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動線の切断と、物語のエンジン [近所・仙台]

連坊小路なんかの並木が白やピンクの花をつけていて、あれがハナミズキだ、ってつれあいに教えてもらって。そうやって意識して見ると仙台の街中にけっこう植わっていて、何年住んでるのかすぐにはわからないけれど見えていないものってあるもんだ、みたいに思いながらいまひとつはっきりしない空の下を歩いて先行上映の重力ピエロを観に映画館に向かう。

ぼく個人に限って云えば、この映画を街を主役として観る、と云う強いバイアスがまずあって。
もちろんそれは歪んだかたちだし、そもそも原作からしてもそう云う趣向の物語ではない。映画を観る前から、ぼくとこの映画の間にはそう云う、へんなインタープレイの前提、と云うようなものがあった、と云うだけの話で。
で、劇場には仙台の中心部で唯一なんとか生き残っている映画館を選んだ(仙台周辺の映画館・シネコンすべてで先行上映、と云う、透けて見える作為の捉え方によってはひどくとんまな催しが実現されているのだ)。懐かしささえ感じるようなクラシックな映画館を選ぶ、と云う行為で、映画を観ると云うことに自分でイベント性を付加する。

大枠としての仙台の街は、400年前に城下として需要を満たすためにつくられた町割りに、太平洋戦争後に考えた都市計画をざっくりと上書きするかたちでできあがっている。ある程度地形や(江戸時代の)軍事的ニーズにしたがってつくられた構図の上から、自動車が動くことを想定した3本の道路を中心に太い線で動線がかぶせられている。その二重の絵柄の、街のはしばしにおけるちょっとした破綻が緩急をつくり、軽いよどみやショートカットをつくり、ひとの動きにおけるわずかな緊張感を生み出す。で、ひとのいとなみはそのなかでディテイルを構成し、まちの表情をつくっていく。

映画はそのあたりの、なんと云うかひとの動きにまつわるフロー的な連続性を切り落として、再構築された街を撮っていた。
その意味で(撮影における実務的な部分はわからないけれど)仙台以外の街を舞台に撮ることが完全に可能な映画であって、例えばここには大林宣彦が舞台に尾道を選ぶ、と云うような必然性はない。とは云え原作そのものが(仙台と云う舞台をつよく全面に押し出しているにも関わらず)街の性格、と云うものにほとんど依存していない内容となっているのと同様、それはこの映画にとって瑕疵でもなんでもなくて。

原作は、登場人物とその関係を中心に物語がドライヴされていく。そして(登場人物のキャラクターづけにわりあいと大胆に手を加えているにも関わらず)その構造そのものを映画もつよく踏襲している。エンジンは、そちらに搭載されているのだ。それが成功しているかどうか、と云うことを語れるほどぼくは映画についてなにかを語るためのボキャブラリーを持っていない。そう云う方法を選択したのだな、と云うだけで。
ただ「ロケ地マップ」なるものを映画館に置くような、この映画の地方自治体スケールでのある意味ポリティカルな位置づけを考えた場合に、なんとなくそこには空回りがあるのかなぁ、みたいにはちょっと感じたりした。

映画館を出ると、昼過ぎにあきれるほどの長さになっていた有名な牛タン屋の前の行列が、午後3時を過ぎてまだ続いていた。映画のなかの風景よりも、それはなんだかよっぽど不自然に、つくりものめいてみえた。
タグ:映画 仙台 近所
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