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歴戦 [よしなしごと]

こんな記事を読んだ。

去年の3月11日に起こったことは、だれにとっても恐ろしい体験だった。程度の差こそあれ。津波に洗われた地域に住んでいたひとたちにも、そこに隣接する地域のぼくたちにも、そして直接の被害を受けなかったひとたちにも。
草野マサムネが倒れたことを、ぼくは笑えない。例えばテレビを通じて映像を目にするだけで、深く傷つくこともあるのだ。

ぼくは自分の知っている海岸線が破壊された光景を、少なからず肉眼で見た。そこにまつわる、古いものも新しいものも取り混ぜたぼく自身のいろいろな記憶ごと、破壊された光景を。いまここで、自宅にいてそれらを思い起こすだけで、胸が苦しくなる。ぼくのような極端に神経の太い人間でさえ、そうなのだ(ちなみにこう云ったことがあるから、ぼくは「自分の目で被災地を見ておくべきだ」と云う意見には簡単に賛同できない。修猷館高校の英断には、さすが、と感服するけれど、それはこの研修旅行が修猷らしく、生徒の希望を前提としたもの、として催行されているからでもある)。
「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」…。被災者の“目撃談”は絶えない。遺体の見つかっていない家族が「見つけてくれ。埋葬してくれ」と枕元に現れたのを経験した人もいる。
だから、こう云うことを経験するひとが存在するのは、感覚的に理解できる(ぼくですら見てしまいそうだ、と云う意味で)。引き起こされているのはだれにも否定しようのない、実体験だ。

菊地誠の科学と神秘のあいだで述べられている、主要なテーマの一つでもあるけれど。客観的にはどうだとか、ましてや科学的にどうだとか云う話では、これはない。
ひとがじっさいに感じる、そのひとにとっての、そしてなんらかの対処が必要な事実があって。こんな場合に、たとえば科学的な事実をよるべとしてなんらかの行動を起こすことは、最適な選択肢でない場合もありうる(ちなみに震災以降「科学は無力だ」と云う言説を発したがっている向きには、それが無力である状況が継続することをなんらかの理由で肯定的に捉えていたり、ときにはそのような状況をつくることにみずからコミットしていたり、と云うケースが多いように思う)。でも、ぼくたちが社会のなかで共有し、発展させてきた知恵は、もちろん自然科学だけではない。
宮城県栗原市の通大寺(曹洞宗)の金田諦応住職も、「いる、いないは別にして見ているのは事実。みな、心の構えがないまま多くの人を亡くした。親族や仲間の死に納得できるまで、上を向けるようになるまで、宗教が辛抱強く相談に乗っていくしかない」と話す。
いま存在する、歴史のある穏健な宗教では、教義上幽霊の存在をはっきりと肯定しているものはない、みたいに認識している(お化け、と云うと微妙だけど、すくなくともここで語られているような存在としては)。とは云っても中心的な教義から離れた部分では(土俗信仰との実践上必要な混交もあるだろうし)それらに向きあう局面は当然発生するはずで。宗教が、ひとのこころを扱う分野にある以上。
云い方を変えると、歴史のある穏健な宗教は長年それらと闘い、または折り合いをつけて共存してきた、その方面では洗練された有効な戦術を持ち、数多くの歴戦のつわものを擁するエキスパート集団のはずだ。
日本基督教団仙台市民教会(プロテスタント)の川上直哉牧師は「(お化けは)行政には対応できないし、親族や近所にも相談しにくい」と話す。
宗教が蓄積してきた知恵に頼れる部分があるとすれば、それはとても心強いことだと思う(カルトやニセ科学が跋扈するのを防ぐ、まさにそのためにも)。まぁ、「ひとを見て法を説く」と云ってしまえば、簡単にも見えてしまいかねない話なんだけどね。

ところで余談。
宮城県石巻市の寺院では昨年、クリスマス会を開き、牧師と僧侶の両方が講話をした。
これ読んで蝉丸Pの散多菩薩法要を思い出したのはぼくだけでしょうか。ぼくだけですね。
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pooh

もひとつ余談。
ぼくには霊感のたぐいが極端に弱い。どれくらい弱いかと云うと。

バリのウブドに行ったときに、かわたれ時のモンキーフォレストにひとりで紛れ込んだ(目が覚めてしまったのだ。歩いていける距離のホテルに投宿していたし。昼間以外はモンキーフォレストは入場料が取られない)。夜明け前のうすぐらい森の中、まぁ森とは云っても整備された人工のサンクチュアリなので、てくてく歩く。猿はいるけど人影はない(観光客も、現地のひとも)。

そんな時間のそんな場所でも、怖くない。なかにある、有名なパワースポットでもあるプラ・ダラム(死者の寺)の前に立っても怖くない。土葬場(墓場、ではない。バリ・ヒンドゥーでは土葬したあと掘り起こして火葬、そのあと墓は作らない)にも行き当たったけど、平気だった。

霊感の強いひとには、ストレートフラッシュ的状況だと思う。そう云うわけでぼくは筋金入りのスピリチュアル的感受性レスなのだけれど、気づいてないだけでうじゃうじゃいるらしいバリお化けの何匹かくらいは連れて帰って来てるかも(いまも背中に一匹くらい背負ったままなのかも)。

そんなぼくでもいまのこのあたりの地域でお化けを見ちゃうひとたちの気持ちはわかる、と云う話を書きたかったんだけど、ほんとに余談になってしまった。
by pooh (2012-01-19 21:12) 

pooh

システムに障害が出てました。読みづらくなっててすみません。
by pooh (2012-01-20 05:53) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>そんなぼくでもいまのこのあたりの地域でお化けを見ちゃうひとたちの気持ちはわかる、と云う話を書きたかったんだけど、ほんとに余談になってしまった。

なんていうか、変な話だけど「行きつけの病院」の中に「行きつけの心療内科」を持つことをお勧めしたりするのと同じ感覚で、「いきつけの宗教施設」というのがあっても良いと思うのね。毎週礼拝とかはしなくても、年に何回かお経を聞いて法話を聞くような場所ね。私は祖母に子守されて育ったから、結構、そういう経験があるんだけどね。

まあ心療内科の方は「何か有ったときのため」みたいな感覚が宗教施設より大きいけど、「いきつけの宗教施設」というのはもっと地域コミニケーションの場みたいな感覚でね。できればその宗教施設は或る程度「枯れた」奴でね(笑)。

なんていうかな、そういう「いきつけ」があるとお化けを見ちゃった時に飛び込むと「じゃあ一緒に供養しましょうか」と、和尚さんと一緒にお経の一つも唱えて、「見えるものなのですよ、でも心から安らかにと願えばなんの問題もないものですからね」と法話の一つも聞けば、それで結構、心が休まるみたいな面がないでしょうかね。

by 技術開発者 (2012-01-23 15:45) 

北風Mk-2

技術開発者 さま

>「いきつけの宗教施設」というのがあっても良いと思うのね。毎週礼拝とかはしなくても、年に何回かお経を聞いて法話を聞くような場所ね。私は祖母に子守されて育ったから、結構、そういう経験があるんだけどね。

田舎では子供のころはまだ檀家とかあったから経験がないでもないですが、今となっては。

今、「いきつけ」というか顧客をえようと営業努力をする宗教(施設)は、或る程度「枯れた」奴じゃない新しいものが多いからなんとも。
by 北風Mk-2 (2012-01-23 21:08) 

北風Mk-2

>云い方を変えると、歴史のある穏健な宗教は長年それらと闘い、または折り合いをつけて共存してきた、その方面では洗練された有効な戦術を持ち、数多くの歴戦のつわものを擁するエキスパート集団のはずだ。

「歴戦」はそうだと思うのですが、この見方には私は違和感を持ちますね。そういうノウハウを集めて蓄積する集団ではないですから。

身近な方を無くした人や、子供をなくした母親が「みえないはずのものをみてしまう」、戦争で敵兵などを殺した兵士が「みえないはずのものをみてしまう」といったことは、それこそ既存の有名な宗教が生まれる前からずっとあったに違いないですし、それと共存はしてきたし、個々の宗教家が対応に悩んだりはしてきたとは思いますが。

例えば、放射能の影響について「専門家」の言を求めるのは、修行というか学習・実践において「知識」や「知恵」をもっているはずだ、というところがある。「大学の文系のえらい先生」も知識はもっているかもしれないけど、修行や実践においてそうした知識をえているか、というところからやはり「専門家」には及ばない。
エントリのケース「大学の文系のえらい先生」に放射能の影響について相談しているような印象をうけなくもないです。

宗教家の「修行」において、「それらと闘う」知恵などを得られるものなんでしょうか?宗教の教義やノウハウが「歴戦」で「それらと闘う」知恵などを積み重ねているものならばその過程で身につくのでしょうか。
本来の宗教家の「役割」にそうした心の傷跡を持つ人の相談を受け適切なアドバイスをするというのはあるのでしょうか。あるとすればそれはその宗教のどういう教義からでておりアドバイスも何からでるものでしょうか?
とか思ってしまって。

いろいろな宗教が集まってというところが、個々の宗教には歴史があるのだから蓄積があるのならそれに基づいた対応をそれぞれとればいいようなものを、上記で書いた個々の宗教の「蓄積」があまり有効でないというように感じてしまう。
by 北風Mk-2 (2012-01-23 21:18) 

pooh

> 技術開発者さん

> 「いきつけの宗教施設」というのがあっても良いと思うのね。

まぁ、そう云う使い方のできる適切な運用がされている場所があるといいな、とは思いますけどね。ただまぁある意味、宗教も運用によっては、少なくとも自然科学と同程度には危険なものでもあるのであって。

> できればその宗教施設は或る程度「枯れた」奴でね(笑)。

そうですねぇ。
by pooh (2012-01-23 21:30) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 今、「いきつけ」というか顧客をえようと営業努力をする宗教(施設)は、或る程度「枯れた」奴じゃない新しいものが多いからなんとも。

このあたりがまぁ、悩ましいところなんですよね。

> そういうノウハウを集めて蓄積する集団ではないですから。

ノウハウ、と云うか、結局のところそのあたり、探求してきたものをそのまま出してくれればそれで充分役に立つんだと思うんですね。

> エントリのケース「大学の文系のえらい先生」に放射能の影響について相談しているような印象をうけなくもないです。

自然科学の専門家にできない有意義な助言を、文系の先生はしてくれるかもしれませんよ。放射能の影響、についても。
一定以上の広範囲に及ぶ問題、と云うのは、そう云う性格のものだと思っています。ぼくがここで文系的なアプローチを固持したまま何年もニセ科学の問題について論じているのも、似た部分があるかと。

> 宗教家の「修行」において、「それらと闘う」知恵などを得られるものなんでしょうか?

得られると思いますよ。少なくともそれらがどんなものなのか、についての(実体験を通じた)理解は得ているはずなので。

> いろいろな宗教が集まってというところが

じつはぼくもこの部分は余計だよなぁ、みたいに思ってました。べつに集まる必要はない。
ただ、協力する、補いあう、と云う角度については、とくに否定するべきことでもないなぁ、みたいにも思います。
by pooh (2012-01-23 21:38) 

技術開発者

こんにちは、北風Mk-2さん。

>宗教家の「修行」において、「それらと闘う」知恵などを得られるものなんでしょうか?宗教の教義やノウハウが「歴戦」で「それらと闘う」知恵などを積み重ねているものならばその過程で身につくのでしょうか。

まあ、全ての宗教がそうだといういう気は無いけど、幾つかの宗教は「思考連鎖の停止」みたいな修行をするんですね。これは、或る意味で科学的思考の逆方向の訓練とも言えるんです。例えば目の前に花が一輪あったとしますね。「花がある」と認識してもそこから先に何の連想も起こさない訓練というのが禅だったりします。科学的思考の訓練というのはこれの逆でしてね。「何の植物の花だろう」「香りは良いのだろうか」「どのくらい咲き続けるのだろう」とか連想をしっかり伸ばし、それを確かめることで知識を増やすのが科学的な思考訓練だとすると、或る認識した事象をそこでそのまま留めるというのが、禅に限らず宗教には結構ある訓練なんですね。

この訓練が直接に人の心の迷いを救うという事では無いのですが、こういう訓練をある程度やった人は「人の迷いに対する良いアドバイザー」に成りやすいという面はあると思います。昔、心理カウンセラーについて色々調べたときに「真面目に良く考えるカウンセラー」が必ずしも良い相談役でもなく、むしろ、「深くは考えないけど人の悩みを受け止めるカウンセラー」がかなり良いという話があるわけですね。さらにいうと「よく考えるカウンセラー」は本人の負担が大きくて心の不調を起こしやすいなんて話もある。

なかなかうまく表現出来ないのですが「お化けを見ました」という相談みたいな部分で一番大事なのは「そのお化けはどうして見えたのか」という思考の部分ではなくて、「見えたんですね」とそれを受け止める力なんですね。「思考連鎖の停止」みたいな修行をしていると、それがやりやすいだろうという気はします。

by 技術開発者 (2012-01-24 09:47) 

北風Mk-2

Poohさま 技術開発者さま

ありがとうございます。
宗教が有効なケースがある・宗教のある種の力を否定するわけではなくて、歴戦といったところにちょっと引っかかって。

> >宗教家の「修行」において、「それらと闘う」知恵などを得られるものなんでしょうか?
>得られると思いますよ。少なくともそれらがどんなものなのか、についての(実体験を通じた)理解は得ているはずなので。

ここなんですよね。文系の例えは失礼しました。ようは「学問」というのがまさに「歴戦」の蓄積なわけでそれと比して「歴戦の蓄積」がどうなのかなあ、というところで。
200年前の医師と今の医師で、「患者との実体験」の部分はひよっとしたらそこまで大きくはかわりはないかもしれない。でも、「修行」において習得する「学問」としての「歴戦で蓄積された」知識などの部分で圧倒的に差がある。(個人として資質あるいは体験としては、過去の名医の方があるいは上なこともあるでしょうが)

「心の傷に対処できる力」が、そうした蓄積ではなく個人の資質や個人の実体験に大きく依存するであれば、宗教家でなくとも、それらが信頼できる誰か、でいいような。
個人的には、「歴戦で蓄積された力」があって欲しいと思うのですが、じゃあ200年前の宗教家と今の宗教家で「対処できる力」は大きく差があるのかなあ、と。それが差があるのであれば、「修行」を通じて身につけることができるものであるはずで、それが個人の資質によるのであれば、なんというかエントリでいう「歴戦」というものは、私が宗教家の「力」を信じるとすれば、それは実際には何なのかな、と。

by 北風Mk-2 (2012-01-24 12:21) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、なんと云うか、宗教的な修行にともなって修行者に起きる神秘体験、みたいなのがあるじゃないですか。でもってそれは、個人の体験としては「事実」なのですが、それでもある一定の状況に(修行におけるフェイズとして)個人を置くと、高頻度で発生するもので。で、歴史的な積み重ねを持つ宗教は、それが発生することを織り込んでいるので、修行の過程での神秘体験を(それがどのようなものか踏まえたうえで)にせものである、と否定することができる。本当の修業の成果はそこにはない、そこに立脚してはいけない、と伝えることができる。
こう云う要素を内包する思想が、例えばひとびとを苦しめている、なんと云うか超常的な「個人的事実」みたいなものに対応するにあたって有効なのではないかな、みたいな部分です。

> 「見えたんですね」とそれを受け止める力なんですね。

さらに受け止めたうえで(「見える」と云うことを、見える側の実感から肯定できるわけですから)その対処法を提供できる可能性、ですね。

現状、適切なグリーフケアを担い切るだけの力が伝統的な宗教にあるのか、と云う部分については、北風Mk-2さんの感覚がおかしいとはまったく思わないんです。それでもシーズはあるはずだし、それを用いて立ち上がっていただくのは、望ましいことだと思います。
by pooh (2012-01-24 12:37) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 200年前の宗教家と今の宗教家で「対処できる力」は大きく差があるのかなあ、と。

相応の歴史を持つ現行の宗教も、200年前のままではないですよね。伝統的な宗教もまた、変化のなかにあるのであって。

> 「心の傷に対処できる力」が、そうした蓄積ではなく個人の資質や個人の実体験に大きく依存するであれば、宗教家でなくとも、それらが信頼できる誰か、でいいような。

ひとのこころに個人差は大きいですけど、共通するおおまかな基本構造、みたいなのはあると思うんです。で、やっぱりそこに対峙してきた歴史は、それはそれだけでそれなりにしっかりしたものなのではないか、みたいにも思うんですよね。
by pooh (2012-01-24 12:46) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>歴史的な積み重ねを持つ宗教は、それが発生することを織り込んでいるので、修行の過程での神秘体験を(それがどのようなものか踏まえたうえで)にせものである、と否定することができる。本当の修業の成果はそこにはない、そこに立脚してはいけない、と伝えることができる。

ややこしい言い方をすると「主観の客観視」なんです。禅を組んでいて、大日如来が側にいる感じがするかも知れないけど、それすら、「大日如来がいる」以外の何物でもない。「自分の修行の成果だ」これは連想による主観の発展だから修行が足りない訳ね。「今の自分に大日如来が見えるはずはない」これも連想による主観の発展だから修行が足りないのです。ただ、自分の側に大日如来がいると感じたら「感じたというだけのこと」になるのが禅ですよ(笑)。

>こう云う要素を内包する思想が、例えばひとびとを苦しめている、なんと云うか超常的な「個人的事実」みたいなものに対応するにあたって有効なのではないかな、みたいな部分です。

なんていうか、現代社会では客観的事実に基づいて物事を考えることが合理的という風潮の中で、主観を主観として受け止める力が弱まり、主観を客観視して主観の連想拡大による暴走を止める力はさらに弱まっていますからね。

なんていうかな、変な話をすると、昔悪徳諸法でしつこい押し売りを断る一番良い文句は「欲しくない」だなんて言っていたのを思い出すのね。例えば健康食品の押し売りに「効果が無い」みたいな客観的な事で断ろうとするとなんだかんだ「効果がある」みたいな話を聞かされ、場合によっては「言い訳君が言い訳につまる」に押し込まれるから、「効果が有ろうが無かろうが欲しくない」という主観一本槍で断ると相手は勧誘文句をやがて失うなんてね(笑)。

変な話を出したけど、主観的価値観というのはけっこう人間にとって大事なものなので、それをきちんと自分で受け止める力って大事なのね。ただ、主観は野放しにするとどんどんと連想拡大する面はあるのね。「お化けが見えた」というのはそのまま受け止めれば「見えただけ」のものだけど、「何かお祓いでもしないとたたりでもあるのじゃないか、いゃ、きっとあるに違いない」なんてのが暴走ね。受け止める力を磨くというのは、その主観に暴走をさせないテクニックも含むわけです。

by 技術開発者 (2012-01-24 13:54) 

pooh

> 技術開発者さん

> 自分の側に大日如来がいると感じたら「感じたというだけのこと」になるのが禅

そう云うお話だと思います。
それ以上でもそれ以下でもなくて、でもそれは無価値、と云うことではない。

> 主観的価値観というのはけっこう人間にとって大事なもの

そう思います。ないがしろにしていいものではない。取扱注意。
ただ同時に、それは主観であり、最終的に共有し得ないものであるのも確かなんですよね。なんかぼく、そのあたりのバランスが大事、みたいな話ばかりしているような気もしますが。
by pooh (2012-01-24 18:26) 

北風Mk-2

> 自分の側に大日如来がいると感じたら「感じたというだけのこと」になるのが禅

なんというか微妙なところで、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」(魔境-wikipediaより)というのもまた、禅なわけで。

宗教はその歴史の中で非常に多くのものを蓄積しているはずなんですが、それは外からはかなりの理解をしないとみるのが難しいとは思うのですね。
禅ではある種「悟る」ことが一つの目的なんでしょうが、「悟る」ために修行する「歴戦」のなかで、座禅とかのスタイルは分かりやすい変化ですが、俗物的に、・・年前と比べて「悟りやすく」なっているのか「悟るためのノウハウが蓄積されているか」といえば、まあそうではない。じゃあ、どこにどう蓄積が、となると、理解することがそう簡単じゃない。

>> 200年前の宗教家と今の宗教家で「対処できる力」は大きく差があるのかなあ、と。
>相応の歴史を持つ現行の宗教も、200年前のままではないですよね。伝統的な宗教もまた、変化のなかにあるのであって。

上で書いたように容易ではないんですが、眼前にいる相談にのってくれるお坊さまなり牧師さまにじゃあその変化はどういう形で力になっているのか(いかに宗教が変化しようがお坊さまなり牧師さまなりに還元されないのであれば、それはエントリのようなケースでは意味がない)、ということへの宗教の側からのPRが欲しいのですね。

また、教義とかだけではなく、庶民と宗教(例えば仏教)との関係というか位置づけというのもまた変化のなかにあります。それをどのように位置づけをとろうと「歴戦」してきたか、というのも宗教の変化の内容でもあります。
200年前なら「怪異」があれば、宗教に何か求めていた時代でしょう。
伝統的な宗教では時期は個々の宗教によるけど庶民と共存していた時代がある。大災害はさておき、少なくとも四苦八苦は常に人とともにあって、個々の宗教が庶民に対してどうかかわろうとしてきたかというのも「歴戦」の記録ではある。
「科学技術」が発達しても「宗教が庶民とともにある」国もある。日本でも今でも法事(葬式・何回忌)など、何かあったときにお寺などと関係がないではない。でも、「怪異について」お寺などに相談するという立ち位置にいるかといえば、こうした記事があること自体、そうなっていない。
じゃあ、立ち位置という点でも、日本でこれまで「宗教」はどう「歴戦」してきたの?という疑問も持つのですね。

お書きになられた「適切なグリーフケアを担い切るだけの力があるの?」という感覚については「対処する力」に対してだけでなく、「庶民とのかかわり合い・立ち位置をつくる力」、さらにいえば、現在の力、と過去の経緯とに対して。
by 北風Mk-2 (2012-01-25 01:26) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」(魔境-wikipediaより)というのもまた、禅なわけで。

うむむ。
それ、基本的にはおんなじことを云っているんじゃないでしょうか。「自分の側に大日如来がいると感じたら『感じたというだけのこと』になる」と云うのと。

> 宗教の側からのPRが欲しいのですね。

言及先って、そう云う記事だと思うんですよ。いやじっさいのところ、そう云う需要はそこそこ満たしてきたと思うんですが、状況が状況だけにそこから踏み出そう、みたいな。

> 「怪異について」お寺などに相談するという立ち位置にいるかといえば、こうした記事があること自体、そうなっていない。

それもできるよ、やってみるよ、って話なんだと思います。ニーズの増大にひとはだ脱ごう、みたいな。

> 対処する力」に対してだけでなく、「庶民とのかかわり合い・立ち位置をつくる力」、さらにいえば、現在の力、と過去の経緯

ここはまぁ、これから問われることなんだろうと思います。
グリーフケアなんかは、たとえばお寺はずっとその一部を担って来ましたよね。「葬式仏教」とか云われながら。でもその根幹は、やっぱりその本来の宗教的機能に発端しているものだと思うので。
by pooh (2012-01-25 08:13) 

北風Mk-2

>それ、基本的にはおんなじことを云っているんじゃないでしょうか。「自分の側に大日如来がいると感じたら『感じたというだけのこと』になる」と云うのと。

というか、上のコメントの、
>歴史的な積み重ねを持つ宗教は、それが発生することを織り込んでいるので、修行の過程での神秘体験を(それがどのようなものか踏まえたうえで)にせものである、と否定することができる。本当の修業の成果はそこにはない、そこに立脚してはいけない、と伝えることができる。
に対応している感じですね。

瞑想中に仏が表れることを、にせもの(魔境)としている。
「人を見て法を~」といいますか、修行中などの段階においては「自分の側に大日如来がいると感じたら『感じたというだけのこと』になる」ともいかないわけで。

>ここはまぁ、これから問われることなんだろうと思います。

これはそうなんでしょうね。
四苦八苦はなくならないでしょうし、震災以外でも、勤労者の心の病や若者の不安などのニーズはありますし。
by 北風Mk-2 (2012-01-26 01:13) 

pooh

> 北風Mk-2さん

> 瞑想中に仏が表れることを、にせもの(魔境)としている。

いや、だからそう云う話で。
メカニズム的に現れるものであって、そこに意味づけを見出しちゃだめだよ、みたいな感じですかね。カトリックなんかでも、奇跡の認定はとてもシビアですし。

> 四苦八苦はなくならないでしょうし、震災以外でも、勤労者の心の病や若者の不安などのニーズはありますし。

勝手に広範に期待してもいいものなのかどうかは、まぁわからないわけなんですけどね。
by pooh (2012-01-26 05:58) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>勝手に広範に期待してもいいものなのかどうかは、まぁわからないわけなんですけどね。

宗教に限らず、人生の哲学的な部分を時に見つめ直す時間というのは持って欲しいと思っていますね。別に宗教でなくても構わないけど、なかなか環境が整わないとそう真面目にも考えにくいのでね。

前に何かの時に「(何かの影響で)死ぬという事」を「いずれは死ぬ人間がそれまでの時間を短くしてしまう事」と捉えるという話をしてしまったことがあったと思うけど、こういう見方というのは時に心を落ち着けて、「人生とは」なんてちょっと真面目に考えてみないとなかなか考えられないのでね。

by 技術開発者 (2012-01-26 12:56) 

pooh

> 技術開発者さん

> 人生の哲学的な部分を時に見つめ直す時間というのは持って欲しい

まぁだれしも持ちたいものではありますが、みたいな話ではあるんですけどね。
by pooh (2012-01-26 19:52) 

北風Mk-2

まあ、「自分の側に大日如来がいると感じたら『感じたというだけのこと』になる」というのが禅問答というかきわどい領域の話ですからね。

>> 瞑想中に仏が表れることを、にせもの(魔境)としている。
>メカニズム的に現れるものであって、そこに意味づけを見出しちゃだめだよ、みたいな感じですかね。

ええっと、「瞑想中に~」というのははで、メカニズムに意味づけを見出して切りなさい、ということですね。
下品な話になるけども、仏じゃなく「女性の裸身」としてみればクリアになるんじゃないでしょうか。瞑想中にそれが現れたとして「そこに意味づけを見出してはだめ」とか「ただ感じる」とかいう前に、それが浮かんでしまうという己の状態やらメカニズムやらを考えて邪念をどうにかしないといけないわけで。

大日如来についても、禅問答というかきわどい領域の話というのは

・何かを感じるのではなく、大日如来なんですね?
・それは己の心が生み出した幻覚じゃないんですか?
 大日如来を感じた自分とか虚栄心などが生んだものではないんですか?
・なぜ、それが大日如来と分かったのですか?
 姿・形が仏像や絵に似ている? それは真の姿なんですか?
 声を聞いた? 幻聴じゃないんですか? 真の声なんですか?
 姿・形が判然としないもの? なぜそれを大日如来と…・
 何かを大日如来と認識した時点である種の意味づけがされてますね?
・「感じたというだけのこと」とはどういうことですか?
 見てそれを大日如来と認識する→上記の問題
 声を聞いてそれを大日如来と・・・→上記の問題
 姿・形が判然としないものに対して…→上記の問題
・「感じたというだけのこと」が己の生み出した幻覚かなどの疑問を持たずに、「単に現象を追従するだけのこと」であれば、魔境に落ちますよね?

といった、自問自答になんらかの解をだして初めて、感じたというだけのことと言えるかもしれない、という話ですね。(じゃあ、それはどういう境地なんだ、というのは、わかりません、というしかない)
上の自問自答をそもそもしなかったりところどころスルーしたりして「ただ感じたというだけのこと」なんてすましたことを言うのはエセでしかないわけで

>それ、基本的にはおんなじことを云っているんじゃないでしょうか。「自分の側に大日如来がいると感じたら『感じたというだけのこと』になる」と云うのと。
>いや、だからそう云う話で。

というのがよくわからなかったので、蛇足ですが長文で書きました。
by 北風Mk-2 (2012-01-26 21:54) 

pooh

> 北風Mk-2さん

まぁぼくも宗教者としての修行をしたことはないので、詳細はわかりませんけれども。ただ、宗教的修行の過程にはそれらの神秘体験を現出させる条件を揃えて、実際に体験させて、そのうえでそれをどう捉えさせるか、と云うステップが含まれている、と云うケースが多い、と云う認識をしています(カルトなんかだと、その神秘体験を捉え直させる、と云うステップを省略して、神秘体験そのものを信者のコントロール手法として利用したり)。
by pooh (2012-01-27 08:18) 

pooh

http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/disaster/2862313/8585392

そう、感じてしまうと云うのは、事実なんだ。神秘ではあるけど、不思議ではなく。
そしてそれは受け入れるための、そうして忘れないための大事なプロセスなんだ。でもそのプロセスそのものが、とても辛いものだったりもするんだ。
だから。力を貸してください。
by pooh (2012-03-03 18:55) 

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