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定義の水準 [世間]

こちらのエントリに、當山日出夫さんよりトラックバックをいただいた。『疑似科学入門』:疑似科学と科学は明瞭に区別可能か と云うエントリ。

論題となる疑似科学入門で用いられている「疑似科学」と云う用語は、菊池誠の定義による「ニセ科学」と本質的に同意なので、以下はニセ科学批判の文脈と用語で述べる(批判の対象とされていない意味合いでの「疑似科学」と云う言葉が存在するのだけれど、その部分の議論はしない)。

ひとつあるのは、ニセ科学問題と云うのは、「正しい」か「間違っている」かを論点として論じられているものではないと云うこと。そこで論じられているのは、「科学である」か、「科学ではない」か、で。単に間違っているものについてはニセ科学とは呼ばれないし、議論の俎上からは排除される。「間違っている」かどうかを議論するのは、別の議論軸になる。
「正しい文字」とは、この文字は正しい文字ではない……という逆方向からの定義によってしか、定義できない。一種の架空の存在である。そして、そのうえで、「間違っている文字」とは、「正しい文字」があることを、前提にしないと、言えない。(なお、このような、文字についての認識を持っている文字研究者は、限られているのが実際である。)

「科学」と「疑似科学」(疑似科学にもいろいろあるが)については、このような、相互に逆方向にしか、定義できないものであると、思う。
これは捉え方が違うと思う。

「文字」についてのアカデミックな定義はわからない。でもそれは例えば最低限、「言語に結びついて、音または意味を表すもの」だと思う。この要素を満たさないものは文字ではない、と云うにあたって、逆方向からの定義が必要なのだろうか。だとすれば、基本的に文字についてはいっさいなにも語り得ない、と云うことになりはしないか。

「科学」には、定義がある。定義そのものについての議論ももちろんあるけれど、手法・発想法としての科学については、共有されている認識がある(少なくとも、議論が成立する水準では)。一般にそこを満たさないものを「ニセ科学」と呼ぶ。例えば文字の研究においては、上記のぼくの雑駁な定義を満たしているか、と云う水準についてまでいちいち立ち返ってから、「正しい文字である」可能性を都度都度考察していくのだろうか。
「大前提として、「正しい科学」というものがある……ということを、暗黙のうちに設定してしまうことの危うさ、これは、言い換えるならば、科学の方法論への自覚の欠如と言ってよいかもしれない。
ここを暗黙のものとしないために、例えば科学哲学と云うものがあるわけなのだけれど。で、ニセ科学に対する批判を行うにあたっては、都度言及されていなくてもその知見を一定水準前提として踏まえているわけで。そう云う意味で、少なくとも盲信に似た意味合いで暗黙のうちに設定されているわけではない。
例えば文字についての研究では、議論の端緒でまず「言語に結びついて、音または意味を表すもの」であると云う定義を疑うところから毎回始めるのだろうか(繰り返すけどこれはぼくの思いつきの素人定義で、アカデミックな裏付けのあるものではないけれど、まずは常識レベルではあると思う)。
疑似科学を、科学の対象とすることによって、科学とは何であるかが、より分かるようになる……このような論の方向が望ましいと、考える。
ニュアンスとしてはわからないでもないし、そう云う方向はまぁあるのだろうけど。でも、それは文字の研究においてクレーの絵を対象とすることよりももっと迂遠であるような気がする。

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

  • 作者: 伊勢田 哲治
  • 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
  • 発売日: 2002/12
  • メディア: 単行本



コメントがないうちに追記(8:19):
実は當山さんがお書きなのはもう少しメタな水準の議論(この本が書かれるにあたっての著述の方針とか)のような気もするにはするのだけれど、トラックバックいただいたエントリではここで書いたような背景を持って議論されている、と云うのは明確にしておきたい。
タグ:ニセ科学
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TAKA

私はこう考えています。「正しい科学の手法、そして疑似科学の誤り。その両方を知ることが出来た人は、怪しい話に振り回されず、より有意義な人生を送れる。」
賢明な人であればこそ、あまた有る疑似科学を全て冷静に、科学の目で捉える事が可能なのでしょうね。いつの日にか私もその高みに、たどり着きたいものです。

>定義の水準

これで思い出すのはあの、聴く人の望みの音を奏でるという、紙に刻まれたピアニストの指先です。
自動ピアノで名を馳せたコンロン・ナンカロウは、己を再現してくれるピアノロールに、大変満足していました。
ある人が冷やかしました。「気味が悪くは無いか。ドッペルゲンガーみたいで。」
ナンカロウは答えました。「別に。完全に復元してるわけでは無いからね。」
ナンカロウ氏には、そのずれを楽しむ余裕がありました。そのため作風が複雑になり、再現精度が落ちた後も当人は、さほど気にする様子を見せませんでした。

第三者が定義のずれを指摘しても、本人がその志向を変えない限り、お互いの溝は完全には埋まらないのかも知れませんね。
私自身はこれからも、正しいと思われる科学を学ぶだけです。なにしろ疑似科学の方はもう、十分経験しましたからね(^^。
by TAKA (2008-06-07 10:27) 

TAKESAN

今日は。

私は、ちょっとpoohさんと読解が異なりました。

當山さんがお書きの「正しい文字」とは、「文字とは何か」、という事では無くて、形状や音声(記号)についての言及なのではないかな、と読みました。ですから、たとえば、どのような形であれば「あ」の文字だと言えるか、どのような音であれば「あ」と認識されるか、というような事を、「正しい文字」の議論と捉えておられるのかな、と。

当然、そういう意味で、「正しい文字」というのは定義不能だと思いますが(コンテクストによって認知は変化する)、問題は、その論理をニセ科学論のアナロジーとして用いる事だと考えます。

ニセ科学とは、その時点でスタンダードな方法によって検証されていないものについて、検証されていないと言えない事を言うもの、だと考えられますが、結局、スタンダードな検証の方法が共通認識としてあれば、ニセ科学というものは判断出来る事になります。
そうで無ければ、「科学的に認められた」という主張そのものが、不可能になる訳ですしね。
※科学的に認められているという主張が出来るならば、「認められていないもの」も判断出来る事になる。従って、認められていないものを「認められた」と言えば、それは「ニセ科学」だと判断出来る。これを否定するには、強い相対主義の立場を採るしか無い。

ニセ科学批判論に反論する方は、そこら辺の論理について調べていないのかな、というのは思ったりしますね。
今ニセ科学とされているものが将来証明されたとしても、前の時点でのニセ科学という判断が覆される訳では無い、また、現在ニセ科学とされているものでも、研究当時は真っ当な科学研究であったものもある(血液型性格判断等)、という論理は、もっと知られても良いと考えています。

※言葉について、「~で無い」(否定)というかたちでしか考えられない、というのは、ソシュールが言っていませんでしたっけ。恣意性の文脈で。
当然、科学は言語的な恣意的な体系では無いので、アナロジーとしては当てはまらないと思いますけれど。
by TAKESAN (2008-06-07 13:06) 

TAKESAN

あ。

すみません、ちょっと、補足と言うか修正と言うか。

もしかすると、當山さんがお書きの事は、実は私達と同じような主張なのかも。
きくちさんが仰る所のニセ科学というのは、上で書いたように、その時点でのスタンダードな方法に則っているか、という所が判断の基準の一つとなると思いますが、これは結局、「その時点での標準を把握する」事が、ニセ科学を判断する際の必要条件となるのですよね。

これはつまり、科学の内容自体が変化しているというのを示している訳で、當山さんが仰る所の「正しい文字」アナロジーは、実はこの点については妥当、なのかも知れません。

ポイントは、當山さんが、「ニセ科学論が”正しい科学”を設定している」と前提されている所かな。當山さんの文章を読むと、ここでの「正しい科学」とは、不変の基準のような意味合いだと思いますが、ニセ科学論で言う「科学」とは、そのようなものでは無いのですよね。仮に私が「正しい科学」という語を用いるとするならば、「その時点で妥当だとされている知識及び方法」、という意味で使うでしょうね。

という訳で、実は、科学というものについての考えには、それほどずれが無いかも知れません。恐らく、「ニセ科学論に対する理解」が異なっているのかな、と。
by TAKESAN (2008-06-07 13:49) 

pooh

> TAKAさん

コンロン・ナンカロウを知らなかったので、調べてみました。
面白いには面白いですけど、うぅむ、かなり聴き込まないと理解できないかも。

> 作風が複雑になり、再現精度が落ちた後も当人は、さほど気にする様子を見せませんでした。

ちょっと思ったんですが、本来作曲家ってそれくらいの意識でないとやっていけない職業なのかも。
by pooh (2008-06-07 14:21) 

pooh

> TAKESANさん

あぁ、なるほど。そう考えると、ぼくの読み方が違うのかも。元のエントリにある「架空の存在」と云うのを「概念としても実体のない、差異のみで明らかになる相対的なもの」と云う意味に捉えるのではなくて、「差異に着目することで実体を(より容易に)理解できる概念」と云う意味で取れば、おっしゃるとおりの意味になる気がします(すいません。なんだか無闇に複雑な言い方になってしまった)。

でも、どうなんでしょう。ぼくの読解も怪しいですけど、こう考えるといったい當山さんのアナロジィの肝がどこにあるのかちょっと混乱してしまう。やっぱり「教材」として捉えているかどうか、と云うことにあるのかな。
by pooh (2008-06-07 14:22) 

TAKESAN

當山さんは、「正しい科学」を設定して「疑似科学」を判定する、というのを想定して、そこに危惧を懐かれたのですよね。で、その危険性を、池内氏の著作なりから嗅ぎ取った、という事なのだと思います。

言語論のアナロジーを用いて、科学というものが、必要十分条件を考えてきっちり定義出来るようなものでは無い、というのを示したのが、主題であると読みました。
しかるに、最近のニセ科学論、あるいは、伊勢田さんによる境界設定問題における議論の肝は、「明確な線引きは出来ない(つまり、グレーゾーンがある。が、明らかに黒や白であるものは判断出来る)」、というものなんですよね。その意味で、當山さんが書かれたような事は、「前提」として踏まえていなくてはならない。

ですからポイントは、當山さんが懐かれた危惧が「どこへ向けられているか」、という所なのだと思います。池内氏の論なのか、池内氏の論は妥当だが、それを読んだ人が勘違いする可能性についての危惧なのか、それとも、疑似科学やニセ科学という語で特定の説を批判する主張一般についての評価なのか。

疑似科学批判者の主張は妥当だが、それに触れる人が勘違いするかも知れない、という意見なのか、疑似科学批判者の主張そのものが問題だ、という意見なのか、それがちょっと判然としないのだと思います。
by TAKESAN (2008-06-07 16:05) 

pooh

> TAKESANさん

あぁ、ありがとうございます。ちょっとすっきりしました。

> 疑似科学批判者の主張は妥当だが、それに触れる人が勘違いするかも知れない、という意見なのか、疑似科学批判者の主張そのものが問題だ、という意見なのか、それがちょっと判然としないのだと思います。

素で読むと後者(この場合の「疑似科学批判者」は池内さんですが)に読めるのですよね。で、池内さんは伊勢田さんの論点のような部分を深彫りはたしかにしていなくて。ただ、當山さんが池内さんの「疑似科学入門」を教材としてお考えらしいと云うことを踏まえると、前者の読み方が非常に妥当だと思えます。となるとぼくのこのエントリはちょっとピンぼけですよね。

これ以上はご本人のリアクションでもない限りわからないのかも。
by pooh (2008-06-07 17:44) 

alice

ちょっと気になってしまいました。
伊勢田さんによる境界設定では、線引きはできないが、マトリクス判定によって、一見グレーと見えるものでも白か黒か判定できると言ってるのではないでしょうか?

ここで取り上げられている方のブログの話とは関係ないですが。
by alice (2008-06-07 21:52) 

FREE

こんばんは

今ひとつつかめないでいます。 

言及先を私なりに解釈してみると、暗黙的に前提となっているものを検討するには逸脱する側から定義する方法を現在私たちがとっているのは確かだと思います。その点では正しいと思います。

例を挙げると文化においては保守は革新が生まれた後に誕生します。革新が生まれる以前は保守とされるものは「当たり前の姿」でしかなくなにが伝統的で保守なのか把握されていません。変えようとする行為から変えられるものが定義されてきます。

精神医学・心理学が病的なものを定義しそこから正常な範囲を定義しています。そして正常とした範囲から逸脱したものを治療すべきものとして取り扱うという入れ子構造です。
 
ただ科学と疑似科学においてこの関係が当てはまるのかと考えると、いまいち釈然としません。
暗黙的な前提を検討し、科学を捉えるといういわばパラダイム論的なものととして考えた場合にはそうなのかなと思いますが、それは科学と疑似科学ではなく、科学といまだ見ぬ科学ではないかと思うのです。

疑似科学は擬似というより擬態ではないのか、と最近考えています。
擬似科学=間違った科学・逸脱した科学
と捉えるには私には大きな抵抗があります。


by FREE (2008-06-07 22:26) 

TAKESAN

>aliceさん

えっと、私へのレスですよね?(違ったらごめんなさい)

伊勢田さんの文章に(PDFファイル)⇒http://www.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/demarcation3.pdf

▼▼▼引用▼▼▼
しかし、ルースの5項目は必要十分条件を与える目的で提示されたものとは思えない。むしろ、ある分野がどれくらい科学的かをはかる上で役立つ指標を提示していると考えた方がよいだろう。このような考え方によれば科学と非科学の間に大きなグレイゾーンを残すことになるであろうが、明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性を排除することにはならない。つまり、線を引かずに線引き問題に対する解答をあたえる方向で考えるべきではないか。
▲▲引用終了▲▲
こういう記述があります。ここら辺の所を踏まえて書きました。

色のアナロジーを用いる場合は、「一見グレーと見えるものでも白か黒か判定できる」、というより、「線引きは無理だが、一見して白や黒と判定出来るものはある」、と言った方が良いような気もします。

>FREEさん

私は、文字のアナロジーは、あまり適当では無い、と思いました。上にも書いたように、○○とは何か、という部分で、それが条件を与えてきちんと定義出来る訳では無いのは共通している、とは思いましたけれど。

ちょうど、明日アップするエントリーで、ニセ科学についてのメモを書いたのですが、ニセ科学については、主張と実態との「ずれ」によって評価するものなのではないかな、と考えています。
by TAKESAN (2008-06-07 23:01) 

dlit

當山さんの記事が(僕にとっては)端的過ぎてまだよく理解できていないのですが。

線引き問題(グレーゾーン)を置いておくにしても、この文字の話と科学&疑似科学のアナロジーは適切ではない、あるいは結構ミスリーディングなのではないかな、と思います。
文字について「正しいor正しくない」という定義の仕方を語るなら、それと対峙させられるのは、「科学であるor科学でない」という分類の仕方ではないかと。それは「科学であるor疑似科学である」という分類とは違いますよね。

文字論については「文字」そのものの定義について述べているのか、TAKESANさんの読みのように、具体的な個別の記号の判別について述べているのかで話が違ってくるような気がするのですが、情報がこれだけだとちょっと判断し難いですね…
by dlit (2008-06-07 23:42) 

田部勝也

當山日出夫さんの問題意識がどこにあるのかは、私には(私にも?)分かりませんけど、その當山日出夫さんは同じブログのこちらのエントリ(↓)で、
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/05/30/3550329
-------------------------
ただ、刊行時期の関係によるのであろうが、

池内了.『疑似科学入門』.岩波書店(岩波新書)

が【引用者追記:科学ジャーナリスト大賞を受賞した本に】入っていなかったのは、残念な気がする。(2008年4月の刊行)。
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と書いていらっしゃるんですよね。もしも、當山日出夫さんが池内了先生の『疑似科学入門』を「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だと認識していらっしゃるのだとしたら、その認識の上になりたつ主張に対しては、その主張を吟味したりその主張について議論したりする前に、ちょっといろいろ踏まえておく事がありそうな気はします。

少なくとも、『疑似科学入門』を「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だと認識しているうちは、この本を授業で使うのはやめておいたほうが良いと、強く愚考します。
by 田部勝也 (2008-06-08 00:06) 

pooh

ニセ科学(疑似科学)について検討を行うことが科学そのもののアウトラインをあきらかにする、と云う点にはとりたてて異論はないわけです。でもそれは一手法(それも搦め手気味の)であって、必須でもないし、充分でもないなぁ、とか思ったり。その辺り、dlitさんのおっしゃるように言及先のエントリ単体ではきっちり読み取れない(じつはぼくとTAKESANさんの読解のずれは日頃のアプローチの相違そのままなので、逆にとてもわかりやすくて興味深かったりもするんですが)。
で、それを踏まえたうえで、ぼくの違和感はたぶんFREEさんと同じところにあると思います。これは単なる不適切なアナロジーに発端するものではないような。

「疑似科学入門」については、ぼくは「問いかけ」としての意義は認めていますが、それ以上の評価は難しいなぁ、と思っています。そう云う意味で科学ジャーナリスト大賞にふさわしいとは評価しませんが、授業のテキストとしてはまぁ使い方なんでしょう(多分「科学」についての授業にお使いになるわけではないんでしょうし)。
by pooh (2008-06-08 07:57) 

田部勝也

>poohさん「「疑似科学入門」については、ぼくは「問いかけ」としての意義は認めていますが、それ以上の評価は難しいなぁ、と思っています。そう云う意味で科学ジャーナリスト大賞にふさわしいとは評価しませんが、授業のテキストとしてはまぁ使い方なんでしょう(多分「科学」についての授業にお使いになるわけではないんでしょうし)」

その点については全く同感で、先のコメントでの私の問題意識は、「『疑似科学入門』を「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だと認識している人が、授業のテキストとして『疑似科学入門』を使っても大丈夫なのか」という一点だけです。
使い方なのは確かなのでしょうけど、どんな使い方をするつもりなんだろう──というか。言葉遣いを教えるつもりで、(それで子供たちの言葉遣いは良くなったかも知れないけど、一方でその副作用として)反社会的な道徳観を教えてしまったという例もありますからね。

で、當山日出夫さんは、件のブログ・エントリの次のエントリ(↓)で、
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/08/3568333
-------------------------
なお、先に、結論めいたものを書けば、『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)を、評価するのは、「疑似科学」という概念を、岩波新書という、きわめてポピュラーなメディアで、提示したことにある。内容がどうでもいいというわけではないのは、もちろんである。だが、その本が持つ社会的インパクト、というものも、ある意味で大事であると思う。

ある用語が広く使用されるようになること、その概念が、社会に広まることには、場合によっては、功罪がある。「デジタル・アーカイブ」など、私の直面する、問題である。

「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか、これが、『疑似科学入門』の瑕瑾をあげつらうよりも、今後の本当の課題であると、思う。
-------------------------
と書かれていらっしゃるんですね。

確かに、『疑似科学入門』が社会に与えたインパクトは決して小さくはなかったと思います。だからこそ、「『疑似科学入門』を「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だと認識している人」によって、“「科学」を考える方向”の向かう先が、(私が勝手に考える)望ましくない場所に行ってしまう事を助長しないか心配していたのですけど、この文章を読む限り、當山日出夫さんは問題点を良く把握していらっしゃって、私よりも広い視野から考えていらっしゃったようですね。

私は、(1)『疑似科学入門』の瑕疵がしっかり把握できていなければ、『疑似科学入門』によって「科学」を考える方向が望ましくない方向に向かう危惧があると感じたり、そう感じたときに、それに警鐘を鳴らしたり、望ましいと考える方向を提示したりする事はできないのではないか、(2)「『疑似科学入門』が「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だと認識している人」が『疑似科学入門』の瑕疵をしっかり把握していると言えるのか──の2点を論拠に先のコメントをしていたのですけど、そもそも、當山日出夫さんの「『疑似科学入門』は「科学ジャーナリスト大賞を受賞してもおかしくない本」だという認識が、その内容に拠るのではなく、その社会的インパクトに拠るという事ですから、(2)が成り立たず、私の危惧は勘違いの杞憂という事なのでしょう。
もしそうなのだとしたら、大変な失礼をお詫び申し上げます(私がここに書いた事についてなので、ここで謝るのがスジでしょうから、ここで謝ります)。
by 田部勝也 (2008-06-09 01:00) 

pooh

> 田部勝也さん

ただ、用語と云う点に絞って考えると、「疑似科学」と云う用語がなぜ批判時に使われないか、なぜ「ニセ科学」と云う用語が選ばれたのか、と云う経緯もあって。そのあたりもちょっとあるにはあるんですよ。TAKESANさんのこんなエントリもありますし。

http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_a6a2.html
by pooh (2008-06-09 06:29) 

田部勝也

>poohさん

そのへんの認識というか問題意識というか危惧というかは、たぶん私も(程度の差こそあれ)共有していると思っています。上で書いた「『疑似科学入門』によって「科学」を考える方向が望ましくない方向に向かう危惧」を生じさせうる「『疑似科学入門』の瑕疵」のなかに、その点も含まれているつもりではいます。

“「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか、これが、『疑似科学入門』の瑕瑾をあげつらうよりも、今後の本当の課題であると、思う”──と言うからには、poohさんやTAKESANさんが指摘するような(FAQとも言える)危惧もちゃんとすでに認識されている、ないし、授業内で認識されるようになりうる(または見逃されない)だけの素地なり自信があるという事なんだろうな──と揶揄している・皮肉っていると、私のコメントが受け取られる可能性も十分考えに入れた上での、あのコメントだったりします。

正直に言えば、『疑似科学入門』を授業に使う事で、「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」について、どのような議論が行われたり、どのような結論が導かれたりする事を学生に期待しているのか、学生がどのような誤解や推論の過ちなどを犯しうると考えていて、それに対してどのようなフォローアップをされるつもりなのか、當山日出夫さんはまだほとんど書かれていないので、不安を感じているわけですね。
個人がどう考えるかはある意味勝手だと思うのですけど、一応、元教員のはしくれとして、生徒・学生に何をどう考えさせ教えるかという話になると、どうしても過剰に敏感にならざるをえないんですよ。
by 田部勝也 (2008-06-10 02:37) 

pooh

> 田部勝也さん

この辺の用語の問題については、(世間全般に較べれば)「狭い」なかで論じられて来た部分ではあるんです。でも、だからといって「疑似科学」をまるきりブランニューな言葉として取り扱われるのも、問題がない気はしない。

どうしようかなぁ。一回この辺まとめて再トラックバックすべきなのかな。當山日出夫さんがここのコメント欄をお読みだといいんだけど。
by pooh (2008-06-10 06:27) 

田部勝也

>poohさん「この辺の用語の問題については、(世間全般に較べれば)「狭い」なかで論じられて来た部分ではあるんです」

それは存じ上げています。(きくちさんたちによる定義としての)「ニセ科学」という言葉自体が、まだまだ「狭い」範囲でしか通用しないものだとさえ、私は認識しています。
『疑似科学入門』を用いて「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」を考える・考えさせる授業をするにあたって、その(洗練された)議論を知っていて然るべきだとは言いませんし、言ったつもりもありません。

ただ、『疑似科学入門』はわりと明示的に「疑似科学」という言葉を定義づけています。當山日出夫さん自身、「なお、先に、結論めいたものを書けば、『疑似科学入門』(池内了、岩波新書)を、評価するのは、「疑似科学」という概念を、岩波新書という、きわめてポピュラーなメディアで、提示したことにある」と述べています。
それならばなおさら、『疑似科学入門』を用いて「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」を考える・考えさせる授業をする人間が、「疑似科学」という用語の問題について無頓着でいる事は許されないでしょう。ありえないと言っても良い。
だからこそ、2008-06-09 01:00のようなコメントをしたわけです。

きくちさんたちの多くの批判や実践に鍛え上げられた長い議論を知らなければ、きくちさんたちほど洗練されたものである事は期待できないでしょう。それでも、『疑似科学入門』を用いて「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」を考える・考えさせる授業をしようとする人間ならば、(きくちさんたちとは独立に)その点に関して問題認識が生じていて然るべきだし、もしその点に問題意識が生じないのだとしたら、そもそも、『疑似科学入門』を用いて「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」を考える・考えさせる授業など、まともにできるはずもないと思います。

私個人の印象では、『疑似科学入門』をテキストに使って、「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」をまともに考えるならば、(きくちさんたちの議論をまったく知らないとしても)どうしたって、きくちさんたちがされてきた議論をなぞる形にならざるを得ないと思います。それほど、『疑似科学入門』の「疑似科学」という言葉の使い方は、分かりやすい反面教師になっているように、私には思えます。

たとえば、「第1種疑似科学」からは、「そもそも科学を装っていないものを“疑似科学”と呼ぶのは適当か」「“科学でないものはすべて疑似科学”としているという(悪)印象を与えないか」といった議論は当然出てこなければおかしいでしょう。「第3種疑似科学」からは、「グレーゾーン問題」や「未科学と疑似科学」といった問題意識が出ないはずがありませんよね。

──楽観的すぎるかなぁ。
by 田部勝也 (2008-06-11 02:36) 

pooh

> 田部勝也さん

ちょっとお返事にかこつけて、手短に。このあたり、ひょっとしたらやっぱりアンサーのエントリを書くべきだったのかもしれないんですけど。

まず、「疑似科学」と云う用語が新しいものでないこと(それはある程度意味合いの共用された用語として使われてきました)。そして、それを議論するにあたって、菊池誠は「ニセ科学」と云う用語を選択し、議論の中で使用する用語として提議からはじめる必要があったこと、がありました。
なぜそうする必要があったのか、を考えると、當山日出夫さんのアプローチに不安がないわけではないんです。おっしゃるように、ぼくが懸念しすぎている部分があるようにも思いますけれどね。
by pooh (2008-06-11 07:43) 

田部勝也

私の表現力の拙さで、同じ事を言い方を変えて何度も書き込むようで申し訳ないのですけど……。

>poohさん「なぜそうする必要があったのか、を考えると、當山日出夫さんのアプローチに不安がないわけではないんです」

決して菊池誠さんたちの独創や議論を軽視するつもりはありませんけど、「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」をまともに考えようと思ったら、当然、「疑似科学」という言葉がこれまで実際にどんな人たちによって、どんなニュアンスで使われてきたのかに無頓着ではいられないでしょうし、「では、どうする必要があるのか」に話は進んでいかないわけがない──と思うわけです。

もちろん、それが菊池誠さんたちと同じ方法論になる可能性は低いでしょうけど、同じ程度に(または「ニセ科学」論を受けつけない人たちにはそれ以上に)有用なものであれば、使える望ましい選択肢が増えるという点で良い事なのかも知れません。そこまでのレベルは望めないとしても(おそらく間違いなく望めないでしょうけど)、お互いが批判的に議論しあって、互いの方法論をより洗練されたものにしていくという事も夢ではないかも知れません(まぁ、現実的には主にpoohさんたちのほうが一方的に有益な情報や視点を与えていく事になるとは思いますが)。

當山日出夫さんのアプローチに(というか、當山日出夫さんの資質そのものに)不安が大きいのは私も同じです。正直に言えば、2008-06-10 02:37のコメントで、
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正直に言えば、『疑似科学入門』を授業に使う事で、「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか」について、どのような議論が行われたり、どのような結論が導かれたりする事を学生に期待しているのか、学生がどのような誤解や推論の過ちなどを犯しうると考えていて、それに対してどのようなフォローアップをされるつもりなのか、當山日出夫さんはまだほとんど書かれていないので、不安を感じているわけですね。
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と書いた事が一番の本音なのですけど、あまり否定的な事ばかり書いて、新たな試みの芽を潰してしまったり、変に意固地にさせて聞く耳持たない状態にさせてしまう事は絶対に避けたいので……。人文情報学(デジタル・ヒューマニティーズ)や大学生のための作文教育をしているような人が、「疑似科学」の問題に興味を持ってくれるなんて、(技術開発者さんが言う「アーリーアダプターへの普及」という意味で)とても貴重な機会だと思いますしね。
正直に言えば、「イノベーター」としてはほとんど期待していなかったりします。せっかく興味を持ってくれているのですから、poohさんたちは、有益な情報や視点を提供し、うまく誘導してあげれば良い立場なのではないでしょうか。「この点についてはご存知ですか?」「私はこの点にも問題意識を持っていますが、どう考えますか?」とか。

それにもし、poohさんの不安が当たっていたとしても、私のような書き方をされると、「この点について十分考えていないと、この問題については論じる事もできないのか。この程度の事も考えずに授業の題材に使う事はそんなに危険すぎるのか。わざわざそんな危険を冒してやらないくてもいいか」という印象を素直に与えやすいのではないかな……とも思っていたりします。
by 田部勝也 (2008-06-11 20:48) 

pooh

> 田部勝也さん

いや、おっしゃってましたが、実際はぼくと田部勝也さんの見方はそんなに変わらないんだと思うんです。重点の置き方の度合いは違うかもしれませんが、肝要だと認識しているポイントはあまり変わりはない。

當山日出夫さんが「疑似科学入門」を取り上げられるのは、まずは喜ばしいことです。そこを踏まえたうえで、「疑似科学と云う用語がけして新しいものではないこと」「『疑似科学入門』で用いられている『疑似科学」の定義が、きくちさんやapjさんの議論を踏まえたうえでの『池内定義』であること」について、當山日出夫さんがどのように理解されているのかがわからないので不安がある、と云うあたりですよね。
このへんって、當山日出夫さんがこの本をとりあげる動機の部分にも、それなりに密接に関わってくる部分ではあると思うんですよね。
by pooh (2008-06-12 07:45) 

亀@渋研X

こんちは。
関連エントリを起こしたんですが、ここでの本題とは全然噛み合ないような気がしないでもないので、トラックバックしませんでした。が、関係あるのかもしれない。自分でも何を書いたのか、よくわかってないような(-_-)

というわけで、一応ここにリンクなど置いていきますが、スカポンタンのような気もします。そんときは、「スカ」とか言ってやってください。

「正しい文字」と「文字もどき」
http://shibuken.seesaa.net/article/100247492.html

by 亀@渋研X (2008-06-12 13:47) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

拝読しました。
うぅむ、これ、當山日出夫さんの比喩の意図が正確に掴めていないので、難しい部分があるんですが。

楷書と較べて、篆書や隷書は書き順とか画数のレベルで違いますよね。でも、間違った文字では多分なくて。「現在使われている楷書」と比較して正しいのどうのとか議論することがそもそも変ですよね。でも、楷書を習っている小学生が篆書の書き順や画数で漢字テストの回答を書いたら、多分×を貰う。じゃあここで云う「正しい」ってなんだろう。
でもってここでニュートン物理学と相対性理論の話につなげる、と。いや、なんの意味もない、意味ありげなだけのただの比喩の暴走ですけど。こんなコメントですみません。
by pooh (2008-06-12 20:15) 

亀@渋研X

コメントどおもです。
當山日出夫さんの意図がよくわからないままであれこれ言っていても始まらないのですが、文字(の正誤)と科学(と疑似科学)というあたりでは、なんとなく「その対比は、整合しないんじゃないのだろうか?」という雰囲気は……漂ってますよねえ。
by 亀@渋研X (2008-06-13 00:10) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

これ、もうひとつ奥に踏み込んで考えると、當山日出夫さんの最終的な意図は「文字(を含む『言葉』)の正誤の比喩として『疑似科学』を捉える」と云う方向に向かうものであるように思えたりするんですね。
だとすれば「ちょっと待て、それは筋がよくないぞ」とお伝えしたい。
by pooh (2008-06-13 07:54) 

田部勝也

>poohさん「これ、もうひとつ奥に踏み込んで考えると、當山日出夫さんの最終的な意図は「文字(を含む『言葉』)の正誤の比喩として『疑似科学』を捉える」と云う方向に向かうものであるように思えたりするんですね」

うわっ。poohさんがおっしゃっていた「不安」のなかに、そこまでの読みもあったのか……。確かに、そう思って読み返すと、そういう「不安」を感じる事は不自然では全然ないし、その後のエントリ(↓)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/13/3575981
とか読むと、「その不安は当たってるかも……」とか思えてきちゃうなぁ。今思うと、自分にそこを嗅ぎ取る力がなかった事が正直恥ずかしい……。無邪気に過ぎたかも。

自分は能力的に絶望的に「書いてある事しか読めない」人間なので、「『疑似科学入門』を読んで、科学と疑似科学の違いが分かるか、これによって、科学とは何であるか理解できるか、そのように書けているかどうか、を、レポートせよ、というような方向があるかもしれない」「「疑似科学」という言葉から、どのように「科学」を考える方向にむかっていくのか、これが、『疑似科学入門』の瑕瑾をあげつらうよりも、今後の本当の課題であると、思う」という言葉を((自分に都合の良いように)鵜呑みにしてました……う~ん。
by 田部勝也 (2008-06-13 23:59) 

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