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モラルを支えるもの [よしなしごと]

apjさんの教員個人評価基準がニセ科学あるいは詐欺を後押しする?と云うエントリを読んでいて、なんとなくこの辺でぼけっと考えていたことと重なるものを感じた。

技術開発者さんの持論にあるような、なんと云うかもともと特定の技能を持った人間にノーブレス・オブリージュのごとく背負わされていたものを、とりあえず金銭価値に換算する。明解になったような気がするけれど、それでこぼれ落ちるものはないのか。

かりに、途中で多少怪しいと感づいたとしても、産学連携の圧力と、それに伴う教員個人評価(学外からの相談件数、受託研究や共同研究の状況、学外での活動状況などが個人の業績の評価項目になるし、昇任給にも反映したりする)の前には、目をつぶるということが十分に起こりうる。

これはふつうはモラル・ハザードと呼ばれるような状態なんだと思うんだけど、さてここでのモラル、と云う言葉の意味はいったいなんだろう。

#それはそれとして淡々と実効性の見込める対策の検討に繋げるapjさんはらしいというかさすがだ。


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共通テーマ:日記・雑感

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コメント 4

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>技術開発者さんの持論にあるような、なんと云うかもともと特定の技能を持った人間にノーブレス・オブリージュのごとく背負わされていたものを、とりあえず金銭価値に換算する。明解になったような気がするけれど、それでこぼれ落ちるものはないのか。

 私が「原始の村の巻き狩りの勇者」なんてたとえ話で示すように、もともとノーブレス・オーブリッヂなるものは、金銭的な価値で生ずるものではないのだろうと思うわけです。原始の村の勇者はどれほど怖かろうと他の村人が追い出した猪を仕留めなくてはならない訳ですが、肉の分配に関してはたの村人と同じであり、あるとしたら胸の飾りに新たな猪の牙が一つ増えるだけなんですね。その代わり、その胸飾りの牙は村の子供たちのあこがれの的であり、「僕も大きくなったら仕留め役として村の勇者となるんだ」なんてね。

 この現実的な利益が薄かろうとも、勇者と讃えられるということのために危険な役割を引き受け、そしてこなすというのは、実の所、人間の不合理さなんです。人類は自分たちの持つ不合理な性質を矯正するばかりでなく、こうやって利用する事でも生き延びてきたわけです。

 ニセ科学の蔓延に示されているものは、「人間が自分たちの不合理さとうまく付き合う方法を忘れてしまった」という事のように思える訳です。不合理さが生き延びるのに不都合な形で現れない様に枷をはめてきた文化を「不自由である」と捨て去り、生き延びるために旨く利用してしてきた不合理さを「不合理である」と捨て去った先にあるのは、なんなのでしょうね。
by 技術開発者 (2007-10-10 07:58) 

pooh

> 技術開発者さん

結局のところ人間の仕様に変わりはないわけで。合理性と云うのはそれをたわめるものではあるんでしょうね。だからそもそも無理があるもので、だからこそ歩みは遅くとも進歩の余地はある、ということでもあるんでしょう。

でも、その合理性そのものが柔軟性を失ってしまうこともある。もともとそれは抑圧の仕組みでもあるわけで。結局のところよりよいバランスを求めて大局的には進歩して来ているにしても、それは直線的な歩みではない、と云うことなんだろうとも思います。

あぁ、まとまらない。いずれにしろこう云うときに学びうる材料は、やはり歴史なんでしょうね。漠然としたレスになってしまってすみません。
by pooh (2007-10-10 23:36) 

技術開発者

こんにちは、 poohさん。

>あぁ、まとまらない。いずれにしろこう云うときに学びうる材料は、やはり歴史なんでしょうね。漠然としたレスになってしまってすみません。

 歴史と言えば歴史なんですが、もっと身近な表現をすると「経験的に鍛えられたシステムとか作法」といったものには「うまくいく知恵」のようなものが含まれていて、それを「不自由だよね」「不合理だよね」と捨て去ろうとするときには、「ちょっとまて、何か大事な部分が含まれていないか」と省みることが重要だろうと思うわけです。最近の風潮をみると、そういう「ちょっとまて」がないまま、「うん、不自由だから捨ててしまおう」「うん、不合理だから捨ててしまおう」としている感じを受けるわけです。

 新しい学説や技術を世に出すときには、まず学会で発表し、様々な批判などを受けた上で、さまざまに確認され、そして「学会でも認められる」という状態になってから、世に出す。マスコミもそのように成ってから「最近の学説では」と取り上げて世に出す。これは、それなりに経験に鍛えられたシステムであり、新規なことが世に広まるための作法であったのだろうと思うわけです。そしてこれは或る意味で「不自由なこと」でもあります。時にはそのことにより新規な学説や技術が世に出るのが遅くなる事もあるでしょう。しかし、そういうシステムや作法を「不自由だから」と捨て去った形が、マイナスイオンやら血液型性格診断のように学会をバイパスした形でのニセ科学の蔓延を招いている訳です。

 同じような事が俗に「偉い人」にも起こっている気がします。旧制の帝大出の先生たちが持っていた「自分たちは『偉い人』である。『偉い人』としての責任がある」という意識を示すのに、ある先生に言われた『最近の若い人は会社を定年に成ったからと言って、JIS制定のような世の中のための仕事を辞めてしまう、困ったものです」なんて発言を紹介したりしますが、考え方によっては、これほど不合理な話も無いわけでして、その道の専門家と言われる様になったら、仕事が定年になってもその道の専門家である責任だけは果たし続けろという話ですからね。でも
その先生の意識ではなんら違和感は無かったわけでして、90過ぎでお亡くなりになる2日前まで、JISの関係の打ち合わせのためのアポを人と取られていたりしたわけです。こんな意識を帝大出の「偉い人」にもたらしてきたシステムや作法というのが、たぶん世の中のどこかにはあったのだろうと思います。そしてそれは経験的に鍛えられた面があり、そうすることで、「偉い人」に現実的な利益とバーターされることのない能力の提供をさせていたのだろうと思うのです、不合理ではありながらね。
by 技術開発者 (2007-10-11 08:40) 

pooh

> 技術開発者さん

これは、とても勝手な受け止め方かもしれないんですが。

合理性、と云うものの捉え方があって。
合理的である、と云うことは、大量の不合理を処理するなかで論理を見つけ出す、と云う過程を経たうえで成立するような気がします。その、おおもとの大量の不合理性(これは直感的に理解できない、と云うだけのことでもあり得るんですが)にいちいち立ち向かってはいられないから、その果実だけ利用しようとする。

このことはなにもおかしくなくて。それが人間の積み重ねて来たことですから。智恵、と云ってもいい。でも、その背景に(誰かが格闘して来た)大量の不合理性がある、と云うことに思いが及ばないと、その果実は過剰に抽象化されてしまう。

お金、と云うのは誰にでも分かる。
ぼくは以前、足し算ができないひと、と云うのに会ったことがあります。このひとは50+50が計算できなかった。でも、50円玉が2枚あると100円になる、と云うことは分かったんです。ちょっと驚きましたけれど。

分かりやすさ、と云うのがどんな事柄を捨象して、どんなふうに成り立っているのか、と云うのを理解しないひとがいます。ある価値、と云うものが金銭に換算されないこともあり得る、と云うのを感覚として掴めないひとも多分いるんだろうと思います(そう云うひとが多分「ニセ科学として罵られたせいで金儲けがふいになるひとたち」に同情したりするんだろうと思います)。
でも、それはほんとうに(とりわけその本人にとって)危険なことではないか、と云う気がします。
by pooh (2007-10-11 22:37) 

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