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わかろうとすること [よしなしごと]

ときおり読ませていただいている(ほんとうは精読したいのだけれど内容が濃いのでさぼりがち)棚橋弘季さんのブログで、わからないことへの耐性と云うエントリがあがっていた。お書きの趣旨とちょっと違うと思われる角度で言及するので、トラックバックなし。

世の中の過剰な「わかりやすさ」志向、みたいなものについての問題意識を個人的にずっと抱いていて(このへんとかこのへんで書いた。もう3年も前だな)、実際のところニセ科学の問題についてあれこれ考え出した根底にはそう云うものがあったりする。
何かがわからないことの原因の半分はそれをわかる側の責任でもあります。ところが、どうもそれを表現する側、作り手側、話をする側の一方的な責任にしてしまう傾向がみられます。
一定以上に複雑なことを理解しようとすれば、それを理解できるだけの知識なり思考力なりが必要になる。より効率よく理解するためのメソッド、と云うのはあるのだろうけれど、なんの努力もなしに理解できる範囲はあたりまえながらそれほど広くない。共感できるとか、感性にフィットするとか云うあたりで納得できるのは、ひっくり返せばその程度のぼんやりした理解で充分だ、と思っていると云うことで、もちろん日常はそれで事足りる局面も多いのだけれど、まぁ実際には必要なだけの理解に達しているわけではない場合も多い。
問題なのは、そのぼんやりした理解でほんとうに充分なのか、と云うあたり。
そもそも、簡単にわかろうとしすぎるのです。
わかろうとする努力ができない傾向が強すぎるのです。

絶対にわかりきってしまうことがないものを、それでもひたすらわかろうとする努力をしつづけることができない人が多いのです。
自然を相手にすれば実はわかりきってしまうなんて状態はありえない。答えなどは永遠に見つからない。ただ、その時々の解釈が成り立つ場合があるだけです。科学的な法則さえも単に現代人が妥当だと感じられる解釈でしかなく、絶対的な答えなどではない。単なるお約束のうえに成り立つ妥当な説明でしかないことを忘れすぎです。

答えなどはなく、結局、ひたすらわかろうとしつづけ、その時々でこれだと思えるような解釈をつくりつづけていくしかないということを忘れてしまっている人が多いのではないでしょうか。
まぁ科学的な法則について示されている見解に関しては、それがひとの認識の外部にある方法論であるゆえの意義と云う部分について考えるとちょっと異論はあるけれどそれは措くとして。

わかろうとすること、わかることの意義をそもそも認めない、と云うスタンスもありえて、そうなるとわかるかわりに「信じる」ことに意義を見出す、と云うパターンがあって。これが多くの場合ニセ科学の蔓延の背景にある。
ところが、要するにここにおける「信じる」と云うのは事実上「わかる」ことを放棄する代用とされるので、じっさいには自分がなにを「信じ」ているのか「わか」っていない、と云う状況が生じる。冗談のようだけれど、ニセ科学を支持する種類の言説は基本的にはそう云うものだ。「信じることが大事、とおっしゃるけど、なにを信じているんですか?」と問いかけて、自分の信じているものがなんなのかちゃんと説明できる方には(わずかながら積み重ねてきた経験のなかでは)ほとんどお会いしたことがない。
で、だいたいそう云うときに登場するロジックは「だって科学にだってすべてのことがわかっているわけじゃないじゃない。だったらおんなじでしょ」と云うもの。このへんのことを絢爛たる学術(っぽい)用語をちりばめてミスティフィカシオンをほどこしながら主張される方も多いけれど、要するに「わかる」と云うことを「すべてわかる」か「まったくわからない」かの二元論で解釈して、「わかっていることがあってもわからないことがあるならそれはまったくわからないのと等価だ」と云うことを主張する。
まぁそれはそれでいい場合もあるのだけれど、こっちでも書いたようにそれではすまない状況もあるわけで。

このへんについてはkikulogの少し前のエントリ、絶対安全信仰vs.リスク評価(追記あり)で論じられているような部分とも重なる部分があって。
要するに最良の結論に達しよう、最良の手を打とうとすれば、その時点でできる限りのことを「わかる」必要があるし、「わかる」ことができたことが多ければ多いほど出した結論が最良のものである可能性が高い。これは「信じる」ことの持たない機能だ。いやもちろんすべてを「わかる」ことなんて不可能だから、わかっているひとの力を借りるなりしながら、いっしょうけんめい自分で手の届く範囲でわかろうとすることが必要になる。
あるひとにとっていちばんわかりやすい(感覚的に納得しやすい)結論がつねに最良の結論である、なんてことはありえないし、それはどれだけ「信じ」ていても変わらないので。
タグ:理解 認識
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TAKA

ちなみにアタクシの場合、「分かった!」と思ったときは大抵、「実は分かっていない」事が多い。経験上、「少し分かったかも。」くらいが、無難な模様。

昔の人が言ったらしい、「学問の王道に、バイパス無し」という格言は、本当かも。「焦らず地道に学んだ者は、理解が加速する。」という事かも。

しかしながら、「手っ取り早い答えが欲しい」という本音が私の心に在るのも、また事実なのでありました。(だから都合の良い話に騙されてしまう)
by TAKA (2009-08-19 22:28) 

pooh

> TAKAさん

> 経験上、「少し分かったかも。」くらいが、無難な模様。

じっさいのところ、それくらいしか「わかる」ことはできないのかもしれないんですよね。でも、それは「わかってない」こととは歴然と違っていて。

> 「手っ取り早い答えが欲しい」という本音

それはぼくにもありますし、だれしもあることなんだろうと思います(考えたり、わかろうとしたりするのは大変ですし)。でも「手っ取り早いから『信じる』」と云うのは、あきらかに違いますよね。
by pooh (2009-08-19 22:47) 

TAKESAN

今晩は。

私は、ここら辺についてちょっと違う考えを持っているからなのか、この類の論を見て、よく覚える違和感があります。

それは、「解らなさ」や「解らない」事への耐性が「低くなっている」、という言い方について感じるものです。

ピンと来ないんですね、「低くなった」と判断する根拠が。「低い人が沢山いる」とかならまだ解るんです。でも、「低くなった」というのは、過去と比較している訳ですよね。これって、社会の一般的な傾向(時間的な変化)についての言明なので、全く社会科学的に「調べなくては判らない」問題です。

ニセ科学に騙されるのは、解らなさへの耐性の低さが関係しているのでは、などと言うなら、そういう場合もあるだろう、と感ずるのですが、しかし、ニセ科学に騙されている人が増えているのは、社会全体の、解らなさへの耐性の低下によるのでは、という主張であれば、少なくとも現時点では、私はそれには明確に「反対」です。何故なら、調べなくちゃ判らない話であるからです。

もちろん、「~ではないか」、で留めておくのは、それは推測や仮説ですので構わないと思います。しかるに、いかにもそれが判明した事実であるかのように言うのは(池内了氏などを念頭に置いています)、よろしく無いと考えます。それは社会事象についての言明で、すなわち社会学や社会心理学的に真面目に調べるべき事柄ですしね。

たとえば、「解らなさへの耐性」を「どうやって”測る”」かというのは、とても難しい問題です。それは、直接観測不能な構成概念であるからです。
直感的に「これがそうだな」と思ったとしても、それが実際、色々な人が言う類似の言葉で表される意味と一致しているか、も解らない訳ですね。

過去との比較の観点も(例:年齢の層)、

・年齢の層によらず、各層全てで低下したのか

・高年齢の人はそのままだが、若い人が低く、若い人の割合が多いために、全体的には低下したと看做すのか

などの見方がありますよね。

いずれにしても、私は、「解らなさへの耐性の低下」を問題視あるいはクローズアップする人は、ことごとく「根拠を示せていない」と思っています。傍証のレベルですら、きちんとした根拠を提出しようともなされていないと感じます。
※主張は根拠と釣り合わせるべきなので、何を言うか、によって、何を出すべきか、は変わりますから、こうでは無いかと思う、というくらいの主張であれば、それはそれで良いと思います。ただし、必然的にそれは、説得力を高める事はあり得ない、と言えます

ちょっと厳しい見方かもですが、私はこういった考えを持っています。

上で池内氏の名を挙げましたが、氏などは、社会的な部分について、恐ろしくナイーブだと感じます。「何でそこまで言えるの? 根拠は?」といった風に。端的に言って、社会科学の視座が足りないように見えます。

ちょうどkatsuya_440さんが新しいエントリーを書いておられますが⇒http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/62131433.html

ご尤もである、と思います。

私が、疑うかどうかと共に、「知っているか否か」を重視するのは、物事を疑ったからといって騙されない訳では無いだろう、という考えからです。つまり、関連の知識を「知っているかどうか」も見ないとダメなんだと思うんですね。

っと、めちゃくちゃ長文になっちゃいましたね。ごめんなさい。
by TAKESAN (2009-08-20 02:02) 

きくち

9.11はアルカイダが起こしたテロである、という公式見解を「疑う」のが懐疑主義だと信じている人たちもいるので、「懐疑」にはレベルがあることがわかります。そりゃそうか。

必要なものはなにかというと、少なくともひとつには「知識」ですね、たしかに。あとは「謙虚さ」?

実は「わからなさに耐えられないんじゃないか」と書こうとして、動きがとれなくなっている長文があるのだけど、さてねえ。
「ここからは推測であるが」と書けば許してもらえるかなあ

by きくち (2009-08-20 02:37) 

黒猫亭

オレは、社会一般の「わからなさへの耐性」が低くなったと謂うより、一般人の基本的なリテラシーのキャパ自体はそんなに昔と変わりがないのに、「わからなければならないこと」の精度が上がったんじゃないかな、とぼんやり考えています。

それには、月並みな言い方ですが情報化の流れみたいなものがあって、四半世紀くらい前までは、突っ込んだ専門的な知識にアクセス出来る人は、専門家とかその近縁職種の人に限られていて、一般人はわかりやすく解説した概説書や入門書のレベルの知識で十分だったんではないか、と。

ところが、今は誰でもネットを介して或る程度突っ込んだ情報にアクセスが可能なわけで、専門的な議論のコミュニティにもアクセスが可能になってくると、わからなければならないことの深度も深くなってくる。

今ニセ科学問題の論壇で普通に議論されているようなことは、昔は専門家が考えれば好かったことで、一般人は専門家集団の発信する情報を信頼することでそれを定見として受け容れていたけれど、今は一般人レベルでもその程度のことを考えようと謂う段階になっている。

この「わからなければならないこと」が複雑化したことが「わからないこと」への苛立ちと謂う形で出てきている、もしくは昔から一般人の「わかり方」はそのような「要はどういうことなの?」的なものでしかなかったが、それでは不十分になってきた、と謂うことなのかもしれません。

半世紀くらい前の感覚だと、或る言説がニセ科学だとした場合、それがニセ科学であることを社会が諒解する為には「専門家がニセ科学だと指摘している」ことが十分な根拠になり得たんじゃないかな、と思いますし、専門家のほうでもそれ以上のことを一般人が理解出来ると謂う前提で考えていなかったのではないかと思います。

それはつまり、ニセ科学のほうで「○○大学の○○教授」と謂う虚仮威しの肩書きで騙しに掛かるのとそんなに変わらなくて、最終的には「専門家とされる人物」個人の信用で言説の信用を量っていたんではないでしょうか。つまり、ニセ科学がニセであるのは、それを主唱している「○○大学の○○教授」がインチキだからだ、こう謂う理解だったんでしょう。

この「要はどういうことなの?」と専門家の権威に依拠する一般人の姿勢自体は、大昔からそんなに変わっていないと思うんですよ。
by 黒猫亭 (2009-08-20 05:30) 

pooh

> TAKESANさん

「低くなっている」と云う部分についてはぼくも賛同しない、と云うか、「近頃の若いもんは」的な意味合いでそう云う結論に至るのは間違いだ、と思います。
ただ、棚橋さんがそう云うふうにお感じになる部分もわからなくはなくて。そこのところは黒猫亭さんにいただいたコメントの内容におおむね賛同なんです。要するに、なにかを理解しなければいけない(させなければいけない)機会が増えている、と云うことかと。
棚橋さんは情報伝達の専門家で、実際にプレゼンテーションをする機会も多いわけです。棚橋さんほどではなくても、同様のことは実感レベルではぼくも感じたりします。ただ、たぶんおっしゃるとおりの実感を「低くなっている」と帰結するのは、正しくはないと思います。
by pooh (2009-08-20 07:34) 

pooh

> きくちさん

謙虚さ、と云うファクターについては、TAKESANさんが以前から折に触れて論じておられた部分に近いかも。ただ、それはプレゼンテーターが聴衆に求めうるものでは、その場においてはないんですよね。

陰謀論の問題点の多くは、「疑う」ことではなくて「信じる」ことに起因していると思うんですよ。先になにかしら「信じる」ことを置いて、それを否定せずにすむような(あるいはそれを肯定するのに都合がいい)「疑い方」を模索する。これは懐疑ではあっても、「懐疑主義」ではないですよね。
by pooh (2009-08-20 07:39) 

pooh

> 黒猫亭さん

情報に触れる機会が増えて、そのために「わからないこと」に突き当たる機会が増えている、と云うのは、ぼくもあると思います。
「わかりえること」は、たぶん爆発的に増えている。ただ、なま(raw)の情報がたくさんあってそれを入手できれば、それはわかったことになる、と云うことではもちろんじっさいはなくて、そこから「わかろうとする」ことが必要になってくる。じゃあどれだけ「わかろうとする」のが必要か、と云う部分かとも思います。もちろんこれは自分で見極めて折り合いをつける必要があるわけですが、少なくともそこで「信じる」ことで一気に折り合いをつけてしまう(そしてそこで「わかろうとする」ことをやめてしまう)と、いろいろと痛ましい結果につながってしまうこともある。

ぼく個人としてはここで社会の背景にある「経済の加速」と云うところにその原因を求める、と云うスコープがちょっと見えてきます。ただ、ちょっと簡単に論じられる話ではないので、ここではそこまでの話はよしておきますけど。
by pooh (2009-08-20 07:56) 

Cere

技術開発者さんが「以前よりも~が低くなっている」「以前よりも~が少なくなっている」という書き方をよくされていますよね。TAKESANさんが書かれているような意味合いで以前から気になっていました。何かお考えがあって敢えてそういう書き方をしているのであれば、せっかくそういう話題になっているので、そのあたりを解説していただけないかなーと、思います。

by Cere (2009-08-20 12:42) 

TAKESAN

今日は。

>Cereさん

実は、技術開発者さんの事も頭に置きながら書いたコメントだったりします。

私のブログを読んで下さっている方はご存知かと思うのですが、私はそこら辺に関しての技術開発者さんのご意見には、明確に異を唱えています(その事について直接やり取りしたのも何度かあります)。

そういった意味で、ニセ科学にしろなんにしろ、それを信じるに至るのは何故か、とか、社会全体として見てどうであるか、等に関しては、関心を持つ人の意見は必ずしも同じでは無い、と思っています。
by TAKESAN (2009-08-20 13:03) 

pooh

> Cereさん

その部分は、ぼくも引っかかったことはあります。

ただ、おおむねその種のお話を技術開発者さんがされるときは、主題は「規範の弱まり」だったりするわけじゃないですか。言及対象に生じている現象としては見かけで「低下」「減少」だったりするわけなので、とくに意図を問おう、と思ったことはないですけれど。
by pooh (2009-08-20 21:54) 

pooh

> TAKESANさん

ぼくは過去にその部分で異を唱えたことはないですね。もちろんそれは(その部分に関して)同意を意味するわけではないです。

意見の違い、と云うより、ベースとなる現状認識の違い、と云うほうが適切かもしれません。そこにあんまりひっかかったことが(ぼくは)ない、と云うことでしょうか。
by pooh (2009-08-20 21:55) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>技術開発者さんが「以前よりも~が低くなっている」「以前よりも~が少なくなっている」という書き方をよくされていますよね。TAKESANさんが書かれているような意味合いで以前から気になっていました。何かお考えがあって敢えてそういう書き方をしているのであれば、せっかくそういう話題になっているので、そのあたりを解説していただけないかなーと、思います。

私の専門の工業製品の不具合の解析みたいな話をすると、不具合そのものが一つの証拠ではあるわけですね。例えばある製品のある部分が通常の使用中に破断が生じたら、私などは、その破断部分が「弱かった」という前提から始めることが多い訳ですね。実はこの「弱かった」というのも仮定ではある訳です。仮定ではあるけども、他になかなか理由が考えられないので「弱かった」として、今度はそれを前提として「なぜ?この製品だけ弱かったのだろう」と探索を始める訳です。「その前提も仮定だから、それが証明されるまで先に進むな」なんて言われると「だって、壊れたんだもん。壊れたと言うことが証拠みたいなものだよ」と言うしか無いわけですね。

なんていうかな、工業製品の不具合で、あるロットの製品が壊れ、たのロットの製品が保っているなら、「そのロットの製品が弱い」から解析を始めるみたいに、「以前はなかなか起こらなかった現象が、今は起こる」のなら「以前よりも~が低くなっている」「以前よりも~が少なくなっている」から解析を始めて見るというだけです。

もちろん、TAKSANさんのように異を唱えていただける方がありがたい訳です。不具合品でも「なぜ、この部品が弱かったのだろう」と探索をしている時に「実は、この部品は通常じゃない使い方をされた可能性がある」という情報がもたらされて、無駄な解析をしなくて済むことだってあるわけだからね。


by 技術開発者 (2009-08-21 13:32) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。本題の方へのコメントを少し書きますね。

>問題なのは、そのぼんやりした理解でほんとうに充分なのか、と云うあたり。

以前にapjさんと「わからなさに対する耐性」と同じ様な議論をした記憶があるんだけど、どうにも探せ出せないのね。どういう用語で議論したかも正確に思い出せなくて、検索が利かないのね。まだ、私がニセ科学批判に飛び込んで間が無かった頃の様な気がするんだけどね。その時は、「我々、研究者というのは日頃から『ここまでは分かった』『ここから先はまだ分からない』と区分して『まだ分からない』をそのまま持ち続ける事に慣れている」みたいな話をしたと思うんですけどね。

なんていうかな、今思うと、「耐性」という言葉とは違う気もするのね。顰蹙を買うかも知れないけど、「欲求の処理」みたいなイメージがとうしてもあるのね。お相手のいない若い男性が、風俗で処理するか、本やビデオで一人で処理するか・・・なんてモロに顰蹙ものの事を書いて居るのだけどね。でも、この処理に失敗するとなんとなく問題を起こしそうな気もしますね(笑)。

なんていうかな、「でっ、結局はどっちなんだよ」みたいな、「ハッキリさせたい欲求」というのはおそらく万人にあるんじゃないかと思うわけです。もちろん性欲ほど強いものではなくてね。性欲はまあ、やがて多くの人がお相手を見つけて、やがて子育てに追われる事になるんだけど、この「ハッキリさせたい欲求」というのは、さほど強く無い代わりに、綺麗に満たすというのがなかなか困難なものかも知れないと思ったりするのね。私みたいな「調べ魔」に近い人間でもきちんと調べて分かる事なんて10のうち1つくらいのものだからね。でもって、その欲求を満たせない時の処理方法ってのが、なんとなくうまく行っていないのかな、みたいな気もするのね。

by 技術開発者 (2009-08-21 15:37) 

pooh

> 技術開発者さん

社会科学的なことがらについて(実際はそれに限らず、ですけど)実感のみにもとづいて語る危険性、と云うのはもとより存在します。ただ、それを伝える段においてどう云う手法を用いるか、どんな言い回しを用いるか、と云うのは目的によって違ったりもするわけですよね。
このへん微妙な言い回しになるし、ひょっとするとひごろ云っていることと矛盾している、と捉えられるかもしれないんですが、わかりやすさ(伝わりやすさ)と正確さが一定の範囲でトレードオフになりうる状況で、そのさじ加減をどうするか、と云う永遠の課題にもつながるのか、と思います。
ぼくは技術開発者さんのお使いになるたとえ話と云う手法をすぐれたものだと評価していますし、有効だと思っていますが、当然そこにはリスクはあるわけです(精度を一定水準で捨てる手法ですから)。そこをどう考えるか、と云う話でもあるかも。これはなにを伝えたいか、だれに届けたいか、と云うことで選択される種類のものであると思います。

> 今思うと、「耐性」という言葉とは違う気もするのね。

いや、じつはやっぱり「耐性」と云う言葉が適切なのかも、と云う気もしてきました。高いとか低いとか、あがったとかさがったとか云う話ではなく。
自分でもどうかと思う例になるんですが、直接の性行為がわりと手軽に実行可能な状況で、自分がほんとうは異性になにを求めているのか、どうすれば満たされるのか、みたいなことはあんまり考えないですよね。でも、それで(自分自身にとって)ほんとうにいいのか、と云うとじっさいは微妙で。
いろんな情報について、なんかそう云う状況に陥っているのかも。
by pooh (2009-08-21 21:38) 

蝉丸

poohさん、みなさん、お久しぶりです。 

初等科学教育が広くゆきわたっている環境でこそニセ科学は蔓延するものであり、そうでない環境下では、迷信が蔓延するだけではないかと。
曲がりなりにも理屈だけはつける「ニセ科学」よりも、理屈抜きの「迷信」のほうが、いっそうわかりやすく、受け入れやすいでしょう。 

マーティン・ガードナー著『奇妙な論理』の社会思想社版(現在はハヤカワ文庫より再版)で、訳者の市場泰男氏は、訳者あとがき(p278)でこう述べています(ちなみに日付は1980年8月)。 

   【引用開始】
本書に紹介されているような奇妙な擬似科学理論がアメリカでは今日も堂々と横行し、多くの信者を集めているという事実には、かなりびっくりさせられます。とはいえ日本でも、各種の占いをはじめ、暦の迷信、姓名判断、血液型による適性判断、家相、墓相、印相など、根拠のない信仰がおそろしいほどはびこっていますから、あまりアメリカ人を軽べつする資格はないでしょう。ただ日本の迷信では「昔の本にそう書いてある」「えらい人がそういっている」「とにかくよく当たる」「わけはわからないが利くそうだ」といった説明で満足してしまって、それ以上疑いもせんさくもすすめることはないようですから、本書に紹介されているような壮大(?)な理論体系が構築される可能性は、幸か不幸かまずなさそうです。
   【引用終了】 

これを読む限り、少なくとも1980年時点の市場氏は、「日本ではニセ科学は蔓延していない、蔓延しているのは迷信だけだ」と考えていたように受け取れます。当時は、明治生まれ~戦中戦後の混乱期生まれの十分に教育を受けられなかった人たちが、社会の中核を占めていたわけです。それから30年近く経過し、教育水準が底上げされ、リテラシー能力が以前より向上した結果、日本でも「壮大(?)な理論体系が構築」されたニセ科学が横行しだしたのではないでしょうか。
 #もちろん、ニセ科学の蔓延問題を矮小化するつもりはありません。迷信よりマシとはいえ、現代においてはニセ科学は大きな問題と捉えております。 

現代には、改善すべき諸問題が数多くあり、問題点の明確化や改善方法の検討は必要不可欠ですが、昔はよかったかどうかは別問題です。「昔に比べて現代は~が低下している」風の物言いには慎重でありたいものです。

by 蝉丸 (2009-08-21 23:43) 

PseuDoctor

こんにちは。

「わからなさへの耐性を定量化して過去と現在とで比較する」というのは物凄く困難(まず不可能)でしょうね。何故なら、情報環境が激変しているから。
ただ、ひとつ言える事は、我々が接触し所有する情報量は、桁違い(というのもおこがましいほど)増加しています。そして、所有する情報量が増えるほど、未知領域との接触面積も増加します。

つまり「わからなさへの耐性」そのものは過去と比べて低下しているかどうかは解らない。変化していないかもしれないし、むしろ強化されているかもしれません。
しかし一方で、我々が意識せざるを得ない「わからないこと」の量は過去に比べて圧倒的に増加している。

その意味で「あくまで相対的評価ではあるが」と前置きするのであれば、あるいは「対応が間に合っているかどうか」という観点で見るのであれば、昔に比べて「わからなさに対する耐性が低下している」と表現を使うのも許される様な気がします。
勿論これは、価値観とは別個の問題です。
by PseuDoctor (2009-08-22 12:38) 

pooh

うわ、コメント見落してました。

> 蝉丸さん

しくみだけの議論をすれば、迷信とニセ科学は同種のもの、と云える部分はあるんですよ。迷信、と云う言葉はネガティブな意味をこめて呪術を呼ぶときの名称、と云うこともできて、そうするとある社会環境下では合理性の発露、と云えないこともない(あくまでしくみとしては)。
そう考えると、ニセ科学の発生と蔓延は社会における科学のプレゼンス拡大の結果、と云うことは云えるのかもしれないと思います。これがおっしゃるようなリテラシの向上によるものかどうか、と云う部分についてはいちがいに同意はできませんが、仮説としてはありえますよね。
by pooh (2009-08-22 15:15) 

pooh

> PseuDoctorさん

> 「あくまで相対的評価ではあるが」と前置きするのであれば

ぼくの感覚もこちらに近いです。
いずれにせよ「必要なだけの耐性が準備できていない」と云う認識になるかと。
by pooh (2009-08-22 15:18) 

きくち

僕は「ニセ科学とスピリチュアルは説明原理が違うだけ」と思いますよ。好きなほうを選ぶのですよ

by きくち (2009-08-22 19:10) 

pooh

> きくちさん

ここでぼくはスピリチュアルをかぎかっこに入れたくなるんですけどね。昨今本邦で流行る「俗流スピリチュアル」。
本筋のちゃんとしたこころざしにもとづいた有用なスピリチュアルは、そうそうわかりやすいものではないし、安易に科学に近づいたり自らを科学と対置させたりしないと思います。
by pooh (2009-08-22 20:18) 

きくち

オカルトもそうですけどね
しかし、もうカタカナのスピリチュアルが何を指すか、よくわかんなくなってきた。英語のspiritualityはこんな感じ
http://en.wikipedia.org/wiki/Spirituality
で、これには「spiritualismじゃないよ」と書いてある
http://en.wikipedia.org/wiki/Spiritualism
僕はたぶんごっちゃにしてるな

by きくち (2009-08-22 21:32) 

pooh

> きくちさん

そのあたりぼくも微妙なんだけど、すくなくとも昨今一般的に用いられる「スピリチュアル」は、本来の意味するところから都合のいい部分だけを切り取って使っている感じがしてます。
by pooh (2009-08-22 21:44) 

きくち

カタカナ書きのスピリチュアルは「黒人霊歌」の意味を除き、全部ニューエイジ以降の使い方なんじゃないかという疑惑。
ニューエイジ以降vs.さらにそれ以降、だとすると、いまいち緊張感に欠ける
by きくち (2009-08-22 22:12) 

pooh

> きくちさん

ニューエイジにもその時代以降にも通用するような思想は含まれていたんじゃないかと思うので、ひとくくりにするのはちょっとためらうけどね。
ただ、そこから派生して現時点で目につくものがどうか、と云うと、うむむ。
by pooh (2009-08-22 22:27) 

TAKA

余談です。
アニメの「ハム太郎」に、「メカじろう」というハムスター型ロボットが登場します。最初のころの「メカじろう」は、少し暴走する癖がありました。
しかし主人公のハム太郎は、何とか理解してあげようと、メカじろうの行動を好意的に考察していました。
幾度か騒動を起こしたのち、ハム太郎とメカじろうの息は合うように成りました。

メカバージョンにも色々居るのだなと、当時の私は感心した次第。
poohさんの場合は、如何に?注目している現在の私。
by TAKA (2009-08-26 11:25) 

pooh

> TAKAさん

じつはメカpoohと云うのもいるんです。
こいつはじつに残酷な血に飢えたやつで、いつでも獲物を手当たり次第屠ろうとうずうずしています。
ぼくはいつも必死に押さえ込んでいるんです。

# ピンぼけなお返事でごめんなさい。
by pooh (2009-08-26 20:43) 

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