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技巧と接続(「ブラックペアン1988」海堂尊) [ひと/本]

推理小説は読まない、などと云いつつ、桜宮サーガを読むのは4作目。

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(上) (講談社文庫)

ブラックペアン1988(下) (講談社文庫)

へんな話、海堂尊の小説は読み始めたら一気呵成なので、なんだかコストパフォーマンス的に損をしている気分になるくらい。

こっちこっちで、ぼくは桜宮サーガに分類される小説の書評を書いている。
でも、シリーズのなかでは今回はちょっと毛色が違う。舞台になるのはタイトルどおり1988年、チーム・バチスタの栄光を遡ること20年近く前。おなじみの登場人物の過去の姿を見られる、と云う読者の楽しみを、海堂尊はおろそかにしない。学生時代の「行灯」田口や「ジェネラル・ルージュ」速水、「地雷原」藤原をはじめとした他の作品で重要な登場人物となる看護師たち、そして誰よりも怪物・高階の若き日の姿。
うまいなぁ、と思う。このへんの(ある意味ちょっと下世話な)うまさが、このひとの作家としての真骨頂なんだろうな。

エンタテインメント小説に教訓的な要素を混ぜ込む、と云うのは、考えてみるとすこしも珍しいことじゃなくて、実際のところはたいていのエンタテインメント小説にはそう云う要素が多かれ少なかれ含まれていて、なにかしらの役割を担っているんだろう、みたいに思う。ただこれは、例えばトレードオフ的なニュアンスで、ある要素がつよいと別の要素が弱められる、と云うようなものじゃなくて、巧者の手にかかれば、それは小説の魅力と云う面で、不可分なものとして相乗効果的に働く。その意味で海堂尊は巧者だ。以前の書評で引き合いに出したヴァクスよりも、よほど。

医療に従事する人間が、その技能を磨くこと。
医療に革新的な技術を持ち込み、全般的な医療の質を底上げすること。

もちろんたぶんこれはそれぞれの医療従事者のなかでは、姿勢としていちがいに対立するものではないのだろうけれど、舞台が大学病院と云う(複数の医療従事者が所属し、医療技術と云うものに関して一定の機能を持つ)場所であるかぎり、それはその場に居合わせた医療従事者間の姿勢の対立、として表面化する。そしてこの2つの姿勢はそのまま、ぼくらの社会が医療と云うものをどう位置づけるか、と云う部分で、公共の問題たりうる。
とりわけ、ぼくらの社会が医療の問題にこんなふうに向き合っている現状においては。

前者の姿勢を代表する渡海、後者を代表する高階(!)。そして「それ以前」を象徴する佐伯。キャラクター造形の技倆と語り口の巧さで物語を追わせられているうちに、テーマは読者の脳裏に浮き彫りになり、残る。

海堂尊はけして日本の医療界の一般的な意味での代弁者、と云う場所にはいないのだと思う。彼が示す問題意識も、ひとつのスタンスからの視点、でしかないのかも知れない。でも、彼の存在はおそらく僥倖だ。医療界にとっても、ぼくら読者にとっても。
タグ:書評 海堂尊
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