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構造主義言語学による「お水さま」論考序説 [余談]

「水からの伝言」は、美しい言葉が美しい水の結晶(=氷)を生み出すという内容だ。
だから実際は、物理学的側面=水が結晶する原理だけじゃなくて、言語学的側面=水に影響を及ぼす美しい言葉とは何か、という角度での検証が必要になる。

ここで実験に使われるのは書き言葉だが、「水からの伝言」の趣旨は「美しい言葉を書こう」と云うことに限定されるものではないので(美しい言葉を話そう、と云う意味も含まれる)、ここでは「ありがとう」をソシュールの云うシニフィアン(表現)として捉える。ソシュールの定義では、シニフィアンに「シニフィエ(意味)」が結びつくことで記号としての言葉(シーニュ)が形成される。

さて、このひとつひとつの言葉に結びついている、水の結晶に及ぼしうる道徳的能力、言い換えれば「美しさ」の度合いを、シニフィアンに結びついてシーニュを形成するもうひとつの要素として仮にみにふぃえと名づける。ソシュールの用語はフランス語由来であるため本来は同様にフランス語をベースに用語を命名すべきかもしれないが、このみにふぃえの力は日本語でとりわけ強いという主張を「水からの伝言」が行っている、と云う理解のもとに、水によって検証されるものとして日本語の「みず」から命名する。
美しい結晶を作る言葉は道徳的に正しいとされることから、みにふぃえは「その言葉の道徳的強度」というようなものを示す。また、水によって計測され、物理実験によって証明可能なことから、物理学的な性格を持つものであると考えられる。みにふぃえは「水を美しく結晶させる」または「醜く結晶させる」と云う性格を持つため、言葉はそれぞれプラスとマイナスのみにふぃえを持ち、その高低が計測可能だと推測できる。
みにふぃえは、シニフィエと比較して、シニフィアンとの関連において次のような相違を持つ。

  • 恣意性を持たない
    • シニフィアンとシニフィエの間の結びつきに必然性はなく、恣意的なものとされる。これが言語の歴史のなかで言葉の意味が変化していく理由のひとつだ。しかし、これはあくまで人間の歴史に過ぎない。水はたかだか人間の短い歴史程度の時間では当然ながらその物理的性質を変化させてはいないので、同じシニフィアンによって受ける影響もまた変化していないと考えられる。従って、シニフィアンとみにふぃえの結びつきは絶対であり、変化することはない。
  • 共時性を持たない
    • 上記の恣意性の原則から、シニフィアンとシニフィエの結びつきは、その言葉が使われ、使い方が共有される、ある特定の時期のみのものとして取り扱われる。しかし、当然ながら水が結晶する原理は時代によって変化したりはしない。特定の時代にその言葉のシニフィアンがどのようなシニフィエと結びついているかは問題にされない(古語において「ありがたし」は「信じらんねー」とか「たまんねー」とか云う意味を持っていたこともあるが、当然ながら「ありがたし」の持っているみにふぃえは「ありがとう」に近く、その言葉を使っている人間の意図を超えて、美しい水の結晶を作る)。
  • 差異に準拠しない
    • ソシュールは言語を、差異によってのみ区別されることばの体系であるとする。それによって構築される言語規則(ラング)による規制と、発声言語(パロール)による生産が、言語に(それを使うもの同士で相互に通じる、という性格を持ったまま)変化していくダイナミズムを与える。しかし、これはもちろん人間の間での変化であって、水が結晶するという物理的な現象に影響することはない。ある言葉の持つみにふぃえは不変である。

ここで問題になるのは、

  1. ある新しい言葉が生まれたときにその言葉のみにふぃえはどうやって決まるのか
  2. ある言葉の使い方が変化した(シニフィアンとシニフィエの結びつきは、ラングの規制の範疇で随時変化しうる)ときに、人間の理解するその言葉の道徳的な意味合いとみにふぃえの乖離はどのように埋められるのか

などである。

前者については、「水が決める」と云うのが正しい解釈であろう。新語についてそのみにふぃえを計測する方法としては、紙に書いて瓶に貼って水の結晶の出来かたを見る、と云う以外にはない。美しい水の結晶ができない場合、その言葉は不道徳である、と云うことになる。

後者については、もちろん埋まらない。「貴様」と云う言葉はあるときには敬称、あるときには蔑称、場合によっては親愛の情を示すための呼び方であった。しかし、「貴様」と云う言葉の持つみにふぃえは一定である。つまり、この言葉を使って敬意を示したり、親愛の情を示したりすることが不道徳な行為である、と云うケースは当然に起こりうる。軍隊において戦友に「貴様は・・・」などと語りかけることが、いじめや南京大虐殺などの不道徳な行為の原因ともなりうるのである。
さらに、現在使われているほとんどの言葉のみにふぃえが、その言葉の歴史的経緯や使用される文脈にかかわらず、現時点でのその言葉の持つきわめて表層的な道徳的意味と合致している、と云う謎も存在する。この点は偶然とは思われず、今後の研究を待ちたいところだ。

なお、あらゆる文学作品の道徳価値は、その作品のなかで使用されている個々の言葉のみにふぃえを通算することによって計測可能だ。内容に関わらず、理論的に通算みにふぃえ値がプラスになる作品は道徳的だ。ただし、厳密にはその作品を水の入った瓶に貼り付けて結晶の具合を測定する必要がある。より研究を進めるためには、例えばそれぞれ異なった複数の芭蕉の句を瓶に貼り付け、結晶の結果によって「道徳的な句」と「不道徳な句」を分類して統計を取るなどのアプローチも考えられる。

今後については、「どうして幾何学的に整然とした形が無条件に美しいものであるのか」についての造形美術側からの論考や、「どうして愛を歌い上げるヘビーメタルより『魔笛』みたいな訳分からん曲を書くモーツァルトの方が絶対的に美しい結晶を造るのか」についての音楽評論の視点からの考察を待ちたいと思う。


#ごめんなさいごめんなさい。こんなの読んだからやってみたくなっただけですぅ。でも(まあ上記の文章はでたらめだけど)こうやってみると文系側からの理路整然とした反論もできるよなぁ、って気がしてきた。と云うか、まぁ出来るけど(阿呆臭くて)やらない、ってのが実際のところなんだろうけど。


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