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「人間の基本仕様」について [世間]

「人間の基本仕様」と云う概念は、ニセ科学批判の文脈で援用されることが多い。これはうちのコメント欄にもいらっしゃる「技術開発者」と云うハンドルネームの方が提唱された、まぁこの文脈の中で用いられる概念で。いろんな学問分野で類似の概念が用いられている訳だけれど、ちょっとこの文脈ではそれに呼応した用いられ方をして来て、議論の中で意味合いが膨らんで来た部分がある。
ここだけじゃもちろんなくて、kikulogInterdisciplinaryをはじめとする複数のブログの、おもにコメント欄でこの概念は用いられて来た。
少し前のエントリのコメント欄で、とりあえずの概念のまとめにあたるようなコメントを主唱者である技術開発者さんからいただいた。ご本人の許諾を得たので、独立したエントリとしてコメント内容をあげさせていただく。目的は、その内容を(おもにぼくが、でもその限りでなく)引用可能にすること、である。
実のところ「人間の基本仕様論」というのも、いろいろと語っているうちに「進化」というか変化してきている面があるんですね。最初のうち言っていたのは、自動車の制動距離のたとえ話ね。自動車がスピードを出せば出すほどフルブレーキで停止できる距離は長くなる。これは変えようが無いことだけど、「じゃあ、事故になってもしょうがないね」とはならなくて、「見通しの悪いところでは速度を落とす」という運転技術が生まれる訳です。人間というのが「不合理な事でも信じてしまいやすい」というのは人間の基本仕様だけど、「じゃあ、しょうがないね」ではなくて、人間の作りあげた文化の中には、「不合理なことが、生きるのに邪魔になるようには信じないようにしようよ」という部分が含まれている訳です。
 それはまさに試行錯誤の中から生まれたものだろうと思うわけです。それを言ったのが「弓矢の工夫と狩りの祈り」という話で、「弓矢の工夫なんかしている暇があれば神様に祈れ」という部族は滅び、きちんと工夫したあげくに神様に祈って出かけた部族は生き延びて、その子孫が我々だろうとなんていう訳ですね。別に祈りを排除はしていなくて、工夫するのに邪魔になるような祈りを排除しているだけね。
 でもって次の段階で、「文化というのは人間の基本仕様を押さえ込むだけじゃあなくて、利用もしている」という部分をもっと大きく考え始めたのね。もともと言っていた話が「原始の村の狩りの勇者」という話なんですね。人間の基本仕様の中には「群れの中で優位な個体でありたい」という部分があるわけです。これが生のママ現れると、サルの群れでボス争いが起こるみたいに成るんだけどね。原始の村で狩りの分業制が始まったときに「勢子」と「仕留め役」みたいに危険度の差のある役割が生まれる訳ね。本来なら、危険度の高い役割はなり手に困りそうなものなんだけど、「あんたは村一番の勇者だ」と褒めそやすことでなり手を確保するなんて話です。
 実のところ、例えば「不合理なことを信じて言いふらす奴」に対して「そんなのを信じてお前は馬鹿か」と馬鹿にするような事にも、実は「群れの中の優位性」という人間の基本仕様は働いている訳です。自分より何らかの面で劣る者を馬鹿にすることで「優位の確認」をする行為だからね。サルの群れで優位な個体が劣位の個体にグルーミングを求めるようなのと対して変わらないのですよ。実のところ、「不合理な事を言いふらす奴はみんなで馬鹿にする」みたいな部分も群れ全体に不合理が広がらないようにするために、人間の持つ「優位性の確認(これ自体も実は不合理な衝動ではあるのです)」を利用してきたという経緯があるのではないかと思うわけです。つまり、我々は自分自身の不合理性を嫌悪するあまり、文化として不合理性を利用して「不合理の蔓延を押さえる」というやり方を捨ててしまっているのではないかなんて考えている面があります。
実際この角度で考える、と云う発想によって、いくつもの事柄をぼくはなんとか理解して来たし、そう云う意味では多分今後も頻繁に援用させていただくことになる概念だと思う。もちろん現時点でもスタティックな概念ではないし、もともと複数の場所のコメント欄で鍛えられて来た概念なので、今後も議論の中で変化したり、広がったりすることはあり得る(と云うか、そうじゃないとちょっと困る)。その点でこれは、ここまでの議論の中での到達点と云うか、so far的なものだと思うけれど、でも可用性を高くしておくことには意義があると思ってエントリ化させていただいた。

快諾に感謝します>技術開発者さん
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技術開発者

こんにちは、皆さん。もう少し補足します。

 私は社会学的な視点がかなり強い面があります。その視点で見るときに、「社会は個人の弱いところを補うように発達してきたが、その社会の築きあげた規範やシステムは必ずしも個人にとって歓迎されるものでは無かった」という意識があります。

 悪徳商法批判で「銀行の窓口の出納チェック」なんて話をよく例に出したんですね。まあ今はどうなっているか知らないけど、勤務時間は5時半だけど3時には窓口を締めてその日の現金やら伝票の出入りをチェックする。お客にとっては窓口が早く締まるのは面白くないし、窓口の職員にとっても「常に疑われるみたい」で面白くない。銀行にしてみても、勤務時間の賃金払いながら、お金の動かない時間を作るのだから面白くない。にもかかわらず、そんな風なシステムが必要なのは「人間は弱い者」だからではないでしょうか、そして銀行という組織は、その弱さを補う形で出納チェックというシステムを持っているのではないでしょうか。なんて言っていたわけです。

 ニセ科学の蔓延問題を議論していると、この「個の問題」という捉え方の強さを感じる面があります。「個の問題」で解決出来るなら、もともと金融機関の出納チェックの厳しさといった組織的なものは不要なハズです。人間は「個としては弱く、問題を無くすることができない」という部分があるから社会の様々なシステムを発達させてきたのでは無いでしょうか?

by 技術開発者 (2008-04-24 09:19) 

pooh

> 技術開発者さん

個と公、と云う問題はいろんな水準でつねにつきまといますよね。どちらをどんなふうにどれだけ重んじるか、と云うバランスは、いつも議論の中心になります。このあたり、以前よりNarrさんが考察されている部分にも関わって来ますし、黒猫亭さんの論にも通じる部分がある。

ニセ科学は、ある事柄が「全体としての科学」と整合していなくても、それらから独立した事象として科学的であり得る、と云う主張です。またそれを受け入れると云うことは、自分が前提としている諸々の事柄と受け入れているニセ科学が(どれだけ矛盾していても)同水準で信頼し得る、と云う発想でもあります。そう云う意味で、これらは似姿かもしれません。
by pooh (2008-04-24 22:42) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>個と公、と云う問題はいろんな水準でつねにつきまといますよね。

 なんとなく、公という事が実感として遠くなって「行政」とかが関与しないと「公」ではない感じになっているのかなと思います。私なんかの「公」の感覚はかなり原始的でして、例えば自分の田んぼを見回っている最中に隣の田んぼに病気が出ているのを見つけたら、「おい、大変だぞ病気が出ている」と教え、何か対策するならその対策も手伝う様な感じです。言われた方も「対策しないと隣の田んぼに広がる原因になっちゃうから」と周りの手助けを仰いででも対策する訳です。まあ、現代で言うなら、隣の家をのぞき込む人を見たときに「何々さんに御用ですか?」と声のかかるような付き合いの良い地域では空き巣被害が少なく、そういう事の無い地域では空き巣被害が多いなんて話の方が分かって貰いやすいかも知れません。

 なんていうか、ニセ科学の批判をきくちさんや天羽さんがやられるのですが、私は「社会人として社会の秩序を守ることに貢献する義務」という部分で行っておられていると思っています。つまり社会人の公的な義務ですね。上の例で言うと、田んぼの病気の兆候に詳しい農民が隣の田んぼの病気の兆候を見つけたから、「おい、大変だぞ病気が出ている」と言っているだけで、見つけるのは専門性が関与するけど、注意するのは専門性によるものではなくて、村人の義務として注意を喚起している訳です。

 この「村人の義務」的な感覚が伝わらない部分に「もどかしさ」というのはあります。
by 技術開発者 (2008-04-25 09:37) 

pooh

> 技術開発者さん

この辺り微妙な部分で、ぼくなんかはムラ的な「構成員の義務」みたいなのには反発を感じるんですよ。でも、自分で選んだ共同体に対しては、自発的な公的義務はあって当然(と云うか、機会があれば積極的に果たしたい)みたいな感覚もあったりして。
多分単純に、意識を一回経由しているかどうか、みたいな部分のような気もしますけれど。
by pooh (2008-04-25 22:52) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>この辺り微妙な部分で、ぼくなんかはムラ的な「構成員の義務」みたいなのには反発を感じるんですよ。

 実のところ、これも「行き過ぎと反発」の歴史みたいな面があるわけです。原始の村なんてたとえ話を良くするのだけど、非常に小さなコミニティにおいては、共同行為への参加は当然の形で起こるのね。「南極料理人」なんて本があるけど、南極の内陸部のドーム基地で10人程度の人間で越冬すると、いろんなことが「全員参加」になるんだけど、特に不満も生じない訳です。一つずつの作業が「自分が生きるのに必要」というのが目に見えて分かる訳だからね。実のところドーム基地では問題にならないことが昭和基地のレベルになるといろいろと出てくる面もあるわけですね。ましてや、我々の社会というのはコミニティの大きさはもっともっと大きい訳です。そのために「何のために自分も参加しなくてはならないのか分からないこと」なんかも多くなる訳ですね。でもって、それが「行き過ぎ」ると反発となる訳だけど、反発が「行き過ぎ」ると、今度は自分が生きるのに必要な事へも参加意識が生じなくなるわけです。私が「リアリティの欠如」と呼んでいる状態ですね。ニセ科学の蔓延する社会で生きるのは「生きにくいと思うから、何とかしよう」とは思えない状態なんです。自分の生きるという事と社会とは切り離されているという感覚の中で考えてしまうという怖さがあるわけです。

by 技術開発者 (2008-04-28 13:38) 

pooh

> 技術開発者さん

あぁ、そうですね。振り幅のようなものがあるような気がします。
背景にコミュニティとしての社会の(地理的な)拡大もあるのかな。いや、ひとりの人間が知覚できる地理的な社会の広がりは変わらなくても、そこに含まれる要素は間違いなくかつてない広がりから集めてこられたものですし。

これって確か随分前にFREEさんやosakaecoさんとお話ししていて出て来た話だったと記憶しているんですが、イノベーションの源流を流通で捉えた場合に、社会はどうしても拡大してしまう。そうすると、社会を構築する要素は、人間が実感を持って知覚できる距離感を超えてしまう、と云うことはあり得そうな気がします。思いつきのいい加減な推測ですけど、このことがリアリティの欠如にむすびつくのなら、これはこれで必然であり、また今後も拡大していく、と云うことにもなるような。
by pooh (2008-04-28 22:51) 

黒猫亭

>poohさん、技術開発者さん

少し前にpoohさんが仰った

>>この辺り微妙な部分で、ぼくなんかはムラ的な「構成員の義務」みたいなのには反発を感じるんですよ。でも、自分で選んだ共同体に対しては、自発的な公的義務はあって当然(と云うか、機会があれば積極的に果たしたい)みたいな感覚もあったりして。

という部分には大いに共感を感じるところがあって、オレは田舎の小集落で育って長じて後は長年都会で生きてきたからとくにそう思うのかもしれませんが、そういう鬩ぎ合いというのは、割合普通にある感覚なんではないかなと思います。

普通の人間が実感的に認識して対応可能な人間関係というのは、精々数十人くらいというところですかね。二〇人くらいまでは大体顔と名前が一致するけれど、五〇人くらいになるとかなり苦しいですね。学園物のドラマなんかで、教師がクラス全員の顔と名前と個性を把握することを巡ってエピソードが語られたりしますけれど、そのくらいがかなりギリギリというところだろうと思います。

会社組織でも、小さい会社なら二、三〇人くらいで廻していくのがちょうどいいというような話がありますよね。一〇〇人くらいというのが一番中途半端で、さらに規模が大きくなって数百人、数千人レベルになれば組織内のシステムで対応可能になっていく。一〇〇人くらいの規模が、経営者から従業員の顔が実感的に見えにくくなり、さらに組織構造やシステムで対応すると煩瑣性や効率面での弊害のほうが多くなる、という意味で最も中途半端だということですね。

まあこれは識り合いが言っていただけなんで、経営論・組織論としてはどの程度通用する話なのかはわかりませんが、実感的に把握可能なミクロの社会性と実感が喪失されたマクロな社会性という観点の例え話としては面白い話だったので、けっこういろいろなところで吹聴しています(笑)。

技術開発者さんが仰るような「リアリティ」に纏わる機序について考えると、今現在のリアルタイムでそういうバランスが実感可能なのはそういう場面なのかな、と思うのですが、大企業レベルのマッスでも、個々人のやっている具体的な業務が企業活動全体の中でどのように機能しているのか、マクロな観点においてどの程度の責任や義務が自身に掛かっているのか、という部分が見えにくいわけです。

これが二、三〇人くらいの規模ならかなり見えやすいわけで、具体的に実感可能な機序を念頭に置いて、責任や義務を意識して業務を遂行していくという話になる。ただし、その分組織内での役割と特定個人が密着しすぎていて、ほぼ代替手段や自由度が存在しない。集団内における特定個人への期待が即役割論と直結するわけで、個人の自由意志というのはそれほど尊重されないわけですね。

特定個人の都合に対してそれ以外の成員の都合、組織全体の都合が優先される場面というのが頻出するわけで、これがムラ的共同体の息苦しさに繋がり、「構成員の義務」というのは要は二〇人くらいのマッスの顔の見える個人の集団の大多数が納得するようなローカルな都合でしかない割には、拒絶することが困難な強力な圧迫感を与えるわけで、やはり普通は反撥を感じるのが当然なんだと思います。

それはつまり、小規模集団が実感的な関係性において組織を廻していくというのは、組織構造やシステムという筋論の部分に殆ど依拠せずに、実感的な都合の臨機応変な組み替えで対処しているということで、理不尽な要求事項を公平に分散することで廻っている部分があるわけで、理不尽と合理を摺り合わせるのではなく理不尽が理不尽の儘で個人の負担としてのし掛かってくる側面があるからだと思います。つまり、筋論ではなく具体的な都合で廻っている社会性だということですね。

対するに、大規模集団が非実感的な関係性において組織を廻していく場面においては、組織構造やシステムという筋論の部分が理不尽な要求事項を合理的に解消し公平に摺り合わせる機序が存在するわけで、組織内の個人には一定の自由度や筋論で反駁する余地があるわけですが、その分個人の役割論や責任の在り所が見えにくくなる。小規模集団の場合と比べて無駄なロスも増えてくるわけで、よく組織論で語られるように、大規模な企業組織には必ず利益に直結しない無駄な構成員が存在するわけです。

昨今では企業組織側がアカラサマに非情になりましたから、組織構造やシステムで特定個人の個人性の重要度が解消されるのであれば、その自由度によって特定個人を公平に遇するということよりも組織の都合を優先させたほうが得だということで、こちらもやはり個人の都合を圧迫し切り捨てて行く方向に動いているわけで、窮めて息苦しい世の中になっています。

どっちが一方的に良いという話でもないわけです。で、普通ならそれが適宜バランスされれば好いようなものですが、組織論の観点では何故かその中間領域はそもそもうまく廻っていかないわけで、なかなか難しいものがありますね。

で、社会全体というものを考える場合、企業組織と違って利益追求が最優先されるわけではなく、たとえば国家という括りに所属するすべての成員が公正に存続していける仕組みでなければならないわけで、そもそも企業組織の場合のように「利益に直結しない無駄な構成員」というものを前提として織り込んで考える必要がある。そういう役立たずを炙り出してクビにしてしまえばいいという簡単な話ではないんですね。

どうも昨今の国家運営にはそういう観点が欠けているようで、こいつは役立たずだから冷遇しようとか、カネを生まないような奴に国家がカネを掛けるのは国庫に負担を掛けるから合理的ではないみたいな論理になっていますが、そもそも国家というのは経済よりも上位の条理で運営されるべき実体ですから、経済性を優先的な尺度に据えるのは最初から莫迦げています。

ゴーイングコンサーンでどんどん儲けを拡大して存続していかなければならない、というものではなく、全構成員が公正に存続出来るような仕組みでなければならない。その際に、国家に利益を還元しているかどうかという利潤追求のロジックを織り込むと、後期高齢者保険問題みたいな馬鹿げたことを考え付くわけです。

本来なら、会社経営のロジックでは真っ先に切り捨てられるような人々の幸福をどう保証していくのか、という部分で国家の存在意義があるわけで、個々人の責任(たとえば労働意欲や労働能力と就業可能性の兼ね合いとか)を妥当に勘案しながら公正に全構成員の最大幸福をバランスしていくのが国家の存在意義であるわけですが、今は国家レベルですらそういうリアリティの喪失による転倒したロジックが幅を利かせていて、経済という限局的なロジックを国政という窮めて全体的な領域に持ち込んでいる。

国家全体の収益性を上げていくべきだとか財政を健全化すべきだというのは、利益獲得に貢献した人間がもっと報われる為ではなく、本来利益を生まない人間の幸福をも保証すべき国家の責務を果たす為の経済基盤を確保する為であるはずですが、収益性を上げたり国家経済を健全化する為に利益を生まない人間を切り捨てていくという発想が剰りにも転倒していて、現在の国政には良識がまったく期待出来ないですね。
by 黒猫亭 (2008-04-29 03:51) 

pooh

> 黒猫亭さん

コミュニティ、と云う話だと、いまの時代ではもうひとくくり枠が大きくなるのかな、と云うふうにも思っています。

ぼくらが日常の中で手に触れているもの、ぼくらの暮らしを成立させている要素のなかで、たぶん例えば半径500キロメートル以内で生み出されたものはほとんどないでしょう。それはどこか、国家を超えたところから来るもので。そうすると、その距離感、と云うのは多分感覚的には把握できないんです。

で、資本主義をドライヴする側(この国もそうです)には、その部分が皮膚感覚で掴めないからなんとかやってられる部分も多分あって。ロハスなんかもそうですよね。ほんとうに真剣に、グローバルに地球全体のことを考えられるはずがない、と云う知覚の限界を利用して、マーケティングアイテムに仕立てている。ちゃんとその辺りが把握できる人間だったら多分耐えられない手法なんですが、そこはもう掴めないんです。

資本主義には企業ロジックしかありません。それをかき集めて、国家を形成しています。多分それを成立させている要素のひとつに、個体としての人間の想像力の到達する限界、みたいなのがあって。
で、翻ってぼくらの日常にあるコミュニティをみた場合、そこにはぼくらの想像力の届かない要素が大量に入って来ているわけです。そのなかでどんなふうにふるまえばいいのか、と云うことをイメージする物差としては、やっぱり「知ること」「考えること」を基盤におくしかないんですよね。結局のところ、その部分を放棄することの危うさについてぼくは「ニセ科学」と云う切り口で論じているんだと思います。おっしゃるような、国家が単に企業の意思のみを代表するような行動を取っている現状において、それに対してなにかなし得るのは野放図な連帯なんかじゃなくて、まずは「知ること」「考えること」なんだろうと思っています。
by pooh (2008-04-29 09:18) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん、 黒猫亭さん。

 なかなか、難しい話題を振ってしまったなと思っています。私が以前言っていた話なんかを少ししてみますね。

 私がかみさんの買い物に付き合って、新鮮なアジの刺身が安く売られているのを見て「晩酌のつまみにしよう」と買い、晩酌しながらニュースを見ていて、「時化の海に無理して出漁した漁船が遭難」というニュースや「居眠り運転のトラックが多重玉突き事故」というニュースがあっても、つまみのアジの刺身とは結びつかない訳ですね。でも、ひょっとすると目の前の刺身が安いのは「大漁で値崩れして漁船の油代しか出なかった」結果かも知れないし、ニュースでやっている遭難は「その損失を埋めよう」と無理した結果かも知れない。目の前の刺身が安いのは「運送費をひたすら叩いた結果」かもしれず、その結果長距離トラックの運転手は無理な運転をしていたのかも知れない、なんてね。我々はそういう関連を想像することすらできない状態で生きている。だから、その刺身をつまみに「あれあれ、漁師さんも無理して」とか「無茶な運転をするなよな」と気楽に思いながら晩酌ができる訳です。

 なんていうか、我々の基本仕様は私が書いた様な関連性を自動的に想像する様にはできていないわけです。では、そういう関連性は無いのかというと、どこかで関連する社会で生きている訳です。このギャップをどこかで埋めていかないといけない気がするんですよね。

by 技術開発者 (2008-04-30 10:09) 

pooh

> 技術開発者さん

> 我々の基本仕様は私が書いた様な関連性を自動的に想像する様にはできていないわけです。

それはもう、そうだと思うんですよ。上の黒猫亭さんへのレスだと書き方がちょっとまずくて、まるで想像力が届かないのが分かってないからだ、みたいに読めてしまうんですが、そう云うことじゃなくて。ナチュラルに「感じるまま」では、ぜったいに知覚の届かない部分があるんです。
この辺り、少し前からどうも頭に引っかかってる(でもまだ入門書1冊しか読めてない)行動経済学、なんて云うものがけっこう説明してくれるのかも、なんて考えたりもします。

「分からないんだからしょうがないじゃん」と云うパートには、ぼくは絶対に与しません。
by pooh (2008-04-30 22:02) 

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