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社会と文化、表現(おぼえがき) [よしなしごと]

なんとなく以前から興味のあった、こんなCDを聴いた。


以下、おぼえがきをばらばらと。これまで書いてきたいろんなことと関係するようなしないような、断片。

そもそもの興味

ぼくはほとんど外国旅行をしたことがないけれど、台湾だけは複数回行っている。街中人間なので、台北だけだけど(でも最後に行ったのはもう数年前)。
観光なので観光客が行くようなところに行って、あとは街のあちこちを歩いて行ける範囲でうろうろ(あと捷運でちょっとだけお出かけ)。ガイドブックで面白そうなところに目をつけておいて、それから興味を惹いた店なんかを見かけたら適当に。基本的に夜中に出歩いていてもあんまり怖い目にはあわないし、なんとなく看板も読めるので、けっこう気楽。
で、CDショップなんかにも入る。何枚かは買って帰ったりもする(昔は日本の音楽の妙な海賊盤コンピレーションが面白かったりもしたのだけど、最近はどうなんだろう)。で、そのなかにDifangとかSamingadとかが混じったりしていた。

もうひとつあるのは、小泉文夫なんかをななめ読みしていると、ときおり「民族の文化と音楽の機能」みたいな文脈で台湾原住民の音楽が引き合いに出されること。

民族音楽を聴く

ここではガムランについてあれこれ書いたりしているけれど、そもそもぼくは民族音楽好きと云うわけじゃなくて。そう云うものを聴くときには、なにかしら興味を惹かれるまでの流れが個別にある。例えばカッワーリーを聴いてみたい、と思ったのはいとうせいこうのワールズ・エンド・ガーデンを読んだのがきっかけだし、中南米の音楽を多少聴くのはそもそもの北米の黒人音楽への興味(これはこれで、もともと本籍地であるロックからの訴求溯及)からの流れが半分、あとはキューバ音楽に近接した生活環境から。
なので包括的に文化と音楽の結びつきを理解しようとするような、アカデミックな聴きかたはそもそもしない。しないのだけど、散発的に聴いているとそう云うものが聴いているぼくのなかでつながってくる状況が生じたりする。ある地域の音楽にはこんな要素があるけれど、それは別の地域の音楽の要素がこんなふうに入り混じることでできあがっているのだなぁ、みたいな(こっちで書いたような感じで)。個人的な文脈での、各論としてのプチ音楽史。これはこれで面白い。

ブリコラージュとしての「ロック」

こう云う文脈であまりちゃんと理解できていると思えない用語を使うのは、自分でもどうか、と思うけれど(と云うか、たぶんこれから書くようなことはもうすでにだれかがどこかで云っているんだろうけど)。
ぼくらの世代では、音楽を意識して聴くにあたってのとばぐちがロックだった、と云うのはそんなに珍しくないと思う。ぼくもそう(いまの若いひとたちなんかはどうなんだろう)。
ロック、と云うのは、おおざっぱに(ものすごくおおざっぱに)云うと白人がシカゴブルーズのまねをする、と云うところから始まった音楽で。演奏者側に「こんなのがやりたい」と云うのがあって、「こんなのをやってるひとたち」としてのブルーズマンたちがいて。
で、核になるのは「こんなのがやりたい」と云う意識と云うか意思と云うか、そう云う部分。なのでまねをする、と云うか外部から取り込む音楽的要素は、やりたいことに対してちょうどいいと感じたものならなんでもいい。クラシックでもレゲエでもアイリッシュ・トラッドでも。ミクスチャー・ロックと云う言い回しがあるけれどロックってのはそもそもの最初からミクスチャーで。
ただここで重要なのは、「取り込む」ことと「おなじことをする」ことの違い。それは取り込む対象と「こんなことをしたい」と云う意思の距離。昨今巷で「ロック」と呼ばれているものに対するぼくの違和感はこのへんから生じていて、それはそれらが取り込む/まねる対象として「ロック」を選んでいる、と云うメタな状況が感覚的にしっくり来ない、と云う程度の話なんだけれど。

ともかくも、ロックはそもそも「息子」。ブルーズだけじゃなくて、そのサブジャンルごとにいろんな「親」がいる。「親」を理解することはそのロック・ミュージシャンがしたいことをより深く知ること、ひいてはその音楽に感銘を受けた自分を知ること。民族音楽をぼくが聴く角度は、じゃあその「親」に接しよう、と云う部分から発端している、のだと思う。

台湾における現在の原住民音楽の位置づけ

以下、詳しいわけではぜんぜんないんだけど、ぼくの把握(ちなみに台湾での原住民、と云う呼称は自称でもあり、蔑称としてのニュアンスはない)。
さきに挙げた故Difang(郭英男、アミ族)のCDをぼくは2枚持っている。彼は1998年に最初のアルバムをリリースしているのだけれど、その時期と前後して台湾の音楽界に原住民の音楽家が注目されはじめる状況と云うのがあった、らしい。Difangの場合、彼と彼の部族が受け継いできた歌、あるいはそのフォーマットを踏襲した歌に現代的なスタイルでの伴奏をつけたものをリリースしている。もうすこし表現者個人を前面に出しているけれど、Samingad(紀曉君、プユマ族)なんかも近い発想。どちらにしても受け止められ方はポップ・ミュージック。ただし、彼らの民族が受け継いできたものを音楽的リソースとして活用するかたち。
ちなみに原住民出身のミュージシャンとして筆頭に挙がるのはA-mei(張惠妹、プユマ族)だと思うけれど、ぼくの聴いたことがある範囲では彼女はとくに自分の民族における音楽的リソースの活用をその音楽活動の主要な要素に据えてはいない。今年リリースされた最新アルバムは本名(と云うか民族名)の阿密特の名義なのでそう云う方向のものなのかもしれないけれど、聴いていない。

ほかにも原住民出身の歌手は何人もいるけれど、YouTubeで接したことがある程度なので詳細はわからない。ここで述べたいのは、原住民が受け継いできた音楽が、現在ポップ・ミュージックを構築するにあたっての源泉のひとつとして認識され、使用される状況にある、と云うこと。

このCDについて

収録されているのは、小泉文夫による19751973年の採録。なのでどちらかと云うとアカデミックな意図にもとづいていて、聴いて楽しむためのものではない(だから楽しめない、と云うわけじゃない)。このへん、ノンサッチから出されているデヴィッド・ルイストン録音による2枚、Music From The Morning Of The WorldおよびGamelan & Kecakに通じるものがある。
納められているのはほとんどが声楽。当時認められていた10の民族すべてから採録されているので、とてもバリエーション豊か。ただこれは学術資料としての意味合いをつよく持っていることの顕れでもあって、なので「こんな感じの音楽を流したい」とか「こんな音楽が聴きたい」みたいな発想でかけるのにはあんまり向かない。ただ、それぞれの歌はそれぞれに美しい、と感じる。
しかしこれ、アミ族の歌についてはうたってるのDifang本人じゃないのかひょっとして。

歌の持つ意味

このアルバムに含まれている全27曲のうち、出草(首狩り)についての歌が4曲もある。
ある民族に複雑で精妙な音楽が生まれるのは、それがその民族における共同作業を効率よくおこなうための鍛錬として意味を持つからだ、と云うのが小泉文夫の主張のひとつで、こちらのエントリではエスキモーの音楽を例示している部分を引用したりしたけれど、その角度から云うと首狩りなんて云ううっかりすると返り討ちに逢うかもしれない作業をおこなうためには洗練された音楽は好適、と云う話になるんだろう。

狩猟じゃなくて農耕の話だけれど。
バリは3毛作とかできる豊かな土地だけれど、地形的にはわりと急峻で、なので灌漑用の水を獲得するのはあまり簡単じゃなくて。なので、水を分配する技術と、分配の公平性を確保するための社会的組織が発達している。これが水を重視する宗教の体系や拘束力の強い共同体の成立に寄与した、と云うことになるんだけれど、これが音楽にも影響していたりする。バリガムランの複雑さ・精妙さ・高度な技巧性みたいなのは「共同体としての能力の高さ・緊密さ」のアウトプットでもあるわけで。このへんを共同体間で競うようになってからどんどんエスカレートしていって現状に至る、と云う流れ。

社会と文化、表現

いろんな民族が音楽を含めたいろんな表現を育んできたし、いまも育んでいる。その表現がなぜ生まれたのか、なぜ存在するのか、と云うことについてはそれぞれ理由がある。表現がその第一義的な意味合いにおいてアートとなったのは、個人としての表現者のものとなったのは、それほど昔のことじゃない。

ある表現に対する価値観、美意識を共有することには、そもそも社会的な機能が存在する(と云うかそもそもその機能が、共同体レヴェルでの表現の洗練にさきだつものとしてある)。ぼくたちはその機能と切り離して表現そのものを味わうことができるけれど、それはごく最近になって(いろいろな条件が揃って)可能になったことだ。

ぼくのなかには、美しい(とぼくが感じる)ものにどうしようもなく惹かれる性向がある。なにを美しいと感じるか、と云う部分はそれぞれとしても、この性向については、ぼくたちは、と敷衍してもそれほど問題はないんじゃないか、と思う。この性向そのものはどうしようもなく持ってしまったもので、そのことそのものはいいことでも悪いことでもないんだろう。

ただ、そもそも表現と云うものがそう云う機能を持っていること、ある表現とそれにまつわる言説は(意図する、しないを問わず)そのような機能を惹起する可能性があること、については、意識的であったほうがいいように思う。ある固有の「美しさ」に基盤を置いてなにかを語ろうとする言説が、じつはそれらの機能を利用することを目的としたものである可能性は、つねにある。
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ちがやまる

こんばんは。
ふと、日本人達も出草の歌を持っていたんじゃないか、という事を思いました。関東の古墳時代の人骨で、戦さの犠牲になったと思われるものがあった、という話をうろ覚えに聞いた事があるように思うので、そんな事もあるのかなあと。
とすると、今でもその名残りがあってもいいような気がしてきます。全然形を変えて、鳥追い(虫送り)の歌なんかになって残っているのかも、とか。そんなことを思いながらpoohさんご紹介のCDの出草の歌を試聴で聴いてみると、どことなく「かごめかごめ」を思わせるところがあるような気がしてきたり。
by ちがやまる (2009-10-18 00:04) 

TAKA

「ある美しさを、前面に置いて語る言説。実は、その魅力を使うことを目的とした、魔崖の代物であった。善を歌う詐欺師には、みんなで帰れコールを。」という感じですね。

ちなみに私の場合、初めに聴いた時には心を動かされず、しばらくしてから曲の意味に感心して好きになることが有ります。
あるいは、「最先端の曲か?よく分からないが、良いかも。」と思って気楽に購入したCDでも、歌詞の内容を知ってから気落ちしたり。
「曲そのものは良いのに、なんでそう来るかねえ。台無しでしょ。」と嘆く私。「まったく、最近の若いものは!(怒)」と愚痴る日々も、近そうです。
by TAKA (2009-10-18 01:26) 

pooh

> ちがやまるさん

> 日本人達も出草の歌を持っていたんじゃないか

慣習としての首狩りがあった、と云う話は寡聞にして聞かないですけど、でもなんと云うか共同体間の争いをおこなうにあたってまずなんらかの歌の力を借りた、みたいなことはあってもぜんぜん不思議じゃないですよね。残っていないですけど。

本文で触れなかったのは、じゃあそう云うものはいまの日本のぼくたちのあいだにはどんなふうに生きているんだろう、と云う部分です。じつは実感としても、暮らしのなかにそう云うものが息づいている気がほとんどしない。これはなぜなんだろう。

> どことなく「かごめかごめ」を思わせる

収録されている歌には、聴いていてなにかそう云う部分を強く刺激される曲があるんですよね。その辺アミの洗練はすごいし、パイワンもなんかそのへんの感受性に直結してくる。
ほとんど感覚的な理解のとっかかりがない曲も収録されてますけど。
by pooh (2009-10-18 06:02) 

pooh

> TAKAさん

ぼくも、わからなかった音楽があるタイミングで突然「わかる」ことがあります。なんかそれはほとんど「ある瞬間」みたいな感じで、その瞬間の快感はすごい。
そう云うときに、歌詞の内容はぼくのばあいあんまり関係なかったりしますけどね。
by pooh (2009-10-18 06:06) 

黒猫亭

>>本文で触れなかったのは、じゃあそう云うものはいまの日本のぼくたちのあいだにはどんなふうに生きているんだろう、と云う部分です。

黒澤明は労働歌を使うのが好きで、「七人の侍」のラストも田植え歌で締め括ってますね。尤もあの人は、音楽に合わせて大勢の人間が調和して動くと謂うのが単純に映像的に好きだったんだと思いますが。
by 黒猫亭 (2009-10-18 09:30) 

pooh

> 黒猫亭さん

まさにその種の「労働歌」みたいなものをリソースにした音楽って、じっさいにあんまり身近にないじゃないですか。もちろん探せばあるんでしょうけど、日常のものじゃない。
いや、大昔にユーロビートが流行ったのは、あれが田植えのリズムだからだ、みたいな種類の話はまぁあるにしても。
by pooh (2009-10-18 12:12) 

黒猫亭

>poohさん

>>まさにその種の「労働歌」みたいなものをリソースにした音楽って、じっさいにあんまり身近にないじゃないですか。

ないですねぇ。これは現在の共同体の性格の変遷と密接な関係があるんでしょうけれど、もっと大きい理由としては、「みんなで一斉に同じ動作を行う」と謂う形の労働が少なくなっていることと関係しているんじゃないですかね。

日本の労働歌は、田植え歌にしろ茶摘み歌にしろ、基本的に農耕がメインだったのでアンサンブルではなくユニゾンで、大勢の人々が一斉に同じ動作を繰り返すと謂う性格があったけれど、現在はその種の労働が激減してしまったので、実質的な労働歌の存在意義がなくなったと謂うことかもしれません。

黒澤の労働歌の扱いを視ると、たとえば「七人の侍」では、木村功の勝四郎と別れた津島恵子の志乃が田植えの列に加わって涙声で田植え歌を歌い出す、と謂うような形で、若侍と百姓娘の非常時の刹那的な恋愛と謂う非日常から、農村共同体の日常に帰っていく象徴として描かれています。

また、労働歌ではないですが、「隠し砦の三悪人」では聾唖の少年に変装した上原美佐の姫が、火祭りの踊りの輪に加わることで庶民の共同体を経験すると謂う形になっていて、音楽に合わせてみんなで一緒に同じ動作をとる、合唱すると謂うのは、共同体への参加と謂う意味を担わされているわけですね。

晩年の「夢」の最後のエピソードである「水車のある村」でも、理想郷的な農村の葬送で、参列者が労働歌の延長上にある歌を合唱しながら良い人生を全うした死者を送ると謂うシーンが、映画全体のラストに据えられています。

>>いや、大昔にユーロビートが流行ったのは、あれが田植えのリズムだからだ、みたいな種類の話はまぁあるにしても。

音楽に合わせてみんなが同じ動作を行うことは、最早共同体の内部では実質的な意味を持たないので、労働歌みたいなものは多分なくなっていくんでしょう。ただ、象徴的な意味で共同体に帰属していることを確認する為に、目的的に音楽に合わせて皆で同じ動作を行う、と謂うのは、たとえばそれこそパラパラなんかが継承しているんじゃないですかね。
by 黒猫亭 (2009-10-18 13:06) 

pooh

> 黒猫亭さん

> 「みんなで一斉に同じ動作を行う」と謂う形の労働が少なくなっていることと関係している

まぁそれは確かで、そう云う意味では逆にここで扱った台湾の原住民とか、そう云う文化をわりといきいきと残しているほうが希と云うか貴重だ、と云う話になるんでしょうけど。こう云う場合背景に宗教があればかなりの拘束力を持って保管される場合も多いんでしょうけどね。

> 音楽に合わせてみんなで一緒に同じ動作をとる、合唱すると謂うのは、共同体への参加と謂う意味を担わされている

表現、とりわけ音楽は、本文にも書きましたけれどすぐれてそう云う機能を発揮するポテンシャルを持っているもので(音楽において表現を表現者の個性に結びつける発想は、そもそも録音技術の進歩と軌を一にするごく最近の現象だと思っています)。表現・芸術を本来はこよなく愛するぼくではありますが、そのあたりを意識しないまま漠然と素朴に芸術を称揚するスタンスには、むしろ危ういものを感じます。

> 象徴的な意味で共同体に帰属していることを確認する為に、目的的に音楽に合わせて皆で同じ動作を行う

うあああ。
ちょっと感じるところがあるのですが、それはまたいずれ。
by pooh (2009-10-18 21:49) 

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