So-net無料ブログ作成
検索選択

「安全・安心」 [あげあしとり]

まぁ「安心・安全」でもいいのだけれど。
なんとなくこの組み合わせで、まるで成語のように使われる用例を見かけるように思う。でも、このふたつのことばの取り合わせの意味を考えると、じつはよくわからなくなる。

そもそもこのことばが組み合わせとして用いられるのは、お役所言葉として流通しているから、だと思う。例えばぼくたちは日常「ICTを利活用する」なんてへんてこな云い回しをすることはあまりない。でも、お役所からお金をせびりとるには、この種のよく考えると意味不明なことばを使いこなす必要がある。お役所は「ICTを利活用」したり、「安全・安心」に貢献したりすることにはお金を出してくれるわけだから。
かつて「北海道の主要産業は公共事業だ」と書いたのは東直己だったけれど、多かれ少なかれ地方はどこも同じ状況で。云っちゃえば「復興」したところでそこに戻るだけなんだけど、被災地のビジネスはここ半年ばかり「どうやって御公儀から銭を流してもらうか」ってことにフォーカスしている状況なわけで、とまぁこのへんはあだしごと。

もちろん安心と安全は無関係じゃない。でも、組にして同時に語るようなものでもない。「安全」だから「安心」する場合は多いだろう。でも安心できるから安全だ、と云うことにはならない。

もうひとつあるのは、安全にしても安心にしても、ことばとしてはON/OFF的にしか使えないにもかかわらず、じっさいにはそう云う内容を意味していない、と云うこと。
「安全である」と云う言明は、厳密には100%安全であることを意味し得ない(すくなくとも自然科学をベースに考える限り)。「安全でない」も同様。だから、それらの言明に基づいた「安心である」(あるいは「安心でない」)と云う状況は、100%の根拠を持ち得ない。

「安全である」ことの根拠が自然科学であったとすれば、自然科学を疑う限り「安心」は手に入らない。根拠が宗教であったとすれば、その宗教を疑う限り「安心」は手に入らない。言明した科学者が、宗教家が「御用学者」だったり「カルト教祖」だったりする、と云う認識のもとでは、やっぱり「安心」は手に入らない。

「安全」が一定基準以下のリスクを意味することばでしかない以上、「安心」はそのリスクを判断したうえでの、やっぱり程度問題を勘案したものでしかありえない。「安全」は一定基準以下のリスク、と云うかたちでしか求め得ないし、「安心」はそれをなんらかの判断基準(それが自然科学的な蓋然性か、宗教的な合理性かはともかくとして)によって解釈した上にしか築くことはできない。

もちろん「安全」を演出することもできるし、それをベースに「安心」を喧伝することもできる。そうした営為のほんとうの中身を、どうやって見抜くのか。すくなくとも「安全・安心」をひたすらだれかに求めても、本来的な意味ではそれを手に入れるのは原理的に不可能だ、と云うことになる。いちどきに手軽に手に入る「安全・安心」なんて云うものは事実上存在しない。

まぁ、それでも求めてしまうのは人情としてわからなくもないけれど。
でもまずひとつあるのは、この種の空疎なことばを使うことで思考が規定されてしまえば、そこから導かれる結論も空疎にならざるをえないこと。もうひとつあるのは、「安全・安心」をセットで求めるのは、例えば東京電力に「もう一度『原発安全神話』で騙してほしい」と云うことを求めているのと変わりはない、と云うこと。このへんのことは、もうすこしひろく認識されてほしいな、と思う。
タグ:紋切型
nice!(0)  コメント(39)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 39

Jem

そうですねぇ。流してもらいたいと思わなくても、集まってくる銭ってもんもありまして。それもそれでやっかいだったり。
(原発事故関連で、福島県にきた「調査研究費」。かるく10桁(円)はいくんじゃないでしょうか。問題は、各県から応援がきてても、人手が圧倒的に不足してることで。
「日本放射線技師会理事で福島県放射線技師会会長であった鈴木憲二氏、7月16日に急逝。」http://www.nikkeibp.co.jp/article/reb/20110906/283055/?P=5&ST=rebuild

今までずっと、純朴なサッカー少年たちに、「Jヴィレッジに行ってきたの。よかったね。」「あれは原発の見返りなんだよ。」「チェルノブイリ並の事故があったら、福島市だって危険なんだから。」なんて言ってきたわたくしなんですが、実際に事故になり(その前に地震と津波もありましたが)日々報道されるベクレル値に一喜一憂している身には(基本「農家」なんですようちは)量や種類をとわず「出た出た放射能 まただまただ やっぱりね みんな癌で死ぬんだ」(←「出た出た月が」のメロディでお願いします)なんてのを見ると、なんかもううんざりしてます。

降ってきちゃったもんは戻しようがないので、対応策としてできることはやるけど、もうそれ以上できないって線がある。自分でリスク比較して判断するしかないんですよね。問題は、「今までそんなことを自分でじっくりと考えたことがなかった」人がほとんどだってことで。

日常生活で四則演算しか使わないで生活してきたひとに、突然、エクセルでマクロ組めと言うようなもんです。その時に、しかたない、と腹くくって勉強するひとがどれだけいるか。
テレビ見て「エクセルがわかった」気になっても、何の役にも立たないですからね。

ところで。いま子どもの進学先を考えてリスクを比較してるんですが。
1 県内の高校(将来「福島で育ったということによって、婚姻などで差別される」かもしれない。癌の発症率上昇についてはほとんど無視していいレベルだと判断してます。)
2 東京の高校(今後100年以内に確実にくるであろう東海地震。「来年かもしれない。」)
3 その他の県の高校(子どもをひとりで生活させることになる。食事などの健康面、情緒の安定などの精神面についてはどうだろうか。)

         難しいですね。
by Jem (2011-10-16 23:35) 

pooh

> Jemさん

> 自分でリスク比較して判断するしかないんですよね。問題は、「今までそんなことを自分でじっくりと考えたことがなかった」人がほとんどだってことで。

原発に関して云えば、これはまぁぼくなんかも(すくなくとも充分には)「今までそんなことを自分でじっくりと考えたことがなかった」人ではあるんですよね。
でもまぁ、誰かが代わりに考えてくれる、と云うのはある程度あるわけです。全部最初から、自分だけではできない。でも、最後の判断は自分でせざるを得ない、となった場合に。
そこでどんな基準に基づいて、その「だれかの考え」を取捨選択するか、なんですよね。

> 難しいですね。

この「3」の要素に関する知見や議論が、けっこう大事な割に不足しているように感じてます。ほんとうに難しいです。
by pooh (2011-10-17 06:33) 

Jem

「誰かが代わりに考えてくれる」  はい。助かってます。

ここでみなさまに
、「ありがとうございます。おかげで正気保ってます。」と書いておきます。
by Jem (2011-10-17 08:48) 

pooh

> Jemさん

ほんとうに、ありがたいことだと思います。
なんと云うか大枠で云うと、社会、と云うもののありがたさですよね。
by pooh (2011-10-17 20:54) 

北風Mk-2

>「安全」が一定基準以下のリスクを意味することばでしかない以上、「安心」はそのリスクを判断したうえでの、やっぱり程度問題を勘案したものでしかありえない。

ここの「安心」には疑問を持っています。
個々人の「安心」は「程度問題を勘案してリスクがだいたいこれ以下」という個々人のリスクの目安により決まるものでしょうか?
「判断を曖昧にしない」とした場合、リスクの存在があった上で「安心できる」としうるものなのかという疑問があります。

「信仰」的なもの、その他「フォロー可能性」によるものであって、反対の「安心できない」も同様に感じています。

「社会・日常生活は通常通り運営されている」という点が、「正気を保つ」というか「安心の判断が曖昧にして過ごせる」という点で大きいのかとは思います。
by 北風Mk-2 (2011-10-23 20:57) 

pooh

> 北風Mk-2さん

と云うか、「安心できる」としうるものはたぶんない、と云うふうに考えたりしています。それでも安心するときは安心するし、そうでない時もある、みたいに。

> 「信仰」的なもの、その他「フォロー可能性」によるものであって、反対の「安心できない」も同様に感じています。

この「フォロー可能性」と云うことばの意味合いについて、ご教示願えればうれしいです。ごめんなさい、ちょっとぼくにはよくわからない。

> 「社会・日常生活は通常通り運営されている」という点が、「正気を保つ」というか「安心の判断が曖昧にして過ごせる」という点で大きいのかとは思います。

なので、その意味でほんとうの安心はもうないかも知れないし、そのぶん過酷な時代を迎えた、と云うことなのかも、みたいに思います。
by pooh (2011-10-23 21:18) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。考えるよすがとして、バイクに乗るときのヘルメットの話でも考えてみましょう。

バイクに乗る時にヘルメットが義務付けられたのは、私が若いときでして、結構抵抗がありました。ノーヘルで爆走するようなのを「格好良い」とするようなマンガもあったりしましてね、私自身、ちょとばかりウザイと思ったのは事実です。ただ、現実にはこの義務づけにより、ずいぶんとバイクの死亡事故は減りました。

さて、じゃあヘルメットをかぶると安全で安心できるのかというと、少し違いますね。頭こそ守ってくれますが、スピード出してこけると腕を折ったり、足を折ったり、胸を強打して肋骨を折ったりね。決して頭部以外の怪我に対して有効なものじゃありません。

そういう意味では、ヘルメットをかぶったからと言って「安全」じゃないんですね。でも、知り合いの子がバイクに乗るときにきちんとヘルメットをかぶってあごのストラップもきちんと止めてくれると「安心」は感じます。「コケて頭を打って帰らぬ人に」という心配はずいぶんと減りますからね(笑)。

まあ、「安全」と「安心」の間にはこういう違いがあるということでしょうかね。

by 技術開発者 (2011-10-24 08:34) 

Jem@今日は代休

技術開発者さん
いつもながらの例え話に和みました♪
by Jem@今日は代休 (2011-10-24 13:25) 

pooh

> 技術開発者さん

ぼくは2度ほどヘルメットに命を救われてますけどね(^^;。

安心、と云うのはもう、気持ちの問題なんです。だから、一定の条件が揃えば安心できる、と云うものではない。安心の基準はなにか探さざるを得ないにしても、それを誰かに与えてほしい、と云うのは、場合によっては騙してほしい、と云ってるのと同じことにもなりうる、と云う話だと思うんです。
いずれ人事は尽くさなければいけない、にしても。
by pooh (2011-10-24 21:52) 

pooh

> Jemさん

ヘルメットは大事です。
アライの高性能ヘルメットがなかったら、ぼくはいまごろ顔の左半分を失ってます(^^;。
by pooh (2011-10-24 21:54) 

北風Mk-2

>と云うか、「安心できる」としうるものはたぶんない、と云うふうに考えたりしています。それでも安心するときは安心するし、そうでない時もある、みたいに。

この辺、私は「判断が曖昧なまま過ごせる」ということかなあと。

>> 「信仰」的なもの、その他「フォロー可能性」によるものであって、反対の「安心できない」も同様に感じています。
>この「フォロー可能性」と云うことばの意味合いについて、ご教示願えればうれしいです。ごめんなさい、ちょっとぼくにはよくわからない。

よく分からない表現をしてすいません。
漠然とした言い方になるのですが、「そうなってもなんとかなるさ」とかいうような「安心」感もあると思うのですよ。
で、これは「ある事象の「安全性」から「安心」が導かれる」というわけでもないし、「リスクを低く」見積もっているというわけでもないケースもあるし、、「信仰的なもの」からでているとも思えない。
で、先のような表現をしました。

>なので、その意味でほんとうの安心はもうないかも知れないし、そのぶん過酷な時代を迎えた、と云うことなのかも、みたいに思います。

「本当の安心」なんか人はもちえたのかと、何か哲学っぽいことを感じなくもないですが。
ここは私はよく分からないです。
「一定基準以下のリスク」としての「安全」という意味では、現代日本は自然科学的な意味でも社会的な意味でもまだ「安全性の高い(リスクの小さい)」社会ではあると思うのです。(世界的にも、時代的にも(例えば、昭和に比べてリスクは減少していない?)
それが、「過酷な時代」ということは「実際のリスクが上がった」のか「リスクが上がったように感じるようになった」のか「安心の判断を曖昧にして過ごせなくなった」のか。
関西で震災があったときに対した被害はなかったですが「安心な日常が続く」という認識は絶たれました。ただ、現実に「過酷な日常」に置かれる状況ではなかったので、「過酷性」は感じなかったですが。
by 北風Mk-2 (2011-10-24 22:09) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「判断が曖昧なまま過ごせる」

まぁ、つねにシビアな判断を求められる、と云う状況でなければ、「安心できる」と云っていいのかも、みたいには思います。

> 「ある事象の「安全性」から「安心」が導かれる」というわけでもないし、「リスクを低く」見積もっているというわけでもないケースもあるし、、「信仰的なもの」からでているとも思えない。

なんと云うか、要素還元的に読み解いていこうとすれば、むしろ「不安」のファクターから考えていったほうが適切なのかもしれないです。

> 「本当の安心」なんか人はもちえたのかと、何か哲学っぽいことを感じなくもないですが。

まぁ、そう云う角度はあります。ただそこを論じはじめると、いろんなものが振り捨てられてしまう。いま、ここでは、そこを恐れます。

> それが、「過酷な時代」ということは「実際のリスクが上がった」のか「リスクが上がったように感じるようになった」のか「安心の判断を曖昧にして過ごせなくなった」のか。

最後の部分です。
いっそわかりやすい「不安」を求める、みたいな、じつは倒錯にしか見えないような心性に陥っているひとたちを、最近は高頻度で見るように思います。でも、そう云うひとたちに安心を与えてくれるなにか、はじつはもう多分存在しないんですよ。過酷、と云うのは、そう云う話です。
by pooh (2011-10-24 22:20) 

北風Mk-2

>いっそわかりやすい「不安」を求める、みたいな、じつは倒錯にしか見えないような心性に陥っているひとたちを、最近は高頻度で見るように思います

なんというか、問題が生じた場合など、きっちり解析して対策を打つ、ということよりも、「悪者」を探し出してそれを叩く、という傾向は時代を問わずあると思います。
また、「安心」のもとが曖昧であるのと同様、「不安」のもとも曖昧であることが多く、「不安のもとである悪者」を設定してしまうということは、それほど稀ではないように感じます。
倒錯といえば倒錯なんですが、心理として分からないでもないような気がします。

やや飛躍するかもしれませんが、「悪魔」「怨霊」「魔女」などもある種そうして設定された「悪者」と言えるかもしれません。
非現実な「怨霊」などはともかく、問題は、中途半端に「実在する」ものに「悪者」属性が付加されたような場合。中世の「魔女」狩りをそう言ってしまうのはやや問題あるかもしれませんが。

最近だと、「放射性物質」(放射能)が「悪者」属性が付加されたものに相当するように感じます。「リアルに存在する」ものでありながら、「現実の物性・特性」において話をしても通じない。
by 北風Mk-2 (2011-10-26 06:57) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 問題が生じた場合など、きっちり解析して対策を打つ、ということよりも、「悪者」を探し出してそれを叩く、という傾向は時代を問わずあると思います。

心性としては、おっしゃるとおりありますよね。
たぶんキーになるのは、それが表出してくるのはどのような状況なのか、と云うことで。

> 「悪魔」「怨霊」「魔女」などもある種そうして設定された「悪者」と言えるかもしれません。

じつはエントリを書こうかと思って、でもあんまり緻密に書けなさそうなので(それでもって雑に書くにはちょっと弊害が大きいように思えたので)まだやってないんですが。
中世ヨーロッパの魔女狩りには、おっしゃるような側面が存在します。共同体の崩壊と社会不安に宗教的権威が絡んできて、それなりに複雑(なので類似点だけ挙げて現況と単純に比較するにはだいぶ無理がある)なので、安直には云えないですけど。

> 「放射性物質」(放射能)が「悪者」属性が付加されたものに相当するように感じます。

と云うか、魔女狩りにおける魔法、ですね。
(呪術や代替医療を含む伝統的知識の体系としての)魔法はそもそもがつねに排除すべきものだったわけではないのですが、それが異端でありアンチキリストである、と意味づけされることによって、それを司る「魔女」を「狩る」ための理由付けとなったわけです。同種の意味づけがいま「放射能」に対して行われている、と云うのは、あるのかもしれません。放射能に携わるものはアンチキリストだ、的なニュアンスで。

ただ、「狩る」主体はつねに民衆なんですよね。教会ではない。教会は「狩る」根拠を提供するだけです(民衆にとっては、のっとるべき都合のいい根拠が相応の権威のもとに提供されれば、それはなんでもいい)。ほんらいの「狩る」理由はべつのところにある。その「狩る」理由はなんで、それにどう対処すべきか、と云うような問題なのかな、みたいに思います。

ちょっと話は変わりますけど。
飛躍を承知で云うと、例えば「エア御用」と云う用語の使われ方に、いくらか同種の背景を感じます。
で、そこで例えばSTSの研究者さんたちなんかがここで、どうも魔女狩りにおける教会の役割を果たしそうだなぁ、と云う危惧があったり。
by pooh (2011-10-26 07:36) 

北風Mk-2

コメントありがとうございます。

)いっそわかりやすい「不安」を求める、みたいな、じつは倒錯にしか見えないような心性に陥っているひとたちを、最近は高頻度で見るように思います。【でも、そう云うひとたちに安心を与えてくれるなにか、はじつはもう多分存在しないんですよ。】 過酷、と云うのは、そう云う話です。
(【】は私が追加)

ここで「過酷というのは誰にとってか?」とイメージしてみたら、例えば「お医者様」だった、というところから、先の私のコメントになっていまして。

【】内はそうなんですが、それでも、何かあったときにそう云う人たちを含む私たちにとって、<自然科学・技術・物・専門家>がある種の安心感を与えたり不安を払しょくしたりするものとみなされることがあると思います。
そういう場合に、<>が全ての期待にこたえれるかというとそうではなく、「問題が生じる」ことがある。
そうなった場合、<>が叩かれるべき「悪者」とされるケースが起こりえる。
(上は大雑把すぎるかもしれませんが、医療訴訟とか)

>「狩る」主体はつねに民衆なんですよね。
というコメントにある意味対応するかもしれませんが、「安心」を求められ、結果によっては比較的容易に「狩られる対象」にされうる<>にとって「過酷」な時代なのかな、と。
だからどうしたらいいのか、というのはよく分からないのですが。
by 北風Mk-2 (2011-10-26 21:18) 

pooh

> 北風Mk-2さん

うむむ、どうも親切な書き方ができていないようです。
だれにとって「過酷」かと云うと、ぼくは「安心のほしいぼくたち」を想定していました。

> 私たちにとって、<自然科学・技術・物・専門家>がある種の安心感を与えたり不安を払しょくしたりするものとみなされる

これがなぜか、と云う部分が、ニセ科学の問題を論じるにあたっての重要なポイントのひとつだったし、今後もそうありつづけるんですよね。
この部分、地下猫さんのこちらのエントリに重要な示唆があります。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20100225/1267084999

> そうなった場合、<>が叩かれるべき「悪者」とされるケースが起こりえる。

これはじっさいに一部で現在進行形で起きていることなんです。
で、それをどう評価するか、と云う話にたぶんなる。

<自然科学・技術・物・専門家>を端的に「悪者」とするのは、基本的に間違っています。と云うか、その行為自体は基本的に錯誤か自己欺瞞をそもそも伴っています。そのあたりは、こっちのエントリに書いたようなことで。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-31

そもそもそれらはすべてのひとが関与しているもので、ある意味「当事者」なので、「悪者」として切り捨てうるひとは、通常の社会生活を営んでいるかぎり原則として存在しない。

> 「安心」を求められ、結果によっては比較的容易に「狩られる対象」にされうる<>にとって「過酷」な時代なのかな、と。

その意味でそれらにとって「過酷」であること自体は、それほど問題視されるべきだとは思わなかったり。と云うか、それらは過酷な環境のなかで研鑽を続けてほしい、みたいなところもあったりします。

ただ、狩る側が自分に損な借り方をするのはどうか、みたいに思ったりはします。狩る行為によって、狩る側がそれらから得ていた恩恵を捨てるのは、なんと云うか社会的損失なので。ーーと云うことを考えてもらえないのかな、みたいに思ったり。
by pooh (2011-10-26 22:21) 

北風Mk-2

>うむむ、どうも親切な書き方ができていないようです。
だれにとって「過酷」かと云うと、ぼくは「安心のほしいぼくたち」を想定していました。

そう読んだのですが、それはそこで止まらず「誰か」に過酷を他者に転嫁していくことになってはしないか(もっと言えば「最近は高頻度で見る」というのは「他者に転嫁する」動きを見ていることではないのか)と。

>そもそもそれらはすべてのひとが関与しているもので、ある意味「当事者」なので、「悪者」として切り捨てうるひとは、通常の社会生活を営んでいるかぎり原則として存在しない

ここは私はやや見方が違っていて、違いは通常の社会生活というところに起因もしれませんが、「通常の社会生活」」がなされている日本においての医療訴訟⇒医療崩壊や原発などを見る限り、「原則として存在しない」とはいえないのかと思います。
原発処理などをみるに「リスクを一定以下にする」という自然科学でできることではなく「安心」が求められる。
SF作家の言ではないが、よくできたテクノロジーはある種の魔法と同様にみなされる(「日常にあることが当然」になった技術ほどその傾向が高い)
その意味でそれらにとって「過酷」であること自体を問題視しています。
もう一度書くと、「リスクの基準をさらに厳しくすることへの要求はある種正しい「過酷さ」だと思いますし、要求する側がそういう意識をもっているのであれば上で書いたような問題は杞憂ですむでしょう。
「リスクの基準を厳しくする」のではなく「安心」を求められると、要求する側が「科学ではなく便利な魔法として」要求されると、上で書いたような問題が生じるのではないかと。

>ただ、狩る側が自分に損な借り方をするのはどうか、みたいに思ったりはします。

上で書いたことに通じますが、「損得」をどうしたら考えてもらえるかなんですよ。
確かに、医療崩壊は「誰得」でしょう。
ただ、安易なある種の魔法としての「あるべき姿」とか「利便性」とかだと、
「ゼロリスク」「患者にとっての(短視眼的な)利便性」は、「狩る側にとって「得」にみえる」でしょう。
全体像や「コストパフォーマンス」や「負担と将来の選択肢」とかいろいろな点を考慮しないとみえにくい。
医療だけでなくエネルギー問題にしろ<>であげたものというのは、そうしたいろいろな点を考慮しないとトータルな判断はできない、ただし、恩恵をうけることは非常に手軽にできる、というある種の非対称性が「魔法」の所以で、いろいろな問題の温床になりうるのでしょう。
by 北風Mk-2 (2011-10-27 07:50) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん、 北風Mk-2さん。

>SF作家の言ではないが、よくできたテクノロジーはある種の魔法と同様にみなされる(「日常にあることが当然」になった技術ほどその傾向が高い)
>その意味でそれらにとって「過酷」であること自体を問題視しています。

なんていうか、悪徳商法批判者の時代に「物を選ばず店を選ぶ」みたいな話をしていたんですね。不良品の多かった時代に欲しい品物の一つ一つについて不良品かどうかを見分ける能力なんてもともと持ちきれ無いという事を自覚していた消費者は「不良品を仕入れまい」と努力する店を「不良品でも何でも仕入れる」店と見分け様とした訳です。この時代には客が品物を選んで買うスーパーマーケットよりも、店主と対話ができる個人商店の方が幅をきかせて居ました。不良品が減り、客がどの品物を選んでも或る水準以上の品質が当たり前になることで、「店を選ぶ」よりも「自分で品物を選ぶ」が普通になってきた訳です。

変な話から初めてしまいましたが、最近、私の周りの人と話をしていて「あなたが、『大丈夫』と言うから私は心配していない」とあっけらかんと言われてしまいましてね。どうも私の周りの人は、いろんな情報に関して私という「店」を通す事で安心を得ている面がありそうなんですね。喜んで良いのかそんな責任を負わせないでと言うべきなのか・・・。

現在「情報」というものに関して、相当に不良品の多い流通が生じている訳ですね。そして、或る程度の人が「店を選ぶ」という作法を知らずに、情報そのものの品質を自分の目で見分けようとしている様に見えるんですね。不良品が少ないならそれでも良いのですが、不良品が或る程度多いと見分ける能力なんてもともと持ちきれ無い訳です。その対策として「この人のフィルターを通るかどうかで判断しよう」みたいな「店」を自分の周りに確保する作法もあり得る訳です。


by 技術開発者 (2011-10-27 08:34) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「誰か」に過酷を他者に転嫁していくことになってはしないか

うぅむ。
これ、「転嫁」と云うのとはまたちょっと違うようにも思います。要求水準が正当かどうか、と云うのと、その背景にある分断の話のように思えますね。

> 「通常の社会生活」」がなされている日本においての医療訴訟⇒医療崩壊や原発などを見る限り、「原則として存在しない」とはいえないのかと思います。

あぁ、これは「理屈のうえでは」と云う話です。もちろん意識のレベルでは違ってきます。「存在しない」と云うのは、科学技術に対する他者として日常を送っていくことのできる市民は存在しない、と云うようなことで、それが自覚されているのかどうかはまた別で(でまぁぼくは、以前よりその部分について論じてきたりはしているわけですが)。

> 「リスクの基準を厳しくする」のではなく「安心」を求められると、要求する側が「科学ではなく便利な魔法として」要求されると、上で書いたような問題が生じるのではないかと。

まぁ、まさにこのあたり、このぼくのエントリの本意に近い部分の話になるかと思うんです。
ただそれが「過酷さ」であるかと云うと、それもまた違うのかとも思います。

要は、求めてもないものは得られない、と云うのをどう理解してもらうか、で。このこともひょっとすると「科学リテラシー」と云う云い回しの範疇になるのかもしれないんですけど。

で、そもそもそう云う部分に対する理解を促進するような、ある意味啓蒙のような活動は、だれが担うのか。とりわけ、この状況下で。
科学コミュニケーターと云う職種があるのでその職についているひとが担うのかな、みたいに思ったけど、どうもそう云うことはやらないみたい。社会科学技術論って云う学問分野があるからその分野のアカデミシャンが担うのかとも思ったけど、どうもやらなさそう。

別に震災や原発の問題がなくても、誰かがやらなきゃいけないことではあるよなぁ、みたいに以前から思っていて、なのでその部分を理解してもらう必要がある、と云うこと自体は「過酷」なこと、とは思いません。ただ、誰もやらない現状(って、昨今始まった話ではぜんぜんないわけですが)、菊池誠や天羽優子なんかが矢面に立ったりする状況、と云うのはほんらい変だと思ったりします。

> 恩恵をうけることは非常に手軽にできる、というある種の非対称性が「魔法」の所以で、いろいろな問題の温床になりうるのでしょう。

これはあると思います。
でもそれって意外と薄氷だよ、って云うのが現況かなぁ、みたいに思ったりします。
by pooh (2011-10-27 08:46) 

pooh

> 技術開発者さん

> 不良品が少ないならそれでも良いのですが、不良品が或る程度多いと見分ける能力なんてもともと持ちきれ無い訳です。

結局、ぼくらの生活は専門家の能力を活用しないと成り立たないわけで。まぁ当然誰もが、誰かのために自分の能力を活用してもらう専門家であるわけですが。

> その対策として「この人のフィルターを通るかどうかで判断しよう」みたいな「店」を自分の周りに確保する作法もあり得る訳です。

そしてまぁ、その「店」をある程度シビアに選ぶ方法くらいは、たぶん学びうるはずなんですよね。
by pooh (2011-10-27 08:52) 

北風Mk-2

>>そもそもそれらはすべてのひとが関与しているもので、ある意味「当事者」なので、「悪者」として切り捨てうるひとは、通常の社会生活を営んでいるかぎり原則として存在しない
>「存在しない」と云うのは、科学技術に対する他者として日常を送っていくことのできる市民は存在しない、と云うようなことで、

そうであれば、少し観念的ではないか、と感じます。
ここでの「悪者」は「問題が生じたときに叩かれる」もので、上で「放射能(放射性物質?)」を例に出してましたが。
「放射能」を「悪者」として「切り捨てようとする」人も、「電気が不足すれば社会に問題が生じる」ことは理解していて、「原発をなくしても電力は足りる」「他の発電所を作る」とか正しいかどうかは別にしても、「悪者として切り捨てる」からといって、「科学技術に対する他者として~」とか「世の中への影響を無視する」とかいうわけではない。
あるいは医療訴訟とか、「悪者」は「標準医療」ではなく「息子を助けられなかったこの医師」だったりする。「悪者」として切り捨てるからといって、「科学技術~」というわけではない。

>要は、求めてもないものは得られない、と云うのをどう理解してもらうか、

なんというか、「安心」(不安)という時点で、「感情」と「理性」の絡み合った問題ですから、「理性100%」な話はあまり適用できない。

「無病息災」というお守りを買っても御利益は・・・、となっても、「無病息災」という「人の願い」はなくならない。
で、例えば、各種のサプリメントを飲んだりする。ここで、個々のサプリの効果について、「定量的な数字の改善」 なんかを求めているわけではなく、「何を求めて飲んでいるのか?」というとまあ「無病息災」のようなことしか言えないわけです。「サプリが直接それをかなえてくれる」ものでないと承知していても。(「インチキな健康グッズ」(ニセ科学)にはここではふれない)
で、願いとしては「安産祈願」とか「回復祈願」とかいろいろあるわけで、「求める」ことはなくならない。
出産に際して両親が望むことは「無事に赤ちゃんが産れること」です。
「5%死産の可能性がある」ということを「理性で理解」しようが「感情」との絡みからの問題はなくならない。

ある人が生きていくうえで「無数の願い」が生じて、理性でおさえこむことのできるものがほとんどなんでしょうが(例えば、「不老不死」は「少なくとも現時点ではもとめ得ない」という理解し納得していると思いますがそれでも「願い」はあっておさえこんでいるとした)、「知識が不足している分野」「理性で理解したつもりでも感情を抑えきれない事項」なんかがありうる。

「理解」は理解として「感情との折り合いをつけるためのシステム」が、どういうものになるべきかは分からないのだけども、少なくとも「ニセ科学」じゃなく「こちら」というものが、「理性」では・・・という事項についてはいるのでしょうが。本来は「宗教」の分野のはずですが。

>でもそれって意外と薄氷だよ、って云うのが現況かなぁ、みたいに思ったりします。

個人的には、「理解」してもらうべきこと、というのは個々の技術ではなく、仕組みとか流れとかになるのかなと。
「社会」とか「公民」とかで、日本という国の「法制度からの」仕組みというか考え方や制度とかを習うわけです。個々の法律とかみていっても私のような素人にはなかなか全体像とか流れとかはみえないですね。
「環境問題」でも、地球での物質循環というか「流れ」「仕組み」の全体像がいるのですが、「現代社会」といったくくりで、「原料か消費者までの「商品(服とか携帯とか)」「水・電気」「通信・物流(インフラ)」などの全体像の教育を大幅に増やす、とか。

by 北風Mk-2 (2011-10-28 06:58) 

北風Mk-2

> 技術開発者さん
> 不良品が少ないならそれでも良いのですが、不良品が或る程度多いと見分ける能力なんてもともと持ちきれ無い訳です。

「自分にとっての「不良品」は何か」、という判断がここではいるかもしれないような。
例えば、「使い勝手のいい製品」であれば、まず「客」が「どういう機能がどれだけついているのか」「既存の製品のなかではどれに近いのか」を考えないと、上手く買い物ができないのですね。
たとえば「ニセ科学」的な情報・品物は「不良品」なんですが、「客が望んでいるもの」にはある種近いものがある。「不良品」扱いしてくれればいいのですが。

>最近、私の周りの人と話をしていて「あなたが、『大丈夫』と言うから私は心配していない」とあっけらかんと言われてしまいましてね。どうも私の周りの人は、いろんな情報に関して私という「店」を通す事で安心を得ている面がありそうなんですね。喜んで良いのかそんな責任を負わせないでと言うべきなのか・・・。

ここが、別コメントで書いた「過酷」の「転嫁」になるような。
で、たとえば、そういう人に「店」を通じて「不良品」が渡ると、「なんでこんなものをつかませたんだ」といわれると、「そんな責任を負わされた上で」「なんでこんなものをつかまされたんだ」と怒られる、理不尽な目にあうことがある。こういう理不尽さに置かれやすい環境があるとすれば「過酷」というしかないような。

あと、なんというか、「望み」「必要性」があって「品物」を買うという流れがほとんどであって、「品揃え」をみて「自分はこの中でどれが欲しいのか」というところから始まるものではない。
望む品物を買うためにいろいろ店を回ってみて、「品揃え」をみて「自分の希望はじゃあこの中のどれであれば実現できそうか」ということになる。
「品揃えがこれしかないのだから、その中のどれかを選んで買うしかない」というのはかなり後の段階になってしまう。
by 北風Mk-2 (2011-10-28 07:43) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「悪者」として切り捨てるからといって、「科学技術~」というわけではない。

ただまぁ、そこは混同されるんですよ。でまぁ結局「エア御用」みたいな、その場だけで都合のいいことばが生まれたり。

> 「理解」は理解として「感情との折り合いをつけるためのシステム」が、どういうものになるべきかは分からないのだけども、少なくとも「ニセ科学」じゃなく「こちら」というものが、「理性」では・・・という事項についてはいるのでしょうが。本来は「宗教」の分野のはずですが。

結局、ひとのこころのなかにある感情とか呪術性とか、それらを源泉とする角度からの世界に対する理解、みたいなものって、いくら世の中が変わろうが科学技術が進歩しようが、根本的にはなくならないんだと思います。また、ぼくなんかはそれらをなくすべきではない、みたいにわりと積極的に考えるほうで。
ただ、物理的な意味でぼくらが共有している世界は、それらに準拠して変わってくれるものではない。そう云う時に準拠しうるツールとして、自然科学が意味を持っている部分はあるわけです。じゃあ、それをどう社会のなかで位置づけて、使っていくか。
この話題になる都度引用させていただいている、このへんについての地下猫さんの考察はこちらになります。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080925/1222338469

> 「宗教」の分野のはずですが。

へんな云い方ですが、これはその現前する状況において、使い勝手のいいほうが使われればいい、くらいの話のように思います。

> 「理解」してもらうべきこと、というのは個々の技術ではなく、仕組みとか流れとかになるのかなと。

個別の問題の捉え方や結論の導き出し方はそれぞれであるとして、そう云う部分への理解がバックグラウンドとしてあるのが望ましい、と云うのは確かだと思います。
by pooh (2011-10-28 08:14) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん。

>まず「客」が「どういう機能がどれだけついているのか」「既存の製品のなかではどれに近いのか」を考えないと、上手く買い物ができないのですね。

この話はもともと、JISマーク制度が始まった頃を説明するために作ったものでしてね、私が言っている「不良品の多かった時代」の「不良品」の代表格はマッチでしたね。まだガスコンロなんかも自動着火なんて機能はなくて(地域によっては皆かまどと七輪)、毎日毎日、マッチを擦らなくては成らない時代ね。そんなときに徳用大箱の2/3が擦っても火がつかないマッチもあったのね(自然発火する黄燐の規制の影響もあったけどね)。所得も低いから結構大問題だったのね。主婦連が国会議事堂の周りを「不良品追放」とかシュプレヒコールをあげてデモしたなんて時代の話が下敷きね。

by 技術開発者 (2011-10-28 12:49) 

北風Mk-2

>技術開発者 さん
 それは私には未体験の状況ですね・・・。以前の中国ではそういう状況もあったようですが、仕事でもそこまでの状態までは。
 どうもありがとうございます。

>pooh さん
 コメント数を増やしてしまい、すいません。
ここも、地下猫さんのとこも書き込みしたりして読んでいたのですが、記事の紹介ありがとうございます。

>結局、ひとのこころのなかにある感情とか呪術性とか~

あまり難しい言葉は実感から離れていくような気がして文中ではよく使えないのですが、
大怪我をした子供を抱えた親が「この子を治してください」と助けられそうな人に頼って「これくらいしかできない」と言われても「そこを何とかお願いします」とするようなことは、現在の技術水準がどうだろうなんだろうが、これは人が人である限りなくならない。

>ただ、物理的な意味でぼくらが共有している世界は、それらに準拠して変わってくれるものではない。
>それをどう社会のなかで位置づけて、使っていくか。

ここが少し分からないです。
「自然科学」でも技術でも物でもいいのですが、それは例えば私がどう思おうが厳然として、「社会のなかで位置づけされて」存在している。
(「自然科学」とは「無関係の存在ではいられない」のだけども、逆に、「切り捨てる」と喚こうが、「ある物質」「ある技術」は制限できるかもしれませんが、「自然科学」を変えられない)

恩恵を受けている「物」「技術」の「社会のなかでの位置づけ」とか「影でどういうことがなされたことによって享受できているものか」とかを【使用者が意識するということ】と解釈してみます。

私としては、「技術」とか「物」とかに批判的になる際には、「それをどういうものであるか(「科学というもの」「技術」「物」など、社会のなかでの位置づけも含んで)ということを考えてみよう、ということになるのかなあ。

何かしようとすると、まず「科学の恩恵」をうけるのだけど、そのたびに「位置づけ」なんかしていないし、実際にしてられない。
それでも、曖昧なままでも過ごしていける。
じゃあ、緊急時には、となると、上で「大怪我をした子供」とか書いたけど、そういう場面では、多分意識は回らない。

恩恵を受けている「物」「技術」の「社会のなかでの位置づけ」とか「影でどういうことがなされたことによって享受できているものか」とかを意識する機会というのは、それはそれとして設けないといけない、ということで、上のコメントでみられた、学校教育とか自主的な学習とかになるのでしょう。
by 北風Mk-2 (2011-10-29 17:25) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 例えば私がどう思おうが厳然として、「社会のなかで位置づけされて」存在している。

ここのところが微妙で。と云うのは、「誰がどう思おうが」「厳然として」社会に存在するもの、と云うのがあるかどうか、ってお話ですね。社会、と云うものをどう考えるか、と云う部分で。
社会を所与のもの、個人にはどうにもできないもの、とぼくらは考えがちだし、じっさい自分ひとりでなにかそこに変化をもたらせるかと云うと難しいのですが、ほんとうにそうか。

> そのたびに「位置づけ」なんかしていないし、実際にしてられない。

都度、ではなくて、常識として基本的な立ち位置があればいいのでは、みたいなのがぼくの考え方です。
それにはまぁ確かに、学校教育なんかは効果的かも知れないです。と云うか、そう云う部分が教育として不備な現状があるんだったら、そもそもそれがどんなもんかなぁ、みたいな気もします。
by pooh (2011-10-29 21:04) 

Jem

技術開発者 さん  (2011-10-27 08:34のコメント)

昨今、20年熟成の本場物から、詐欺まがいどころかまるっきり詐欺の物まで、いろんな商品(情報)があふれかえっておりますので、わたしは、とりあえず30年超のおつきあいがある「きくまこ商店」に長年並んでる定番から、選んでおります。
「技術開発者商店」にも長年のお得意様がいるのですね。すばらしいことだと思います。

まぁ、うちは宿六が現場の研究職(農学Dr.)、子ども1、子ども2とも大学の農学部って状況なので、「福島の子育て中の家庭」の中心値からちょっとはずれた位置だとは思いますが。

「まるっきりわからない」不安な状況に放り込まれた場合、とりあえず「わかりやすく断言する」「心配してくれる」「悪者をはっきり教えてくれる」ひとたちに寄ってしまう心理はわからぬでもないんですが。

でもなぁ。東京から沖縄に避難するひとは、現実の福島とは、遠いなぁ、と思ってしまいます。
by Jem (2011-10-30 08:51) 

pooh

> Jemさん

いやまぁ、ぼくらのきくまこへの信頼の多くの部分は、その人間を知っているから、と云うことに拠っているので、逆にぼくらなんかは彼のことばに対してはより厳しい基準を設定して適不適を判断する、と云うスタンスが逆に重要になってくるのではないか、みたいにも思いますけどね。
by pooh (2011-10-30 09:02) 

北風Mk-2

>Poohさん

>ここのところが微妙で。と云うのは、「誰がどう思おうが」「厳然として」社会に存在するもの、と云うのがあるかどうか、ってお話ですね。社会、と云うものをどう考えるか、と云う部分で。
社会を所与のもの、個人にはどうにもできないもの、とぼくらは考えがちだし、じっさい自分ひとりでなにかそこに変化をもたらせるかと云うと難しいのですが、ほんとうにそうか。

「混同されやすい」ところなので、区別しなければいけないところはきっちり区別しないといけないのは確かです。
もしかしたら一般論でいってはいけない部分かもしれない。

「個人で変えることができるもの」
「制度などが変えられれば変わるもの」
「時代が変わっても変わらない原則」
とかレイヤ―のようなものがある。
例えば、「ニセ科学」側も、「ニセ科学」を批判する側も、このいろいろなレイヤ―の話をする。
で、レイヤ―の混同とか、「個人の希望にある種したがって変わるような錯覚」とかが絡むことがある。

【と云うのは、「誰がどう思おうが」「厳然として」社会に存在するもの、と云うのがあるかどうか、ってお話ですね。社会、と云うものをどう考えるか、と云う部分で。】

ここを「レイヤー」にまたがって話をすると、ある種の「混同のもと」になるし、仮定を置いて話さないと「「混同のもと」になる。
例えば、「自然科学に基づいたちゃんとした理論(技術)として、社会(この世)に存在する」ためには、「誰がどう思おうが」、しかるべく手続きを経ないといけないですよね。しかし、こうしたことも、「人が構成している社会」での話ですから、「世界中の人の意識が変われば変わる」といえる。
(古くはなるけど、アシモフの科学エッセイとかにも「反科学」の話はありますね)
でも、通常の場合、「ここは変えない」というもとで話をしていますし、「人が変えることができる」と言ってしまうとそれはそれで「混同」のもとにもなりますよね。

また、ちょっとズレるのかもしれないけど、「社会」と「技術」と」「人の願望」とをみた場合、地図に例えると、何か地図はできていて「道路」も走っているのですが、「道路からはずれるとよく分からない場所(未開地とか)」が残っているというような感はあります。
場合によっては、道路自体をどうみるかというのもあるかもしれない。(「絶対に落ちない飛行機」はありえない。)
by 北風Mk-2 (2011-10-30 10:31) 

北風Mk-2

勉強のために、記事を参考にさせて頂いているところですが、
レジデント初期研修用資料 
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/
記事の一例
「価値の判断は面倒くさい」http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1193

>都度、ではなくて、常識として基本的な立ち位置があればいいのでは、みたいなのがぼくの考え方です。

おおまかな「必要条件」はあげられるかもしれないのですが、ここは少し踏み込もうとすると難しいですね。
「科学」じゃなくて、一般的な「犯罪」とかを考えてみますと、「常識として基本的な立ち位置がある」が不十分な犯人は?というと、ほとんどはそこまでおかしいわけじゃない。
「ニセ科学」とかも、「情報学ブログ」さんにも書いたことがあるんですが、ホメにはまっていても「骨折すれば」医者にいくでしょう。
「常識として基本的な立ち位置がある」とみなせるが、抜けがあったり、生じたりすることがある。
多くの「犯罪」が、「様々な原因から「理性」でおさえこめない」ところから生じるのと同様なところから、「科学と安心」の問題(「ニセ科学」とか「ゼロリスク」とか)も生じる。
「飲酒運転」なんか「常識として基本的な立ち位置があればいい」とも思えるのですが、「酒を飲む都度」意識させるように動きがあってようやく減る(無くなるとか無くせるとかは言わないし言えない)

「常識とする範囲」として、私たちが目にしている「末端部」じゃなくて「奥行」はいりそうだ、というのはコメントで書いたけど、「都度」というか「抜け」をどうするかは分からない。

ここらは、問題設定のところから考えないといけないのでしょう。
「想定するゴール」「設定した目標がクリアできたとして何が実現できるのか。何が担保されるのか」とか。
by 北風Mk-2 (2011-10-30 11:18) 

pooh

> 北風Mk-2さん

なんか微妙に、ぼくのほうでおっしゃる話を把握できているのか、こころもとない気持ちになりつつあるんですが。

> 「ニセ科学」側も、「ニセ科学」を批判する側も、このいろいろなレイヤ―の話をする。

だから、けっこうぼくなんかは「その議論がどのレイヤーに属するか」と云うところに執着するような語り方を選ぶわけです。

> 「常識として基本的な立ち位置がある」が不十分な犯人は?というと、ほとんどはそこまでおかしいわけじゃない。

このへん語り方が不充分なのかもしれないんですが、ぼくが「常識」と云う言葉を使うときは、それは常に疑われ、リファインされることを前提とするものだと云うのを前提にしています。

> ここらは、問題設定のところから考えないといけないのでしょう。

結局、「ニセ科学」と云うのも問題設定のための用語ですし。
by pooh (2011-10-30 20:15) 

北風Mk-2

>Poohさん

先のコメントについて、私の方で十分理解できずにズレがあるのかな、というところで長文になっている部分はあると思います、すいません。

>結局、「ニセ科学」と云うのも問題設定のための用語ですし。

そこからスタートすると、

「ニセ科学」について
A.「ニセブランドを減らす」
 apjさんが以前「ニセブランド」での例えをされておられましたのでそこからとりましたが。
「ニセ科学を減らす」ためにどうするか、というところで、形而上的なものではない「ニセ科学とはどういうものか」ということが必要になるし、とりしまるにはどうするかとか「法的」なものが必要になる。
B.「ニセ科学」にはまる人を減らす
 kikulogや他のブログやここで情報などが発信されていたりする。
「最終的に想定するゴールとして、何を目指すか(はまった人を説得するのではなく、まだはまっていない人がはまる事態を減らす)」などの議論も当然されておられるし、どういうことが必要か、というところから「科学の知識」「常識として基本的な立ち位置がある」などが「必要条件」がでてくる。

とりあえずここまでは先のコメントの前提で、で、ここから少し踏み込もうとすると難しいとして

・「こうすれば効果的」ということをいおうとすると、「こうすれば何が実現できる、何が担保できる」ということを示す必要がある
・「必要条件にあげたこと」が本当に効果があるのであれば、それでなお、少数ではなく「ニセ科学にははまる人がいる」のであれば、必要条件が効果的に機能していない。はまった人をみていけば「効果的に機能していないのは何故か」が分かるのでは? 
というところから、先のコメントに。

>ぼくが「常識」と云う言葉を使うときは、それは常に疑われ、リファインされることを前提とするものだと云うのを前提にしています。

このコメントの意味あいは私には分かりません。
1.「常識は常に疑われ、リファインされることを前提とするもの」という定義
なのか
2.「常識は常に疑われ、リファインされるべきもの」という「あるべき姿」なのか
3.「常識は常に疑われ、リファインされている」という現状認識なのか

私は、実態として「常識は常に疑われ、リファインされてはいないケースが多くあり」(科学者や学生さんや仕事などで勉強している人などはされていると思いますけど)、それが「ニセ科学にはまる」ケースの一つの要因ではないかと思います。
Poohさんが3.なら、私との認識にズレがあるので、議論をするならズレを埋める必要がありますし、1.2.であれば、「実態とのズレ」をどうするか、というのが少し踏み込むために設定される問題の一つになると思います。
by 北風Mk-2 (2011-10-31 22:58) 

pooh

> 北風Mk-2さん

あんまり、考えていることに齟齬はないと思うのですが。

> Poohさんが3.なら、私との認識にズレがあるので、議論をするならズレを埋める必要がありますし、1.2.であれば、「実態とのズレ」をどうするか、というのが少し踏み込むために設定される問題の一つになると思います。

えぇと、3よりの2、ですね。
で、おっしゃるとおりの問題設定になると思います。

> 実態として「常識は常に疑われ、リファインされてはいないケースが多くあり」

ここがまぁ問題ではあるわけで、でもまぁ解決方法は模索中、考え中、みたいな感じです。
by pooh (2011-11-01 06:04) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん、poohさん。

>ぼくが「常識」と云う言葉を使うときは、それは常に疑われ、リファインされることを前提とするものだと云うのを前提にしています。

「疑ってリファイン」というと少しきつすぎるかな、本来はしょっちゅう「確認」をするべきしろものね。JISなんてのに関係していると5年ごとに「確認」なんて作業が本来はあるのね。「現在のままで良いですか、変更しますか、それとも廃止しますか?」なんてね。このあたり業界団体がしっかりしていると、意味の無くなったのは廃止されるし、変更が必要になったら変更することになるのね(けっこう面倒な作業であまり巻き込まれたくないけど、良く巻き込まれたりする)。ところが、業界団体が貧弱だとスゴク形式的な確認になって、例えば私の専門の分析方法のJISなんかだと、もはやそんな装置は誰も使っていないだろうなんて古い方法のJISが残ったりするのね。

或る意味「確認」作業をきちんとやると存在意義は高まるのね、別に変更しなくても、「確かにこの規格はあって、業界ではきちんと使っているね」ということの再認識だからね。

20年くらい前にチームで開発していた分析法(JISにもなっている)の詳細な問い合わせが最近あったりして、「ああ、あの頃に開発した方法はまだ現場では使われているんだ」なんて変に嬉しかったりするのね(笑)。といっても主開発者は私の先輩でもう一線を引いていて、私も開発分野は既に変わっているから、昔の知識をかき集めてお答えしたりするので大変なんだけどね(笑)。

by 技術開発者 (2011-11-01 17:54) 

pooh

> 技術開発者さん

> 本来はしょっちゅう「確認」をするべきしろものね。

いやまぁ、受け入れる「市民」の側からするとリファイン、ですよ。

> 「確認」作業をきちんとやると存在意義は高まる

それはそうです。あるべきアップデートが行われる、と云うのが科学の存在意義のひとつですもんね。
で、通用しているうちは最新、ではあるわけです。もちろん。

> 「ああ、あの頃に開発した方法はまだ現場では使われているんだ」

最新であるうちは古びないし、誤りがあれば訂正される。そこが重要なんだと思います。
by pooh (2011-11-01 20:39) 

北風Mk-2

> 技術開発者さん
> 本来はしょっちゅう「確認」をするべきしろものね。

おっしゃるとおりだと思います。
ただ、これがなかなか容易ではないんですよね・・・。

>poohさん
>それはそうです。あるべきアップデートが行われる、と云うのが科学の存在意義のひとつですもんね。

言葉にすると一言なんですが「あるべきアップデート」というのが難しいのですよね。タイミングとか意義とか方向性とかのレベルでも。
(もっと、根本的に「どのようにアップデートされるべきか」でも)

>で、通用しているうちは最新、ではあるわけです。もちろん。

ここも微妙なところで、例えば、ある作業の手順書(教科書の方が分かりやすいか)なんかをイメージ頂けるといいのですが、ファイルにある最新版の手順書は、「最新版の手順書」で通用するんですが、「最新版の手順書」と実作業にズレがあったり作業内容に変更があるから「改訂」される。「最新の手順書」であるけれど古びている、ということはある。

技術開発者さんのコメントでいえば【例えば私の専門の分析方法のJISなんかだと、もはやそんな装置は誰も使っていないだろうなんて古い方法のJISが残ったりするのね。】 それは、JISのその分析方法としては「最新版」というしかない(通用する)のですが、それは「最新の手法」じゃなく、最新版なんだけど「手法としては古びている」ということあるのではないだろうかと。

だからこそ、本来はしょっちゅう「確認」をする【べき】しろものね。ということになり、それは「有効性」とか「信頼性」とかを維持する(高める)のに必要なことだと。
by 北風Mk-2 (2011-11-01 23:05) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「最新の手法」じゃなく、最新版なんだけど「手法としては古びている」

いや、もちろんそれはあるでしょう。
あんまり云ってることに違いはないつもりです。
by pooh (2011-11-02 06:09) 

北風Mk-2

>poohさん

もちろん承知されていると思うのですが、「新しい」ということが強調されすぎているような気がして書きました、すいません。

ちょっとズレるかもしれませんが、「それまで標準とされていたものが次世代の標準にアップデートされる速度」だけみれば、アップデートとか標準とかの意味合いはありますが、「ニセ科学」的なものの方が早いかもしれない。
「消費者に受け入れられている(通用しているうち)は最新」で、「消費者が離れれば」、別の「標準」にアップデートされる。

「最新の手法」が報告されてから、「最新の標準が「アップデート」されるまでに、確認や手続きがあって相応の時間がかかる」、ここのギャップというものも「科学」の信頼性とかの表れだと感じるので。
by 北風Mk-2 (2011-11-02 07:50) 

pooh

> 北風Mk-2さん

おっしゃることに同意します。

なんと云うか、きっちり手順を踏めば、相応の手間はかかるわけで。
その手順、と云うものの筋道が科学の生命線なので、そこの重要性をわかってもらえればいいなぁ、みたいに思います。
by pooh (2011-11-02 21:13) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。