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フィクションの力 (「ジェネラル・ルージュの凱旋」海堂尊) [ひと/本]

先週報道された鳥取大学医学部付属病院救急科の専門医全員退職のニュースに触れて、この小説を連想したひとはそれなりの人数いるんだろうな、とか思う。

ジェネラル・ルージュの凱旋(上) [宝島社文庫] (宝島社文庫)

ジェネラル・ルージュの凱旋(上) [宝島社文庫] (宝島社文庫)

  • 作者: 海堂尊
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2009/01/08
  • メディア: 文庫
ジェネラル・ルージュの凱旋(下) [宝島社文庫] (宝島社文庫)

推理小説を読まないぼくが、少し前に姉妹編であるナイチンゲールの沈黙と合わせてあっという間に読んでしまった小説。ちなみにシリーズ第一作のレビューはこちら

推理小説が苦手だ、と公言している(苦手な理由はそのうちちゃんと書くかも)ぼくがそこそこ熱狂的に読みふけってしまうのは、陳腐だけどやっぱりエンタテインメントとしての質の高さゆえ、と云うことになるんだろうな。

なによりもまず、おどろくほど読みやすい。読みやすい、と云うのは諸手を上げての賞賛にはなりづらい言い回しだけど、なんと云うか読者の頭に内容を浸透させるべく文章を構築する力量の高さ、と云うことで。

テーマは重いし固い。でもそれがエンタテインメント小説を読む楽しさにドライブされて、読み手の頭に染み込んでいく。
たぶん仕掛けとして秀逸なのは登場人物の造形。とても類型的なんだけどこれは紋切型と云うわけではなくて、必要なだけの属性をまとめて受け入れやすく鋳造したような、ある意味計算され尽くしたキャラクターづくりが、とっつきやすさを生んでいる。こう、誤解されがちだけど、人物造形の深みみたいなものはおおむねその後に来るものだったりするわけで。
例えば、速水晃一がこのようなキャラクターとして描かれていなかったら、この物語はどのような陰惨なものになっているだろう。海堂尊は最初にそのキャラクターを呑み込ませ、読者からそのキャラクターへの一定の信頼のようなものを取り付けてから物語を進める。読中感に作用する、その効果。

以前のレビューで、ぼくは海堂尊をアンドリュー・ヴァクスと較べた。ただ、ヴァクスと違って、海堂尊に小説を書かせるほんとうの動機の部分は、ぼくにはわからない。
そしてそれはもちろん、わからなくてもいいもので。それが、フィクションと云うものだから。ぼくらが享受するのは出来のいいフィクションで、そしてそこからなにを受け取ろうとぼくらの自由。そして、それを特定の意図のもとにコントロールするのが、書き手の力。

フィクションの特権、その力と云うのは、受け手にとってのこの自由さでもある。そしてそれは、原則としてフィクションにしか許されないものだ。もし海堂尊の意図がいくばくかでも啓蒙のようなものにあるとしたら、ある意味書き手としては最初から(読者に自由さをあけわたした分だけの)不自由さを覚悟したうえで、それでもあえてした選択だ、と云うことになる。
たぶんその選択は力量にうらづけられて初めてなし得るもので、でもってぼくとしてはその力量にも選択にも賞賛を惜しまないものであるのだけれど。
タグ:書評 海堂尊
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