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攻防のリング [よしなしごと]

locust0138さんの科学は疑似科学に勝てませんと云うエントリを読んだ。

私の科学(自然科学)に対する捉え方は次の通りです。

「科学はこの世界(自然現象)を説明するための手段(哲学)である。当然、唯一絶対ではないし、万能でもない。しかし、今のところ科学を上回る手段は存在しないので、科学を信用する」

この考え方は特におかしなものではないと思います。
科学をそのまま哲学とするかはともかくとして、このへんはぼくなんかも同様の考えかたをしている。で、自然科学はその性格上議論の共有可能な前提を準備することを可能とするので有用である、と云うのも、科学に一定の役割を認める理由。
面白いことに、疑似科学の提唱者はほぼ例外なく「万能」を売り文句にします。
まぁ「万能」を売りにしていない場合でも、例えば医療関連のニセ科学の場合は「副作用なし」とか、おおむね収支計算の帳尻の合わない「おトクな話」であることを主張の目玉にするケースは多い。
この「万能」という概念から何が言えるのでしょうか。私の解釈はこうです。

「疑似科学は人間の願望を満たすために産み出された手段である」
これもまぁこのことば単体では異論はないのだけれど、ちょっとひっかかる部分もある。そこのところ、locust0138さんの続く一節にも関係してくるのだけど。
科学は本来この世界を説明する手段であり、人間の夢を叶えることを目的とはしておりません(結果として科学は人間の夢を大いに叶えておりますが)。
まずそもそも科学が人間の夢を叶えることを目的とはしておりませんと云うのはどうかなぁ。それがだれの、どんな夢かはともかくとして、そもそも科学は「夢をかなえるための方法論」として生まれてきて、どうやったら本当に夢をかなえることができるのかと云うことを試行錯誤するなかである一定の信頼できる方法を手に入れてきた、と云うことなのではないかと思うのだけれど。
ところが、疑似科学提唱者・信奉者は、科学を「人間の夢を叶える魔法」と捉えているようです。魔法だから万能なのは当然です。
科学を「人間の夢を叶える魔法」と捉えているのは、意外とぼくら市井の人間(ぼくみたいにそこそこの期間ニセ科学の問題に言及している人間も含めて)には一般にみられる状況なのではないかなぁ(ここのところはクラークの三法則のみっつめにかかわるような話)。違いがあるとすれば、どうしてその魔法が実効性を持っているのか、その原理が共有可能かどうか、と云う部分で。

あと、魔法だから万能なのは当然だったりはしないだろう。神話だろうとファンタスィだろうと、一般に魔法は万能ではなくて、それ自体の根拠となる原理に縛られるものだから(そうでないと説得力が生まれない)。locust0138さんの比喩に乗れば、結局のところニセ科学が科学を装うのは、それが科学に準拠しているようにみせかけることで、魔法を発動させる原理を準備する、と云う営為なのだと思う。
人間はそうそう魔法を信じたりはしない。科学の発達していない時代でも、社会でも、人間の思考に訴求できる一定の合理性がない魔法が信じられたりはしない。ぼくは呪術、と云う用語を使って、ニセ科学を信じる心性に一定の内的な合理性があることについてここでわりとひんぱんに論じてきた(典型的なのはやっぱりこっちかなぁ。ニセ科学全般についての議論じゃないけど。今回、エントリのいくつかに改めて「呪術」と云うタグをつけて、こちらからご覧いただけるようにしてみた)。要はニセ科学と云うのはメカニズム的な面で人間の信じやすいものを提示して、信じる根拠に「これは科学に基づいているから」と云うエクスキューズを提示することで信じさせるもの、と云うのがぼくの理解(なのでニセ科学の信奉者なんかと対話しているときに「科学が万能だって云うんですか」的な反駁が来れば、その瞬間に信奉者にとってもじつはそれは呪術だったことがあきらかになる、って次第)。

てなわけで、以下にも多少の異論がある。
また、科学は根本的に人間の気持ちを考慮しませんので、どうしても「冷たく」見えてしまうことが避けられません。人間の感情と自然現象は全く無関係ですから。
一方の疑似科学は、人間の夢を叶えることのみを目的としていますので、非常に「優しく」見えます。
「優しく」見えるだけのうまい話に、人間はそうそう乗ったりはしない。それが人間の内的な合理性に照らして信じることができると云う印象を与えること(呪術として成立していること)、そしてその合理性を担保する呪術原理を「科学を装う」ことで調達していること、がそろって、まずはニセ科学の問題が生じるのだと思っている。で、やはりその前提としては、夢をかなえてくれるものとしての科学、と云う認識が背景にはあるのだろうと思う。まぁかなえられない夢をかなえられる、とは科学は云えないので(じっさいにかなえられる方法を探して発達してきたわけだから)「冷たく」見えてしまうと云うのはあるのだろうけれど。
「救いを求める一般市民に科学はなにもしてくれない」
これは「科学はなにかしてくれるもの」と云う認識が念頭にないとでてこないクレームだよね。まぁ科学になにかしてもらってる、と云う意識が日常あるか、と云うとあんまりそうでもないよね、と云うことについてはこっちとそれに続くこっちで書いた。
誰か何とかして下さい。
そうそうかんたんに何とかできるもんじゃないすよ。なにせ相手は人間の基本仕様ですから。
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pooh

http://b.hatena.ne.jp/Outfielder/20120820#bookmark-107090502

ニセ科学に対する批判を「そう云うもの」にしたいひとが一定数いるのは知ってるけどさあ。もうちょっとじっさいにどんな角度から行われているのかを踏まえてものを云ってみようぜ。もしあんたの口が他人に見当はずれのいちゃもんをつける以外の用途にも使えるんだとしたら。
by pooh (2012-08-20 21:55) 

locust0138

ご意見ありがとうございます。この場を借りて補足させて下さい。

○科学の目的について
確かにご指摘のように、「人間の夢を叶えることを目的とはしておりません」というのは言い過ぎでした。疑似科学が人間の願望に極めて忠実であることと対比するための表現でしたが、不正確になってしまいました。表現を改めます。難しそうですが。

○魔法だから万能なのは当然か
こちらでも挙げられているクラークの三法則も念頭に置いた上で、「魔法」という表現を用いました。これについては、「超越的な手法」という意味を持たせておりますので、誤りだとは考えません。

○人間は魔法を信じるか
「水からの伝言」や「ホメオパシー」は完全に魔法ですよね。私は人間は「科学の皮を被った魔法」ならば簡単に信じると思います。「一定の合理性」は、疑似科学詐欺師ならば口先だけで簡単に捏造できます。また、信奉者は一度信じてしまえば、自分の判断が間違っていたとは認めたくないので、合理性を自分の心の中で無理矢理こじつけます。

○疑似科学の優しさ
「優しさ」は入り口としては十分です。病気や原発事故の影響に悩む人にとっては、「溺れる者は藁をもつかむ」となります。合理性よりは、「自分の悩みを解決してくれる。自分を救ってくれる」という「優しさ」が大きいと思います。

あまり詳しくは言えませんが、私は農業に関わる仕事をしており、ニセ科学と付き合うことがあります。農業の世界はEMに代表されるように疑似科学が根強い影響力を持っています。これとどう付き合うかで日々頭を抱えております。
まずいことに、農業は「論より証拠」の最たる世界で、「科学的にデタラメでも結果が良ければ全て良し」とされる面があるので、面倒なところです。

長文失礼致しました。議論ができて幸いです。
by locust0138 (2012-08-20 22:27) 

pooh

> locust0138さん

いらっしゃいませ。

> 「超越的な手法」という意味を持たせておりますので、誤りだとは考えません。

いやまぁぼくも「誤りだ」と云っているわけではないです。用語としてぼく(と、ぼくと議論してきてくれたひとたち)が「呪術」を用いてきた、というだけで。ただ、これだと文化人類学的な知見を援用しやすい、と云うのもあったりします。

> 私は人間は「科学の皮を被った魔法」ならば簡単に信じると思います。

そうすると、なぜ「科学の皮を被せる」必要があるのか、そこにどう云う効果が期待できるのか、と云う話にもなるかと。

> 「一定の合理性」は、疑似科学詐欺師ならば口先だけで簡単に捏造できます。

簡単に、とはあまり思わないんですよ。やっぱりそこには技巧があって。フックとされるのはなにか。

> 「優しさ」は入り口としては十分です。

まぁそうかもしれません。ただ、信奉、と云うところまで導くには、たんに「自分に都合がいい」と云うだけでは足りない場合が多いのではないか、と。やっぱり原則「そうそううまい話はない」ってのはたいていのひとはそこそこ理解されてるでしょうし。

> 農業は「論より証拠」の最たる世界

これはあるんだと思います(医療についても似た状況にあるんだろう、と理解しています)。難しいところで、こう云う場合にはどうやってその「証拠」を疑うか、と云う話になってくるんでしょうね。
by pooh (2012-08-20 22:45) 

技術開発者

こんにちは、poohさん、locust0138さん。

>まずいことに、農業は「論より証拠」の最たる世界で、「科学的にデタラメでも結果が良ければ全て良し」とされる面があるので、面倒なところです。

実の所、人間が「合理性」を尊重し始める動機も「論より証拠」なんですね。洞窟で蓄えを消費しながら春を待っていた原始人の群の中で、「今年は春が早く来るぞ」というデタラメが言いだされる。乏しい蓄えをわずかずつ消費して春を待っている原始人にとって、とても嬉しく優しい言葉だったハズです。でもって、「春が早く来るのだから」と蓄えを大目に消費し、そして尽きる頃に春ではなく春先の寒波がくる。飢えて凍え、時には死んだ仲間の肉を生で食いながら、原始人は考える訳ですよ「きちんと考えて冬越しをしよう」ってね。

絵空事の様にこの話を書いているけど、私は実際に起きたことでは無いかと思っている、人類がアフリカからヨーロッパやアジアに拡散する過程で、あちこちで、何度も何度もね。そして、苦しい現実と向き合うたびに、冬の長さを数え蓄えを数えて予測をたてるという「合理性」の文化が強化される。そして、願望や欲求としての「春が早く来る」を「そんなことを信じるのはよそうよ、また死んだ仲間の肉を生で囓りながら、寒波を生きのびたいのか」と否定する事ができるようになってきたのだろうと思うのです。

なんていうかな、現実の世界が優しい願望充足の言葉に従うなら「合理性」なんてものは必要ないのですよ。現実の世界が願望通りにはならないから、その現実世界で生きのびるために「合理性」が必要に成ってくるわけですね。


by 技術開発者 (2012-08-21 10:19) 

pooh

> 技術開発者さん

このへん用語が混乱しがちなのですが、ぼくはご存じのとおり呪術の原理を「人間の内的な合理性」みたいに捉えています。なのでおっしゃる合理性は「外部化された合理性」ですかね。ほぼ科学と同義で、でもってこの場合は学問ともほぼ同義になるのですけど。

> 現実の世界が優しい願望充足の言葉に従うなら「合理性」なんてものは必要ない

ここのところはやっぱり、自分たちがいま現在「積み上げられた合理性」のうえで暮らしている、と云うことがあまり意識されなくなっている、と云うこともあって、イメージしづらくなってるのかもしれません。
本文中でもリンクしましたが、このへんでの議論に出てきた部分ですね。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-29
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-31
by pooh (2012-08-21 12:48) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>このへん用語が混乱しがちなのですが、ぼくはご存じのとおり呪術の原理を「人間の内的な合理性」みたいに捉えています。なのでおっしゃる合理性は「外部化された合理性」ですかね。ほぼ科学と同義で、でもってこの場合は学問ともほぼ同義になるのですけど。

私は「人間の基本仕様」という話にたいていは、「仕様に即した使用マニアルとしての文化」みたいな話を付けるんですね。自動車に制動距離という無くする事のできない仕様があるから、運転マニアルの方に「見通しが悪ければスピードを落として走る」みたいな記載がある。記載が有るだけじゃなくて、自動車学校の教習では「見通しが悪いんだから、スピードを落とせ」と教官に叱られたりもする訳だけどね。

なんていうかな、私は人類の知性というのを個の内部に限定せずに、文化みたいな「集団知」としても保存したり発展させて来たように考えているのね。もちろん、そういう文化は子供に対する教育みたいな形で個の内部へも影響は及ぼすんだけどね。原始人の持っている「合理性」と現代の我々が持っている「合理性」は相当に違いそうだという思いがある訳です。ただ、その違いが個の内部の違いとして相当に大きいかというとそうでもなくて、外部的に蓄積された「合理性を求める文化」によって大きな違いを生じている様に思える訳です。

そういう意味で「個の外部に蓄積された合理性」というのは、単に学問に留まらない、かなり大きなものを指している様に考えています。そして、その外部のものも含めて「人類の知性」なんだろうと思うんですね。

>自分たちがいま現在「積み上げられた合理性」のうえで暮らしている、と云うことがあまり意識されなくなっている

なんていうかな、人類は「楽に生きたくて」知性を発達させる訳だけど、或る程度楽に生きられる様になると、その結果を作り上げている知性とか、その知性を発達させるのに必要だった「痛い結果」が見えなくなるのだろうと思うんですね。ただね、人類の歴史という奴を俯瞰して見ると、そんなのは実は何度も何度も繰り返されてきた様にも思えるんです。なんていうか、苦労して築き上げた文化を「たいしたこと無い」と気楽に壊しては「痛い」と感じてまた築き上げようとするみたいな繰り返しをしながら、少しずつその文化は強固に成っていく感じかな。

by 技術開発者 (2012-08-21 16:34) 

pooh

> 技術開発者さん

> 苦労して築き上げた文化を「たいしたこと無い」と気楽に壊しては「痛い」と感じてまた築き上げようとするみたいな繰り返しをしながら、少しずつその文化は強固に成っていく

何度も車輪は再発明されてきたんだろうな、みたいには思うんですよ。いま使っている車輪がどうしてこう云う形状で、こう云う素材で、こう云う工程でつくられているのか、みたいなのは、使うだけではわからない部分もあって。そうすると「ぼくの考えた超高性能車輪」と区別がつかなくなる。
でもそれは単純に損、だったりして(その損が致命的なものだったりして)。そう云った話だったりもするのかな、みたいに思ったりもします。
by pooh (2012-08-21 18:22) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>でもそれは単純に損、だったりして(その損が致命的なものだったりして)。そう云った話だったりもするのかな、みたいに思ったりもします。

私なりの「知性観」というか「文化観」を書いて見ると、「知性」というのは「知識」と「姿勢」からなるように思うわけですね。情報とその情報の処理能力という言い方でも良いかも知れないわけです。ニセ科学問題というのを考えるときに、「間違った知識(情報)の混入」という部分だけ考えると、それは「損」をもたらしはするけど「致命的」な状態には発展しないだろうと思うのね。そんなことはよくある事だからね。問題は、そういう間違った知識の混入を排除しようとする姿勢の欠落に発展する事の問題ね。これは影響が大きくて、いろんな間違った知識に振り回される状況をもたらすから、損失も大きくて、場合によると致命的な損になりかねない。

たとえば、locust0138さんが言われる農業系のニセ科学にしても、単にEMの万能性という間違った知識が入り込むという問題としてなら、どこかで、「対して効かないな」で修正されて終りなんです。ただ、なんていうか、一つを信じ込むことで「万能な資材がどこかにはある」みたいな姿勢になってしまうとその損失はとても大きいんですね。

「そんなことあるもんか」と思われるかも知れないんだけど、悪徳商法で内職商法の被害者の相談に乗っていると、そうなっちゃった人に出くわすんです。つまり、今引っかかっている会社の「家でできる簡単なお仕事で高収入」 は嘘と理解して契約しなくても、「世の中にはそんなお仕事があるに違いない」という意識がぬぐい去れなくて、次々と同種の会社に引っかかり掛けるというか引っかかるような人ができてしまうんですね。

私はニセ科学問題では、そういう姿勢の部分の影響を懸念しています。

by 技術開発者 (2012-08-22 10:54) 

pooh

> 技術開発者さん

おっしゃる「姿勢」のことを、ぼくは「方法」とか「理解」とか云って来たりしてるのかな、とか思います。

結果的に知識のあるなしに帰結させてしまうと、おっしゃるように根本的な部分で判断に欠陥を抱えてしまうことになりかねない。たとえば個別の知識をどれだけ集めてきても、基本的に「科学は断片的なトリビアの集合体ではない」と云う理解に基づく姿勢がないと、そこにいくらでもニセ科学が入り込む余地が生じるんですよね。

# ついでに云うと、この部分を(おそらくは故意に)混同させる論法を駆使して「欠如モデル批判」をおこなうのが、一部STS研究者を名乗る方々の用いる技巧のひとつです。

でまぁ、そのへんの「姿勢」について基本的に踏まえていれば、専門的な知識がなくともそうそうニセ科学にひっかかるもんでもないよ、と云うのがもうずっと長い間のぼくの主張だったりもするわけなんですけどね。必要な姿勢を理解しておくのはそうそう難しいことじゃないよ、むしろそれは常識の(ごくわずかな)延長線上にあるものなんだよ、みたいな。
by pooh (2012-08-22 12:41) 

北風Mk-2

こんばんは、 pooh さま。

>また、科学は根本的に人間の気持ちを考慮しませんので、どうしても「冷たく」見えてしまうことが避けられません。

ここに関連して私が少しひっかかる点がありまして。

上記で「冷たい」のは科学もさりながら「自然(この世界とか言ってもいいでしょうが)」なわけで。
>>人間の感情と自然現象は全く無関係ですから。という部分。

だから、人に好ましい結果をもたらすようにするには、人の意志をもって、自然現象をコントロールしたり捻じ曲げたりするしかない。

ここで、
「天然素材」と「人口的な化学物質」とか「遺伝子操作」とか、「人の意志をもって自然を操作すること」が好ましくないものと思われる傾向がある一方で、そうした傾向がある方々が、(より強力に自然を捻じ曲げることになる) 「超越的な手法」に親和的であることが少なくとも個人的には結構な頻度で見られるのは何なんだろう? と。

自然をベースにおいた場合に、どういうものが好ましいとしているのかなあ、と。
by 北風Mk-2 (2012-08-22 20:15) 

pooh

> 北風Mk-2さん

おっしゃる感じ、よくわかります。
科学はひとの試行錯誤の集積であって。ただ、その有益性の根源に個々の人間を離れて外部化する、と云う方法があったりするので、なにかしら「自分から遠いもの」って云う感覚が生じるのかもしれません。そしてそのまま主語が大きくなっていく、みたいな。

以前こう云うエントリを書いています。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2010-11-20-1
by pooh (2012-08-22 21:33) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん、 pooh さん。

>「天然素材」と「人口的な化学物質」とか「遺伝子操作」とか、「人の意志をもって自然を操作すること」が好ましくないものと思われる傾向がある一方で、そうした傾向がある方々が、(より強力に自然を捻じ曲げることになる) 「超越的な手法」に親和的であることが少なくとも個人的には結構な頻度で見られるのは何なんだろう? と。

少し変な話をしてしまうけど、人の内部における「自然」と「人工」には一種の逆転があると思うんです。私は成長期の多感な時に公害問題に直面して悩んだ口だけどね。なんていうかな、「楽して良い結果を沢山得たい」というのは人間の自然な欲求なんですね。工場で物を作るのはおいしい結果が得られるけど、排水とかをきちんと処理するのはしんどいだけで何もおいしい結果を生み出さない訳でできればそのまま垂れ流してしまいたい。こっちの方が自然な人間のふるまいなんです。でも、「人工」の「冷たい知性」というのが、「そんなことしたら、周りで公害が起きる」と止める訳ですよ(笑)。

なんていうかな、外形的な意味では「自然を壊す」みたいな行動の方が人間の内面の自然な欲求に従っていて、「自然を守る」みたいな行動は人間の内面の「人工的な欲求」に従っている。この逆転が整理できていないことで、おっしゃっている様な話になるのかも知れませんね。

by 技術開発者 (2012-08-23 16:10) 

pooh

> 技術開発者さん

このへん、感覚的な話になってくるんですけど。
「人工」と云うのを「ひとのたくみ」と捉えず、工学=科学の一部として外部化されたものとして把握して、自分自身からの距離が「自然」と同程度のものとしてみなす感覚、みたいなのがあるのじゃないですかね。
で、自分がどちらにコミットするかを選択できる、みたいな。いやこれ、じっさいに自分の位置がどこなのか、と云う部分に錯誤があるんだと思うんですけど。
by pooh (2012-08-23 22:07) 

北風Mk-2

Pooh さま、技術開発者 さま

コメントありがとうございます。

>なんていうかな、外形的な意味では「自然を壊す」みたいな行動の方が人間の内面の自然な欲求に従っていて、「自然を守る」みたいな行動は人間の内面の「人工的な欲求」に従っている。この逆転が整理できていないことで、おっしゃっている様な話になるのかも知れませんね。

自然は人間に優しくない。
だから、人に好ましい結果をもたらすようにするには、人の意志をもって、自然現象をコントロールしたり捻じ曲げたりするしかない。
その結果、「人の営み」も「自然」には優しくない。

ややこしくて読みにくい文で申し訳ないですが、「自然を守る」みたいな行動は、【「人の意志をもって、自然現象をコントロールしたり捻じ曲げたりする程度を、調整する」】になる。
「結局のところ、自然をコントロールする程度が違うだけ」としてしまえば、逆転ともいえないですし、「人にとっての直接的なメリットを制限する」点をとらえれば、逆転にもなるのでしょう。

逆転という点については、なんというか、「人が楽に生きるには自然をコントロールしている」のコントロールと言うと語弊があるところにあるのかも。
例えば、物理法則や化学的性質(一定圧力下での水の沸点など)を変えることはできない、物理法則や化学的性質を利用して有益な物を作ることはできるが、【コントロールできる範囲は大きく制限されている。】

「制限されている」ところについてより深く知っているのは「専門家」であって、あまり知らない人の方が「これくらいできるだろう」と思ってしまうような「逆転」が根底にあるのでしょうね。
by 北風Mk-2 (2012-08-23 22:28) 

pooh

> 北風Mk-2さん

どうもこうやって議論を共有できるかたちでの対話で理解を進めようとすると、どうしてもどこかすんなりと筋の通らないように見える部分が残る。
で、要はそれは、そう云う性質の話なんだ、と云うことなんだろうと思います。
by pooh (2012-08-24 06:29) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん、 pooh さん。

>自然は人間に優しくない。

まさにその通りなんですね。ただ、ほとんどの人がこの言葉を聞いたときに思い浮かべるのは外部的な事象だろうと思います。洪水が人間の生活を破壊する、とか日照りが続いて食い物が無くなるとかですね。

そっちを思い浮かべるのが普通だけど、それをわざわざ人間の内面について考えてみるのね。人間が持つ「天然自然な欲求」は果たして人間に優しいかというと実は優しくない面があるのね。単純に言うと「動かずに美味しい物を腹一杯食いたい」なんてのは自然な欲求だけど、結果として生活習慣病で生命が失われたりしますからね。

>人の意志をもって、自然現象をコントロールしたり捻じ曲げたりするしかない。

洪水に対抗するために堤防を築いたり、日照りに備えてため池を掘ったりするのと同じように、人の内面の欲求に関してもコントロールは行われるのね。健康診断で「肥満、高血圧、高血糖」なんて結果が出て、「これはいかん」と、一駅や二駅手前で降りて歩いて通勤したり、晩酌を控え、低脂肪の野菜の多い食事にしたりなんてね。

こういう形で、北風Mk-2さんの言われる事は、実は人間が自分の自然な欲求を人為的(人工的)にコントロールするという部分でも成り立っている訳です。そういう意味では逆転じゃない。

ただ多くの人は、「よく歩き、低カロリーの食事をする」方を「自然な生活」と思い「輸送機関ばかり使って歩かず、高カロリーの食事をする」方を「人工的な生活」と思うよね。この部分に一種の逆転がある訳です。そのように思うのもけっして間違いでは無いんだけど、それは本来人間が「そういう生活がしたい」と望むからそうなっていたんではなくて、厳しい自然環境の中で「欲求に反して」そうなっていたということね。

by 技術開発者 (2012-08-24 09:39) 

pooh

> 技術開発者さん

「自然」と「人工」の対立ではなくて、じっさいには「自然に属する人間」と「人工に属する人間」が対立しているんですよね。で、この構図の中で、なにが自然でなにが人工なのか、と云うことの両方に錯誤(と云うかゆがんだ理解)があるからよじれちゃう、みたいな感じなんでしょうかね。
by pooh (2012-08-24 18:46) 

北風mk-2

pooh さま

横レス失礼致します。
以下のような疑問に感じている点がありまして、「属する」の条件についてご面倒をおかけいたしますがどういうものか補足願えないでしょうか?

人の「対立」について、例えば、都会人(科学について多少の知識はあるが、自然の厳しさや恵みの体験に乏しい)と奥地に暮らす人々(科学にうといが自然の体験豊富)との「対立」なら、属するも含めてわかりやすいです。
しかし、ニセ科学やらホメやら自然出産やらでの「対立」する、自然に属する人々、は、現代日本に住んでいて、私が関わった限り、自然の厳しさや恵みの体験が豊富というわけでもない方も多い。

poohさまの想定された「自然に属する」方は上記ではないかもしれませんし、あるいは上手い切り口があるのかとも思いますので。
by 北風mk-2 (2012-08-25 00:26) 

pooh

> 北風mk-2さん

ここのコメント欄の対話に、横レス、ってのはないですよ。個人間で閉じた対話はご遠慮ください、がここの唯一のルールなので。

> 「属する」の条件

いや、この対立軸って、当人たち(ここでは信奉者、かな)の認識のなかにしかないロジックなんですよ。でもって、どうしてそんなものが意識上で生じるんだろう、っておはなしです。
by pooh (2012-08-25 06:08) 

北風Mk-2

>> 「属する」の条件
>いや、この対立軸って、当人たち(ここでは信奉者、かな)の認識のなかにしかないロジックなんですよ。でもって、どうしてそんなものが意識上で生じるんだろう、っておはなしです。

ありがとうございます。
自然の厳しさや恵みを体験している故に「自然の信奉者になる」わけでもないようなので、どうして~となりますよね。

>>どうもこうやって議論を共有できるかたちでの対話で理解を進めようとすると、どうしてもどこかすんなりと筋の通らないように見える部分が残る。

あえて言うなら、科学にもうとい、自然にもうとい、なら、どちらにも同じように接してもよさそうなのに。


by 北風Mk-2 (2012-08-25 08:30) 

pooh

> 北風Mk-2さん

いわゆる「ニセ科学批判批判」の主張のひとつに、個人を超えて共有される正しいものとしての科学に対する疎外、みたいなのがあったりしましたよね。で、これは科学のせいではなくて、科学をそのようなものとして捉えることから生じる誤解なんですが(とか云うときっと一部のSTS研究者からは「欠如モデル」のレッテルが飛んでくるんでしょうけれど)、内的な状況としてありうるものでもあって。

科学は自分と対立している、科学は自然と対立するものだ、だから自分は科学ではなく自然の側に立つ。…みたいに書いてしまうとなんだか馬鹿馬鹿しいようにも見えますが、人間のなかでそれが内的に整合したものとして理解される、と云うこともまたあるんだろう、みたいに思います。

> 科学にもうとい、自然にもうとい

自然を理解するメソッドとしては科学しかないわけじゃなくて(とりあえず経験的・実績的に高い性能が認められているメソッドではありますが)。じゃあほかのメソッドを用いて自然に対する深い理解を得ているのかと云うと、あまりそう云うのも見かけない。ってえか深い理解なんかを得ていたら、科学を装ったりはするはずないわけなんですけどね。
by pooh (2012-08-25 09:35) 

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