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まぎらわしい [世間]

「うちへ帰ろう!」と云うブログ(お使いのハンドルネームが見当たらない)の、水の結晶と波動と云うエントリを読んだ。

一方、スピリチュアルな世界でいわれる波動の存在や力を全く認めないとすると、それは逆に現代物質科学万能思想に凝り固まった人間のあさはかさに陥っているようにも思えます。
全く認めないとか云う話じゃなくて、スピリチュアルな世界でいわれる波動が、自然科学で用いられる用語としての「波動」と別のものだ、と云っているだけなのだと思うのだけれど。
波動、と云うのは一般的な用語なので、スピリチュアルな世界でいわれる波動が物理学の用語としての波動とは別のものだ、と云うことをはっきり示していれば、それが科学の観点から認められるかどうか、と云う議論にはならない(だれもしない)。
ただそのかわり、スピリチュアルな世界でいわれる波動を科学的な実験によって裏付けたり、量子力学を援用したりするような言説になんの意味もないことがはっきりするわけだけど。別のものだから、当然ですね。困ることはないはず。自然科学的な根拠とは関係のないところで、その意義と概念としての有用性を示していけばいい。
どちらかと云うと、スピリチュアルな世界でいわれる波動を指し示すのに、波動、と云う言葉を使うのをやめれば、話はもっとわかりやすくなると思うんだけどな。まぎらわしいから、科学者に論理的にはっきりと否定されたりするようなことも起きるわけで(このふたつを混同されると、科学者側は迷惑をこうむるわけだから)。
現代科学の未知なる領域であるがゆえに、玉石混交、魑魅魍魎が跋扈する世界でもあるとは思いますが、そろそろ時代の進化とともに次のステージにすすむべき時が近づいていると思いたいですね。
次のステージにすすむべきなのがなんなのか主語がないので判然としないけれど、スピリチュアルな世界次のステージにすすむと云うのなら、科学とは関係なく進んでいけばいいことだ、と思う。
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黒猫亭

一連のスピリチュアル関連のエントリを拝読して思ったんですが、昔は科学とスピリチュアルは分離していなかったと謂うか、乱暴な括り方ですが、人間は概ね世界をスピリチュアルな原理で考えていて、そのスピリチュアルな世界を客観的且つ明証的に検証・記述する方法論として科学の手法が発達してきたと謂うふうに言えるかと思います。

その方法論に則って検証していくと、どうもこの世界はスピリチュアルな原理で動いているようではないようだ、と謂うことになって、そこから科学とスピリチュアルは分離してしまったと謂うことになるんでしょう。

変な喩えですが、この両者は別れた夫婦みたいなもので、一方が別の相手と再婚しているような関係と言えますね(笑)。昔の科学はスピリチュアルな世界原理と結婚して奉仕していたけれど、科学自体が発達してその規範で世界を計り直してみると、スピリチュアルな世界原理はどうやら有効ではないようだと謂うことで、離婚して物質的な世界原理と再婚した、下世話に表現すればそんな関係かと。

スピリチュアルな世界原理に奉仕する立場であった科学が、己自身発達することでもっと相応しい別の相手を見附けたわけですが、別れたほうは未練たらたらで、未だに自分に奉仕する伴侶のような扱いをする、折りに触れては復縁を迫る、そう謂う構図に見えますね(笑)。

スピリチュアルの側が、「科学だけがすべてではない」みたいなことを言いながら、スピリチュアルな概念を科学的なイメージで粉飾することに熱心で、「いずれ科学によって実証されるだろう」と根拠のない希望的観測を断言するのって、何だかそう謂うふうに視ると気持ち悪いですね(笑)。

この喩えはちょっと擬人化がすぎるかもしれませんが、スピリチュアルのサイドで自然科学と紛らわしいタームを遣ったりするのは、昔一つだった時代の名残みたいなものかもしれませんね。実際にはスピリチュアルな世界原理も世界を読み解く規範の一つであった以上、自然科学的な厳密な手法で検証され実証されることを目指していたわけで、検証の手続が厳密性を確立したことによって斥けられた原理と謂う側面もあるわけです。

ですから、スピリチュアルのサイドで「科学」と謂う場合、物質世界の原理と謂う意味とそれを検証する手続と謂う意味の多重性があるわけで、前者を否定し後者によって実証されることを望んでいる、そう謂うふうな語義的な混乱があるんだろうと思います。
by 黒猫亭 (2009-08-04 22:47) 

pooh

> 黒猫亭さん

やや精度の低い議論になってしまうのですが、科学、と云うのは(それを受け止めるわれわれの側からすると)もっとも成功した魔法なんだと思うんですよ。
まず、人間のなかにある呪術的な部分から生じる世界観(と云うのも雑な言い方ですが)がある。漠然としたものから厳密な体系を持つものまで複数あります。歴史的にも生まれたり育ったり放棄されたり。で、その世界観に基づいて世界を把握したり、あるいは世界にアプローチしたりする方法を探る。これをまず魔法と呼びましょう。

で、ぼくらの把握のかたちとして、実在論と云う世界観がある。科学は、実在論に基づいた魔法である、と云う把握が可能です。あくまで、ぼくらのこころのなかでの把握として。で、実際のところこれはとてもよく効く魔法だった。世界を把握するうえでも、世界にアプローチするうえでも。

スピリチュアリティ、と云うかたぶんここではオカルトと云う用語を使うほうが正確だろうな、と思うんですが、それらはそれぞれ体系を持つ。もちろんいい加減で粗雑なものから厳密なものまでいろいろあって、例えばそのなかには科学とは違った意味で意義のあるものもあるんだろうな、と思うんですよ(個人的には分析心理学なんかはそう云ったもののひとつだと思いたい)。ただ、それは実在論とは別の世界観に基づくものなので、それにかしずく魔法も、科学とはことなったものになるはずなんです。オカルトにしても、ちゃんとまじめに追求していれば、そうならないとおかしい。

その意味でニセ科学や俗流スピリチュアル、みたいなものは、オカルトとしても質が低い。

> 前者を否定し後者によって実証されることを望んでいる、そう謂うふうな語義的な混乱

語義的な混乱でもあり、体系の粗雑さからくる方法論の混乱でもあるのではないか、と思ったりします。
by pooh (2009-08-05 07:47) 

mohariza

思うに、科学もスピリチュアルも、究極は、「言葉」で形付かれるもののように思います。
「水伝」は、<(証拠<?>)写真>付きですが、「言葉」によって、人間は、如何ようにも、聞いた人間の頭の中に、イメージを築き上げられるのだと思います。

「波動」と云う言葉は、その科学的な定義(?)を抜きに、ニセ科学や俗流スピリチュアル世界(?)で、<一人歩き>出来る「言葉」と思います。

渋谷研究所X+菊地誠共著の、「おかしな科学」を読み終えましたが、
ここで書かれている内容(poohさん仲間では常識のこと)を、
より多くの人が知り(認知し)、

本当の意味での、<科学と不可思議(未知)の狭間>の世界を見て行くことを望みます・・・。
by mohariza (2009-08-07 00:37) 

pooh

> moharizaさん

> 「言葉」で形付かれるもののように思います。

言葉は非常に大きな役割を果たします。ただ、続けてお書きのように、ひとになにかを伝える手段として用いられるのは、言葉だけではありませんよね。データ、画像、映像、その他もろもろ。

少し前に、江本勝氏の言説がどうして受け入れられるのか、と云う議論をここでしました。その際にはちょっと文脈違いになるかと思って持ち出さなかったんですが、彼の言説が受け入れられるのは、それが「写真」と云うものに支えられているからだ、と云う部分もあるとぼくは思っています。

画像・映像と云うものは、事実をそのまま映し出したものだと捉えられる。でも、実際には「それがなにを映し出しているのか」と云う文脈を操作することによって、容易に詐術に用いることができるわけじゃないですか。江本氏の極端に貧相な芸術観や美意識、道徳観を呑み込んでしまうひとが生じるのは、それが「美しい水の結晶の写真」と云うものに裏付けられた「事実」であると誤認させられている、と云うのも大きな要因だと思うんですよ。

> 本当の意味での、<科学と不可思議(未知)の狭間>

安いニセ科学よりも、その部分にあるフロンティアのほうが、よほど面白くて興奮できるものだと思うんですけどね。
by pooh (2009-08-07 07:39) 

YJS

こんにちは、poohさん、黒猫亭さん、みなさん。

黒猫亭さん:
> この両者は別れた夫婦みたいなもので、一方が別の相手
> と再婚しているような関係…

この黒猫亭さんの比喩に、私はしばらく再起不能になりました!(笑い過ぎて呼吸困難を起こしかけました。)
で、30秒ほどして再起動した後にちょっと考えたのは、親と子の関係(子=科学)に似ているかなぁ、と。

子は、乳幼児のときは保護を必要とするし、導きの手を求める。でも段々と(大きくなるにつれ)生意気になり、親の言うことを無視するようになり、新しい知識を蓄積し、自前の人脈を作り、手助けなしでも自前で色々やり出し、あろうことか「とーちゃん、そこ邪魔、しかもそれ迷信だし。知らねーの?ジョーシキよ、今時…」とまで!
しかも子の言うことの方が正しいと後で判る。なおさら悔しいぃぃ…と。

親は、さびしくて、なにか起きそうな時(まだ起きてないし、起きそうというのも親が主観的にそう感じたに過ぎない)に、世の中正しいばっかりぢゃぁ通らないこともあるしぃとか、余計なアドバイス。あれこれ世話を焼きたがり、煙たがられるも、頼ってほしいぃぃ、と。まぁ、頼ってほしいと感じること自体が子への依存かもしれない、とか。

ところで、だれかが説明できないことを自分が説明できるって結構気分の良いもので、偉そうなことを言いたい時とか「相手が知らなさそうな事」をさも熟知しているかのように言うわけです。また、妙に哲学チックな言い方をしたり。
例えば「自分の生き方を存在論的に肯定しようにも反実在論的なスキームから逃れられないので…云々」とか。私は存在論も反実在論も、定義も全く知らんのですが。
あるいは「ヒトの意識にはベースとなる波動があって、その意識波動の位相などを変調させてしまう高次元の存在の力が存在し、いわばその変調をメッセージとして受信する形で啓示を得る…云々」とか。
つまりは、田崎さんの翻訳による「知的詐欺」に掲載されてそうな主張。私、ダメなんですよね、こういうの。

で、エントリで言及されている方はそうでないかもしれませんが、私はスピリチュアルな人達が言っていることの多くに、そんなコケオドシ的な匂いを嗅ぎつけてしまうんですね。
そして、こういった主張に引きつけられる人もそれなりの数になるのかな、と。更にそういった人達が(エントリの方は除外されるかもしれませんが)スピリチュアルなコミュニティを形成しているんじゃないかな、と。
まぁ…私の下品な勘繰りなら良いのですけど。

by YJS (2009-08-07 18:09) 

pooh

> YJSさん

ぼくは「オカルトを擁護したい反ニセ科学論者」なので、黒猫亭さんの秀逸な比喩をすなおに受け入れられなくて、だだをこねてしまうんです(^^;。

> 私はスピリチュアルな人達が言っていることの多くに、そんなコケオドシ的な匂いを嗅ぎつけてしまう

このあたり、ぼくも同じように感じることが多々あります。いや、ぼく自身身の丈に合わないことを論じたがる知ったかぶりではあるんですが。

なんと云うかですね。こう、言葉にする前にちゃんと(自分のなかだけでも)つきつめない。相手の言葉を聴くときにもおなじで、だからじつは語るにしろ聴くにしろ共感するにしろ、そこに内実はほとんど伴ってない。いやそもそもコミュニケーションのS/N比を向上させるのは難しいし、言葉を選ぶ必要はそこにこそあるんですが、そもそもS/N比のSにあたる部分が非常に薄いので、体裁だけなにか伝えているように見せられれば充分、となってしまう。
言葉を使うことをひどく軽んじているわけなんですが、それは端的に云って、言葉によって伝えるべきなにごとかに対する切実さに決定的に欠けているからで。

じつはニセ科学同士、あるいはニセ科学と俗流オカルトや陰謀論なんかが非常に安易に野合するのは、こう云う本質的な情報の薄さ、と云うのもあるように思っています。ちゃんとした体系をもったオカルト同士ならその主張においてぶつかり合うような局面でも、実質的にそれぞれの発話における情報が薄いおかげで(要するに大仰な語法がほとんどNで、それとともに伝えられるべきSがほとんどないおかげで)、「トンデモ同士が惹きあう」ような現象がひんぱんに見られる、のではないかと。表面的な用語の類似があれば、そもそも発話のなかにそれ以上の内容がないので、あとは適当に話を合わせられれば「共感」できたことにできる。
とまぁ、こう考えると「『ありがとう』の発話には、そこに感謝の念がなくてもご利益がある」的な主張が平然とできる心理(あるいはそう云う主張を受け入れてしまう心理)とみごとに重なってきて、笑ってしまうんですけどね。
by pooh (2009-08-07 21:37) 

黒猫亭

>YJS さん、poohさん

ウケてくださって有り難うございます(笑)。オカルトと科学を擬人化すると、どうしてもオカルトのほうが「科学なんて今じゃ大きな顔をしているが、俺の手下にすぎないんだよ、本当に凄いのは俺なんだよ、それはいずれ科学も思い知るに違いないんだよ」と遠吠えをしてるように見えてしまいますね(笑)。

オカルトと科学の関係を考えると、たしかについ最近まで科学はオカルトの一部であったと思いますし、その意味で、poohさんが「科学は最も成功した魔術」と仰るのも歴史的に正しい認識ではないかと思います。

オカルトの講釈をオレがするのも変ですが(笑)、極単純化して謂えば、オカルトもまた世界の原理を解き明かしてそれを力として用いると謂う意味では科学と変わりのない性格があるわけで、しかもこれを科学と技術の関係に擬えると、基礎研究よりも技術的応用を目的視する傾向が強かったと思うんですね。つまり、オカルトは純粋な学問としての研究よりも、アートとして応用する目的性のほうが強かった、と。

そして、つい二〇〇年くらい前までは、宗教も哲学もオカルトも科学も完全に別のものではなかった、と謂うか、同じ世界観を共有していたのだと思います。超越的存在が在って、霊的秩序が律する世界が在って、霊的存在である人間が在ると謂う世界観ですね。

これはつまり、人間の心の外側に在る世界と内側に在る世界は原理的に同一のものであると見做す世界観だと思います。イデア論でも何でも、人間の霊性の中には世界と照応する原理が働いている、マクロコスモスとミクロコスモスは照応している、つまり人間の中には宇宙全体の雛形が在ると謂う考え方ですから、ギリシア哲学のように実験しなくても観想によって真理に到達出来ると謂う発想になるわけですね。

で、科学が発達してくるに連れて、どうやら人間の心の外側の世界と内側の世界は別のものらしい、と謂うことがわかってきます。人間の心の内側で働く原理が必ずしも外側の世界でも働いているわけではないし、この両者は別のもので、寧ろ人間をも含む世界全体を動かしているのは心の外側の世界の原理であり、心の内側の世界の原理はその原理によって発生したものと認識したほうが妥当だろうと謂う認識に落ち着いてきます。

そうすると、それまでの哲学やオカルトで想定されていた心の内外の世界を同一のものと見做す前提の原理は、心の内側の世界に限定して意味附けられてしまうわけで、またまた変な喩えを弄すると、今まで本社で企業活動全体を動かしていたような人間が、地方の支社の倉庫番に左遷されたような塩梅になるわけですね。

オカルトやスピリチュアリズムと謂うのは、元々は隠された世界の中心原理に直接アプローチする学問だったわけで、世界の周縁部で個別の対象を研究する学問じゃなかったわけです。poohさんが仰っているのは、喩えは悪いですが(笑)、地方の支社の倉庫番だって立派な仕事で意味があるだろう、と謂うことだと思うんですけど、元々オカルトやスピリチュアリズムは、人間中心的な世界観において、世界の中心原理として意味があった概念だったと思うんですよ。

そして、オカルトやスピリチュアリズムの系譜を継ぐ真摯な人間中心的学問は、すでに人文科学として科学のサブジャンルに組み入れられていると思うんですね。この現代において、そのままオカルトやスピリチュアルを復古的に名乗ると謂うのは、つまりそのような科学のサブジャンルとしての知ではなく世界の中心原理としての知を標榜していると謂うことだと思うんです。

しかし、実在論の見地から謂えば、現代においてオカルトやスピリチュアリズムは世界の中心原理では在り得ません。人間と謂うごく限定された個別の存在に纏わるローカルな学の形式を採らざるを得ないでしょう。つまり、人間に纏わる事象の神秘を解き明かしても、そこから物質世界をも含む世界全体に遡及して応用可能な力としての原理は出て来ないわけです。

ですから、そもそもマトモな合理的思考の持ち主はオカルトやスピリチュアリズムが世界の中心原理だと謂う前提を受け容れませんが、世界の中心原理としてそれらを標榜するような人々は、それが理解出来ないかその事実を受け容れることが出来ない人々が大半なんだと思うんです。

そうすると、この現代においてオカルトやスピリチュアリズムを支持する人々は、必然的に科学に匹敵するほどの深みや理路を具えた言説を発し得ないわけで、剥き出しの形のオカルトやスピリチュアリズムがこの現代に存在するのであれば、それは必ず非合理な言説として顕れてくるのだと思います。

poohさんが仰っているような、真摯なオカルトと俗流オカルトの境界と謂うのは、心の内側の世界と外側の世界が別のものだと謂う前提を受け容れているか否かによるものでしょうし、それは「心の内側の世界は外側の世界に価値的に劣るものではないけれど、原理的な概念構造としては、心の内側の世界の原理は外側の世界の原理の下位概念に位置附けられる」と謂う弁えを受け容れているか否かの違いじゃないでしょうか。
by 黒猫亭 (2009-08-08 11:02) 

pooh

> 黒猫亭さん

基本的におっしゃるとおりで、ぼくが執着しているのはそもそも根本的な原理として科学と云う思想における貴種があるわけではなかった、と云うような部分です。ぬきんでて有能だったゆえに事実上並ぶもののないピークを獲得していますが、それは生まれがよかったから、ではない。

その意味で、科学は万能でも絶対でもない。でも、ほとんどすべての領域において有用であるところまで来ているんです。それを否定するためには、否定する背景となる思想が同じだけのピークにある必要がある。

もちろん否定せずに、並列してそれぞれの有用性を発揮させる、と云うことも可能です。ただその場合は、互いにその思想の中心的な部分においてはっきりと、違うもの、である必要がある。安易なもたれあいは成立しえないんです。

> 「心の内側の世界は外側の世界に価値的に劣るものではないけれど、原理的な概念構造としては、心の内側の世界の原理は外側の世界の原理の下位概念に位置附けられる」

ここのところが、やや微妙で。
じっさいのところ実在論を拒んで生きていくことはできないので、そこへの従属は事実上前提となるんですよね。そう云う意味では(ぼくを含め)お書きのことは事実です。そうならざるを得ない。
このことを認識してさえいれば(このことを踏まえないことは、非実在論的な思想を根無し草にしてしまうので)概念としての上位・下位と云う捉え方は不要になるのかな、みたいに思います。思いたいです。どうかな。
by pooh (2009-08-08 16:14) 

黒猫亭

>poohさん

>>それを否定するためには、否定する背景となる思想が同じだけのピークにある必要がある。

これは事実上不可能ですよね。客観とか実在にベースを置く限り、科学を否定し得るほどのポテンシャルを持つ言説を為すことは出来ません。仰る通り科学と謂うのは唯一無二の絶対真理を唱える知ではなく、「可能な限りの正しさ」を常にアップデートしていく知の在り方ですから、これを否定することはほぼ不可能です。

「科学」と謂う言葉は、物質世界についての知の体系と謂う意味もあるけれど、その本質は「可能な限りの正しさ」を担保する方法論の部分にあって、だから人文領域でも科学的アプローチが可能になるわけです。科学に纏わる比類なき有用性のキモはこの方法論の部分にあって、おそらくこれを上回る有用な方法論を人間は持ち得ないでしょう。

これを逆に謂えば、現時点において科学を否定する言説と謂うのは、その不可能性に無自覚であるか、相当程度にいい加減な言説で在らざるを得ないと謂うことなんですね。つまり、いい加減な考察や言説でなければ真顔で科学を否定することなんか出来ないわけです。

オーセンティックなオカルトやスピリチュアリズムの系譜に連なる知の試みは、哲学や科学のサブジャンルに吸収されてしまったわけですから、本来それらは科学を否定する立場にはないですよね。それ自体が科学の一部を構成しているわけで、これは科学が方法論であるからこそそのようなことが在り得るわけです。

なので、現在存在するオカルトやスピリチュアリズムの立場から科学を否定する言説と謂うのは、これはもうどうしても不可避的にいい加減なもので在らざるを得ない。そのままの形ではすでに科学に拮抗し得るほどのポテンシャルを持ち得ないにもかかわらず、それに無自覚であると謂うことは、かなりいい加減なスタンスで為された言説だと謂うことですから。

>>このことを認識してさえいれば(このことを踏まえないことは、非実在論的な思想を根無し草にしてしまうので)概念としての上位・下位と云う捉え方は不要になるのかな、みたいに思います。思いたいです。どうかな。

仰る通りで、本来そんなことを更めて指摘するのは無意味なことなんです。マトモにものを考えるのであれば、そして自身の考察に他者が納得可能な妥当性がなければならないと考えるのであれば、「科学だけがすべてではない」とか「いずれ科学的に実証されるだろう」なんていい加減なことは謂えないはずなのですね。それは科学的知見だけではなく、現在の大多数の人間がどのような「正しさ」を共有し得るのか、と謂う知の枠組みそのものに対する物凄く雑駁な言及の形をとるからです。

にも関わらずその種の言説が常に俗流の形で為されるのは、世界の中心原理が「人間中心的な原理」つまり「霊的な原理」でないことに対する根強い抵抗があるからだろうと思います。スピリチュアリズムの「霊的な原理」って要するに「人間中心的な原理」のことだと思うんですよ。

だとすれば、問題は世界の上位に人間を置くのか、人間の上位に世界を置くのか、そう謂う性格になってくるのかな、と考える次第です。オカルトやスピリチュアリズムは、まず霊的な原理によって物質世界が生み出されたと考えるわけで、これは世界の中心に人間(超越者もまた人間の似姿でしょう)が存在して世界を在らしめていると謂う考え方であり、物質世界を霊性の下位に置く考え方であって、この種の考え方は多くの宗教で共有されているわけですが、自然科学が導き出す物質世界に関する知見によれば、その関係は逆なんですね。

どうやら物質的な実在から人間の霊性のようなものが発生したらしい、最大限に歩み寄ればそう謂う言い方になります。この辺の関係を考察するのが脳のハードプロブレムであったり脳科学の課題ですね。

多分、俗流オカルトやスピリチュアリズムは、その序列関係の転倒が許せないんですよ。世界の中心に人間がいて世界を在らしめているのではなく、物質的な世界があってその中にたまたま人間(超越者も)が存在するだけだと謂う事実を認めたくないんだと思うんですね。だから「ありがとう」と謂う言葉が水の結晶構造に影響を与える、と謂う情報には魅力がある。

おそらく、オカルトやスピリチュアリズムの問題の根幹の部分に、この種の序列関係の問題がある。で、多分マトモに考える限りこの序列関係を覆す理路は存在しないんですね。これは普通の意味ではオカルトではないですが、ID理論なんかはその部分が最も尖鋭に突出している問題だと思います。

それ故に、この種の言説に対しては殊更に「実在をベースに置くなら、物質性から霊性が生じるのであってその逆ではない」と説明する必要が出てくるわけですね。
by 黒猫亭 (2009-08-08 23:26) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 科学と謂うのは唯一無二の絶対真理を唱える知ではなく、「可能な限りの正しさ」を常にアップデートしていく知の在り方ですから、これを否定することはほぼ不可能です。

おっしゃるとおりだと思います。
支配的なものとしてであれオルタナティブとしてであれ、そのメソッドとしての有用性は否定できない。そこを正面から否定するためには、現実問題としてはその有用性においても可能性においても同水準のメソッドを構築するしかない。まぁ同水準、とは云ってもどう比較するのかは難しいわけですが、少なくともYJSさんのおっしゃるような、無知と浅慮の壁で自分たちを囲って同種の怠けものを勧誘するような手法が同様に有効になるはずはない。

> オーセンティックなオカルトやスピリチュアリズムの系譜に連なる知の試みは、哲学や科学のサブジャンルに吸収されてしまった

これは一面悲しいことでもありますが、逆にそこにあったシーズがこれからも命脈を保つことのできる方法かな、とも思います。
こう、ぼく個人がどんなものに固執しているか、と云うのを具体的に書くと、例えばそれは分析心理学(ユング → 河合隼雄の流れの)であったりするわけです。これは科学ではなくても、有用なオカルトたりうる、といまでも思っています。河合隼雄の晩年には、運用においてちょっとどうかな、と云う部分は多々ありましたが、ただそこには重要なシーズがいまもあるはず。

> 知の枠組みそのものに対する物凄く雑駁な言及

しかもそれを空疎でドンシャリな用語で飾り立てることでなんとか取り繕える、と云う発想ですね。
科学としても、芸術としても、それはどこへもたどりつかない。「ポエムでありファンタジーである」なんて言説は笑止です。

> 多分、俗流オカルトやスピリチュアリズムは、その序列関係の転倒が許せないんですよ。

ここに異論をさしはさむわけではないんですが、それだけか、と云うとちょっとぼくにはわかりません。
ただ根底に、おっしゃる「序列関係」を肯定したくない、と云う心性があることは、事実だろうとは思います。
by pooh (2009-08-09 08:35) 

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