiesさん、poohさん

リンクを辿って一通り読ませて戴きました。satomiesさんのご意見も踏まえた上で言うなら、妊娠出産の問題一般が難しいのは、それ以外の大概の社会的な決め事や倫理の規範というのは、すでに存在する既存の個人同士の権利や義務を扱うものでしかないからなのかな、と漠然と思いました。

つまり、妊娠出産というのは、最初は夫婦間の二者の問題でしかないのだし、それと社会との関わりにおいて決め事や倫理が考えられているけれど、その一連のプロセスの最終局面では新生児という新たな当事者が介在してくるわけで、この新しく生まれてくる直接当事者を、既存の社会システムはうまく織り込めていないのかな、と感じます。

局外者の立場においてオミットして考えがちなのが、初期のプロセスにおいて妊娠出産が紛れもなく夫婦という二者間の問題性だという事実で、その時点では新生児は可能性としてしか存在しないわけです。しかし、妊娠出産に関する問題が表面化するのは必ず出産までのプロセスが終わった時点ですから、周囲の人間は完全に新生児という当事者が存在するという前提で状況を考えてしまいます。

それ故に、新たに生まれてくる命を基準に状況を裁きがちですよね。しかし、その新たな命が影も形もなかった時点では、事実として紛れもなく夫婦間の問題でしかなかった時制が存在するわけで、それはやっぱり無視して好い事柄ではないのではないかなと思います。

たしかに妊娠出産というのは、新たな命を生み出す為の営みですから、プロセスの最終局面で唐突に介在してくる当事者である新生児を判断の基準に据えて考えることも重要だろうけれど、その為に両親はすべてを犠牲にすべきなのか、彼らの想いのようなものを完全にオミットして考えて好いのか、そういう疑問を拭い去れません。

吉村病院の件では、両親の態度や物の考え方に大きな問題があって、新生児の死亡に関して一義的な責任があることは否定出来ませんが、多分、現時点で安易に考えるなら、この人たちを非当事者性において倫理的に裁くことしか出来ないわけです。リンク先でなとろむ先生がいつものようにシニカルに批判するのではなく、一種の恐怖を感じておられるのは、ご自身が医師だけにそういう事柄に対して安直な決着を措定出来ないからなのかな、と思います。

自らの愚かしさの故に、それほどの危険性がなかったはずの出産で子供を死なせていながら、助産医に感謝し幸福を感じる夫婦を前にすると、その幸福を裁くことしか出来ないという無力感を感じるのでしょう。オレもその夫婦の身勝手な幸福に対して、倫理に基づいて裁くという以外の対処の仕方を思い附きませんが、おそらくこの人々は他者から裁かれても何とも思わないのでしょう。

そして、この人々を裁くということは、彼らが彼らの判断で我が子を死なせたという事実に直面させるということですから、それが本当にこの問題性の解決で好いのかという疑問も感じます。それでもおそらく、この種の問題が実現されてしまった時点では、多様なアスペクトにおいてこの人々を裁くという以外の解法は、現状において用意されていないのだと思います。この世に新たな命が生まれてくるという神秘に対して、現代の社会はこのような不器用な対応しか出来ないのでしょう。
by 黒猫亭 (2008-02-11 14:56) 

黒猫亭

ただ、オレ個人はどうも医療に関しては多くの人々とちょっとズレた感じ方を持っていますので、剰り整合的に論じることは出来ないだろうな、と思います。というのは、どうもオレは現代医療の恩恵というのは「オプション」的に感じる傾向があって、現代医療で命が助かれば儲け物という感じ方が抜けきれないんですね。

だからどうしても医療裁判などの問題性も、他の人よりも何処か重く受け止められない部分があって、こういう問題についても両親の思想的なものによって新生児が死亡したという結果をどの程度に見積もれば好いのか、逡巡があります。多分医療の問題において本当に重要な評価軸というのは、命の重みもさりながらQOLの問題なんじゃないかと感じる部分があります。現代医療が人間の命や健康に対して有意に貢献可能なのであれば、最終的には個人の生の充実を目的視すべきなのではないかと考える傾向にあります。

そうすると、そもそも自然分娩では危険性がある出産に関して、帝王切開を選ぶということが本当に絶対の選択肢と断言出来るかという部分でも逡巡してしまう。新生児の命という基準ではそれ以外にないはずなんですが、そう断言することは一種「お産は病気じゃないんだから安全に産めて当たり前」という考え方にも繋がるような気がするし、それが産科医の係争リスクを高めている側面もあるのかな、というふうにも思います。

結局はリスク対効果比の問題になってくるわけで、帝王切開なら高確率で安全な出産が可能だけれども、リスクがゼロではないわけです。これはたしかに非専門家である当事者に対して説明しづらい側面があって、「帝王切開ならほぼ安全」と保証することは、「でも少ないながらリスクはある」ということと裏腹でしかない。新生児の命がかかっているのだからリスクの少ない方法をとるべきだという理屈は立ちますが、それを強要することは出来ないわけです。

強要するならゼロリスクを保証しろという話になりかねないからで、医療なり科学なりというものは原則的にゼロリスクを保証しないものですから、リスクの評価というのはどんなにインフォームドコンセントを尽くしても最終的には当事者の判断に依存せざるを得ないわけです。その結果吉村病院のようなケースが起こったとしても、それを裁くことは飽くまで結果論でしかない。そして、最前申しあげたように、こういう事柄を結果論で裁くことが本当に妥当な解決なのかという問題があります。

このケースの根底には「自然崇拝」というアカラサマに非合理な心性があるからニセ科学批判の文脈で言及可能なようにも見えるけれど、そうでないケースというものもたくさんあるわけで、その普遍と繋がっていない個別例を裁いても本当の問題性に触れたことにはならないのではないか、という疑問があります。

吉村病院のケースの場合、この両親が新生児の死に対して責任があると言っても、それは非合理な思想によってリスクの評価を誤ったという意味でしかない。それは何に基づいてどの程度に評価すべき事柄なのか、本当は簡単な問題ではないはずなんですね。

歯切れの悪い言い方になりますが、この種の事柄は、やっぱり簡単に考えてはいけないのだと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-11 14:57) 

pooh

> 黒猫亭さん

もう、ものすごく難しいんですこの問題。ファクターが多くて、それらのインタラクションが複雑で。一回性のものではなく、必ずなんらかの普遍性を内包している種類の事柄だとは思うんですが、そこに辿り着けない。
ぼくとかFREEさんみたいな、比較的明解なはずの論者がかりそめにも一時的な結論にさえ辿り着けない、なにかそう云う種類のものがそこにあるような。
by pooh (2008-02-11 23:23) 

黒猫亭

>poohさん

多分、核心に近い位置にあるのは、これが新たな個人を生み出すプロセスに纏わる問題だという部分にあるのかな、とは思います。単なる非合理と医療に関する問題であるなら、これほど面倒な話にはならないはずです。たとえば宗教上の理由から輸血を拒否した事件でも、既存の個人によって構成される問題である以上は、それほど面倒な問題ではないでしょう。

人間も生物である以上、一人の母親がその肉体を以て新たな命を育み産み落とすというプロセスを経ることで繁殖するわけで、何処から何処までが母親の問題で何処からが子供の問題なのか、少なくとも妊娠出産というプロセスにおいてはそれが窮めて未分化であり、遵って人権と自由意志に関する社会秩序の合理が、このプロセスにおいては窮めて曖昧な儘で一概に決定することが出来ないという事情があると思います。

個人という概念が、社会における最小単位である独立した人格を前提としたものでしかない以上、それ以前の生命とそれを育む個人の関係性は、当たり前の社会秩序の概念で読み解くことが困難であるというもどかしさを感じます。この問題にはおそらく未生の儘に死ぬ命の問題も絡んでくるはずですし、それは必然的に人間という存在をどのように捉えるかという問題とも繋がってくる。

それ故に、この種の問題性に関しては普遍に触れ得ないとしても個別に対処していくしかないのでしょうし、とりあえずは無根拠な自然崇拝の非合理を撃つ以上のことは出来ないと思います。核心のところでどのように縺れ合っているのかを解き明かすことは困難でも、そこに繋がる辺縁にある非合理に対して声を挙げていくしかない。

多分、これはニセ科学批判や非合理批判という問題性の切り取り方で効果的に対処可能な領域性ではないのではないかと思います。少なくとも、科学の合理のみで何某かの決定を下して好い問題ではない。科学的知見がベースになるとしても、そこから社会と個人の間で新たな合意が形成される必要があるわけで、そこには宗教の規範も介在するべきだろうし、呪術的な心性にも考慮が払われる必要があるだろうと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-12 01:09) 

pooh

> 黒猫亭さん

あぁ、そうか。
これって人間が社会を構築してきた、その根源的な部分に関わってくる問題なんですね。

ルールだの自由だの、そう云う表層的な「社会」の各要素と個人の係わり合いで片付かなくて、そもそもなんで社会というものがつくりあげられ、営まれているか、とかそう云う部分にまで、この問題は届いてしまう(と云うか、そのあたりのレイヤーをぼくたちになまなましく晒してくる)、と云うあたりが、なんと云うか簡単に触れられない印象として現れているのか。なるほど(相変わらずひとに云われないと理解しないなぼくは)。

これ、そうなるとぼくとか、さらに云うと技術開発者さんなんかの問題把握とつながってくるなぁ。つながってくるけど、やっぱりちょっと慎重にならないと論じられませんね。なんかすごくホリスティックな視点が必要になってきそうだ。
by pooh (2008-02-12 07:53) 

黒猫亭

>poohさん

しつこいようですが、オレ自身が考え方を整理している段階なので、もう少しだけお附き合い戴ければ幸いです。

>>これって人間が社会を構築してきた、その根源的な部分に関わってくる問題なんですね。

そういうことなんでしょうね。社会というのは、歴史的に個人の生存や権利の保証の前に家系や共同体や民族や種の存続を保証する目的を掲げてきたわけだし、その前提で生殖の問題が社会秩序に組み込まれていますよね。

近代に至って個人の人権の整備が進んできましたが、それは或る社会的立場に在る個人をディジタルに切り取って人権の範囲を規定するという方法論なんじゃないかと思いますが、生殖に関してはその秩序附けの方法論が巧く機能していない。つまり、生殖のプロセス一般には「原理的に未整理である」という意味での非合理が内在しているということになるかもしれません。

生殖の全プロセスに亘って考えるなら、或る時点までは父母の人権の問題であった時制が間違いなく存在し、直接行為者である母の人権の問題に収斂する時制を通過して、最終的には子供の人権の問題の時制に到達する。それがシームレスで連続的なプロセスである為に、どの時点でその問題性が分岐するのかを一義的に決定出来ない。さらに、家族、父母、母親、父親、子供という階層性の異なる各要素がその連続的なプロセスに随時再帰的に関わってくる特異的な時点が存在するので、尚更ややこしい問題とならざるを得ない。

たとえばよくある例で謂えば、「母体をとるか子供をとるか」という局面に関して社会秩序は何も言わないし何も保証してくれません。「よく考えておまえが選べ」としか言わないわけだし、その決定に対して何も価値判断しないし論評も加えない。現時点においてはそのようなものである以外にはないわけです。

どちらかが死に、どちらかが生き残るのだとすれば、そのどちらか一人の生存に妥当な努力が払われれば社会秩序の観点で不都合はないわけだから、その選択に関しては何も言及しないわけです。無根拠に死ぬ一人を決めるという、本来人間が決定すべきことではないことを決定せざるを得ないという非合理の解消を、社会秩序は原理的に放棄しているわけですね。
by 黒猫亭 (2008-02-12 17:29) 

黒猫亭

もっといえば、遺伝的父親の生殖参加の問題が、必ずしもその連続的プロセスの終端まで一貫的にコミットしている保証がなく、そもそも母親との情愛や性愛に基づく二者関係を基準とした夫婦関係や性道徳という別種の関係性の文脈の倫理で括られており、さらにそれが社会の中では窮め附けのプライバシーの問題として公の文脈からは切り離されているという難しさがある。恋人や配偶者との情や秘め事の問題にまで社会から口出しされる謂われはない、というのは当たり前の話ですが、それが生殖の問題に原理的断絶をもたらしている側面は否めないわけです。

それこそ、この問題をとことんまで突き詰めて普遍に至るなら、社会の根源的な枠組みの問題にまで到達してしまうわけですね。大袈裟に言えば、国家、社会、家族、夫婦という人間の関係性の根源にこの問題が横たわっている。現状の社会秩序は、そのややこしい問題や原理の破綻を、個人の倫理に投げ返すことでやり過ごすという身振りによって成立している部分があるのではないでしょうか。

そこで社会から投げ返された問題性を読み解く個人の倫理の根拠が「自然崇拝」という非合理だったことが吉村病院の悲劇に繋がるわけですが、では、それを批判する社会の側がそれに替わるどんな公準を提示出来るのか、こういう問題が問われてくるのではないかと思います。

たとえば吉村病院の件を子供の死という結末から遡って個別的に裁くのだとすれば、その裁きに用いた理路の根本を保持しながら別の個別事例を裁くことが可能なのか、それが可能でなければ、単に将来的に独立した個人として人権を保証されるべき命の生存に十分な努力を尽くさなかったと「見做す」という身振りの問題でしか在り得ない、結果論において当事者の行為を評価し責任を追及するということでしかない。

それもまた個人の倫理でしかないとすれば、社会秩序が妥当性を保証しない非合理な局面に対峙した或る夫婦が、自身の責任において選んだ倫理の基準を、他者が外部から自身の個人的な倫理に基づいて裁くことが果たして妥当なのか、そういう問題になってくる。現状の社会秩序を前提とするなら、「自然崇拝」という個別の倫理基準の無根拠性や非合理性に言及することしか出来ないわけですが、それを語ることでは子供の死という最大の問題に肉薄し断罪することは出来ないはずです。

たしかにこれは、選れて社会科学的な、そして哲学的な領域の問題と謂えるのかもしれません。
by 黒猫亭 (2008-02-12 17:30) 

pooh

> 黒猫亭さん

あぁ、論点がクリアになっていく。

> 或る社会的立場に在る個人をディジタルに切り取って人権の範囲を規定するという方法論なんじゃないかと思いますが、生殖に関してはその秩序附けの方法論が巧く機能していない。つまり、生殖のプロセス一般には「原理的に未整理である」という意味での非合理が内在しているということになるかもしれません。

ぼくは漠然と(個人を)切り取る作業が(社会から)切り離す作用を生んでいるんじゃないかとか考えたりしていたんですが、それ以前にそもそも、議論するにあたって有効な地平さえない(ので当然共有もできない)状況にあるわけですね。

確かにそれはそうで、ご指摘の時制の問題にしても、それをどう把握すべきかと云う議論をする、その議論の前提さえ存在していない。存在しているのかも知れませんが、実感として自分の立ちうる場所もイメージできない。

この欠落って、気付くと結構巨大ですね。しかも日常において事実上不可視な状況にある。ちょっとびっくり。

> たしかにこれは、選れて社会科学的な、そして哲学的な領域の問題と謂えるのかもしれません。

そう思います。これだけの大きな欠落が存在するのには、なにかしら構造的な理由が存在するに違いない、とか思いますけど、そこにアプローチする手法は多分人文的なものしか使えないように思います。

社会学徒を自認する某氏なんて、こう云う問題をどんなふうに把握するんでしょうね?
by pooh (2008-02-12 22:34) 

黒猫亭

ご無沙汰しております。無沙汰解きのご挨拶がこんな余談で恐縮ですが、このエントリーでpoohさんが原田知世の名前なんか出されるものだから、ついついどうしても聴きたくなって、衝動的に尼で「2000 BEST」を発注してしまいました(笑)。

うっかり予約商品と一括発送にしてしまったので今頃になって届いたんですが(笑)、やはり歌唱者としての原田知世の旬はこのアルバムの収録曲の頃に尽きますね。アイドル歌謡の尻尾を残しながら歌唱技法が洗練されていった「雨のプラネタリウム」のヒット前後が一番好きで、「彼と彼女のソネット」などは、最初に聴いたのが原田知世版ということもあってか、原曲の「T'en va pas」やその後のカバーよりもこの知世版が一番良いのではないかと思います。

これ以降になると、何だか今井美樹とかと同列のありふれたアーティスト的なポジションに行ってしまってつまらなくなるんですが、まあ、継続的に追い掛けている対象でもないので、それ以降の活動にはさして興味はないです。最近では「姑獲鳥の夏」に出演していますけど、明らかにミスキャストなんではないかと思いますね、原田知世にさせられることとさせられないことを考えて謂っても(笑)。

嘗てこのアルバムは、カセットに落としたものを日常的に繰り返し聞いていたのですが、いつの間にか何処かに散逸してしまったので新たにCDを買い直したという次第です。
by 黒猫亭 (2008-03-08 04:00) 

pooh

> 黒猫亭さん

落ち着かれましたか?
で、いきなり反論となるのですが(^^;。と云うのは、ぼくは10年くらい前の鈴木慶一=トーレ・ヨハンソン体制時代の原田知世が相当好きだったりするもので。

ヴォーカリスト、と云うのはミュージシャンとしては特異な立ち位置のパートだと思うんですよ。自分の声が使える唯一の楽器なので、そのプレイヤビリティや音色は変更が利かない。ある意味すべてのヴォーカリストは余人をもって代え難いわけです(代え難いから貴重だ、と云う場合と、代え難いけどべつにいなくてもいい、と云う場合があると思いますが)。
で、結局のところその楽器としての性能とミュージシャンシップみたいなのがどこでバランスするのか、どのポイントでのバランスを愛するのか、みたいな話にもなるのかな、とか思うんですよ。「楽器」原田知世の性能はおっしゃる時期がいちばんそのピーキーさを上手く活用していたのかも知れないのですが、ぼくは10年くらい前の「ミュージシャン」原田知世の位置も愛好しています。

> 「彼と彼女のソネット」などは、最初に聴いたのが原田知世版ということもあってか、原曲の「T'en va pas」やその後のカバーよりもこの知世版が一番良いのではないか

これはぼくも近い感想を持っています。「カコ」に収録されているへたくそなフランス語によるカバーもそうとういいですけど。

ちなみに今井美樹にはあまり興味を持てたことがなかったりします。布袋に「プライド」とかうたわされていた時代は、そのプチSM的構図に下世話心が刺激されたりはしましたが。
by pooh (2008-03-08 08:03) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。